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7 我知らず重なる比翼
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穏やかさの中に希望を抱き、新しい日々は輝きを増していく。
今日は博士から昼食に誘われ、王立図書館とほぼ隣接している王立科学研究所に初めて足を踏み入れた。普段、父を交えてどちらかの家で夕食を共にするほどには親しい交流を持つようになったけれど、ふたりきりでとる食事はこれが初めてだ。
父が心から信頼する博士。
聡明で鋭く、大らかで時に少年のような彼は、いつしか私の憧れになっていた。
けれど、それは秘密。
私はただこの穏やかな日々を、小さな幸せのひとつひとつを、大切に胸の中で抱きしめて暮らしていたい。大きな事は、望んでいない。
「……」
事前に渡された簡易的な見取り図を頼りに、博士の研究室を目指す。
すると通路で、ちょうど出ようとしている所長とすれ違った。壮年の所長とは父を介して何度か顔を合わせた事がある。
「ごきげんよう、レディ・ラモーナ」
「ごきげんよう、ヘールズ所長。お勤め、お疲れ様です」
「博士ですか?」
口髭を蓄えた所長が相好を崩す。
博士が自らそう名乗るという理由と共に、関わる人たちもまた、彼を博士と呼ぶ事で微妙な力関係の均衡を保っているのだと、ある時から気づいた。
名を呼べば、それはフィンストン侯爵令息である事を示してしまうから。
「はい」
「すっかりおしどり夫婦ですね」
「……」
私は言葉を失った。
所長は朗らかな笑みを浮かべたまま手を立てて、軽い会釈と共に飛び出していく。急ぎの用が、あるのかもしれない。
ぽつんと、立ち尽くす。
言われた言葉が、頭の中で、反響する。
「……」
おしどり夫婦。
私と博士に、節度を越えての関係はない。
けれど、そういう噂が立ってしまっているのだとしたら、問題だ。
私はこの出来事をいち早く伝えるべく、見取り図を頼りに足を速めた。
動揺して脈拍があがり、汗も吹き出し、なんだか暑い。
3階。前庭に面した角部屋。
扉に博士の名が刻まれた札を確かめ、息を整え、頬を仰いだ。
「博士?」
「やあ、ラモーナ。迷ったかい?」
博士の研究室には、ランプに照らされた机の他、硝子戸付きの書架に、見慣れない大掛かりな装置が3つ、調合台らしき台、それに棚には薬品らしき液体の入った無数の瓶と、鉱石のようなものが配置されている。
私は、呆気に取られていた。
「珍しいものがたくさんあるだろう?」
「……」
知的な眼差しで手元の作業を厳しく確かめ、顔をあげた時にはいつもの笑顔。
彼の隣に、並ぶ事。
その願望がなぜか、私の独り善がりの産物ではない気がして、胸が高鳴る。
「ラモーナ?」
私を呼ぶ、彼の声。
まるでそう定められていたように、初めから呼んだ、私の名前。
「シオドリック」
聞こえないように、彼の名を囁く。
口にしてみるとそれは、忽ち、私の心を支配し、増長させた。
立ち上がった博士は眼鏡を拭いて、素早く装着すると、颯爽と歩いてきて、扉のすぐ脇の台に用意されたバスケットを持ちあげ、私の背中をそっと押した。
「中庭に案内しよう。綺麗だよ」
「……はい」
博士の眼差しに、父とは違う、優しい愛情が宿っているような気がする。
「本当はいろいろ触らせてあげたかったのだけど、空腹に耐えかねて、気が気じゃなくてね。あとで〝魔法〟を見せてあげるよ」
「……」
博士は善良で、親切な人。
だけど礼節を弁えているはずの彼は、今思えば、最初からとても近すぎた。
それが、嫌ではなかった。
今では当たり前になり、心地よくて、物足りなくすらある。
「博士、私」
「なんだい?」
嬉しそうに煌めく瞳は、昼食を待ち侘びているだけ?
私の秘密を打ち明けても、許されるのだろうか。
息が苦しい。
「あ……食べながら、お伝えします」
「わかった」
足が縺れてしまいそうで、私は転ばないように細心の注意を払いながら、博士に従い中庭を目指した。
今日は博士から昼食に誘われ、王立図書館とほぼ隣接している王立科学研究所に初めて足を踏み入れた。普段、父を交えてどちらかの家で夕食を共にするほどには親しい交流を持つようになったけれど、ふたりきりでとる食事はこれが初めてだ。
父が心から信頼する博士。
聡明で鋭く、大らかで時に少年のような彼は、いつしか私の憧れになっていた。
けれど、それは秘密。
私はただこの穏やかな日々を、小さな幸せのひとつひとつを、大切に胸の中で抱きしめて暮らしていたい。大きな事は、望んでいない。
「……」
事前に渡された簡易的な見取り図を頼りに、博士の研究室を目指す。
すると通路で、ちょうど出ようとしている所長とすれ違った。壮年の所長とは父を介して何度か顔を合わせた事がある。
「ごきげんよう、レディ・ラモーナ」
「ごきげんよう、ヘールズ所長。お勤め、お疲れ様です」
「博士ですか?」
口髭を蓄えた所長が相好を崩す。
博士が自らそう名乗るという理由と共に、関わる人たちもまた、彼を博士と呼ぶ事で微妙な力関係の均衡を保っているのだと、ある時から気づいた。
名を呼べば、それはフィンストン侯爵令息である事を示してしまうから。
「はい」
「すっかりおしどり夫婦ですね」
「……」
私は言葉を失った。
所長は朗らかな笑みを浮かべたまま手を立てて、軽い会釈と共に飛び出していく。急ぎの用が、あるのかもしれない。
ぽつんと、立ち尽くす。
言われた言葉が、頭の中で、反響する。
「……」
おしどり夫婦。
私と博士に、節度を越えての関係はない。
けれど、そういう噂が立ってしまっているのだとしたら、問題だ。
私はこの出来事をいち早く伝えるべく、見取り図を頼りに足を速めた。
動揺して脈拍があがり、汗も吹き出し、なんだか暑い。
3階。前庭に面した角部屋。
扉に博士の名が刻まれた札を確かめ、息を整え、頬を仰いだ。
「博士?」
「やあ、ラモーナ。迷ったかい?」
博士の研究室には、ランプに照らされた机の他、硝子戸付きの書架に、見慣れない大掛かりな装置が3つ、調合台らしき台、それに棚には薬品らしき液体の入った無数の瓶と、鉱石のようなものが配置されている。
私は、呆気に取られていた。
「珍しいものがたくさんあるだろう?」
「……」
知的な眼差しで手元の作業を厳しく確かめ、顔をあげた時にはいつもの笑顔。
彼の隣に、並ぶ事。
その願望がなぜか、私の独り善がりの産物ではない気がして、胸が高鳴る。
「ラモーナ?」
私を呼ぶ、彼の声。
まるでそう定められていたように、初めから呼んだ、私の名前。
「シオドリック」
聞こえないように、彼の名を囁く。
口にしてみるとそれは、忽ち、私の心を支配し、増長させた。
立ち上がった博士は眼鏡を拭いて、素早く装着すると、颯爽と歩いてきて、扉のすぐ脇の台に用意されたバスケットを持ちあげ、私の背中をそっと押した。
「中庭に案内しよう。綺麗だよ」
「……はい」
博士の眼差しに、父とは違う、優しい愛情が宿っているような気がする。
「本当はいろいろ触らせてあげたかったのだけど、空腹に耐えかねて、気が気じゃなくてね。あとで〝魔法〟を見せてあげるよ」
「……」
博士は善良で、親切な人。
だけど礼節を弁えているはずの彼は、今思えば、最初からとても近すぎた。
それが、嫌ではなかった。
今では当たり前になり、心地よくて、物足りなくすらある。
「博士、私」
「なんだい?」
嬉しそうに煌めく瞳は、昼食を待ち侘びているだけ?
私の秘密を打ち明けても、許されるのだろうか。
息が苦しい。
「あ……食べながら、お伝えします」
「わかった」
足が縺れてしまいそうで、私は転ばないように細心の注意を払いながら、博士に従い中庭を目指した。
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