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7話
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記録水晶の光が消えると、謁見の間は急に“人間の場所”になった。
光の中では誰もが平等に見える。数字も、名前も、日付も、同じ強さで浮かび上がる。
けれど光が消えた瞬間、そこに残るのは視線の逃げ方だ。
誰が誰を見ないようにするか。誰が誰に背を向けるか。誰が、半歩だけ距離を取るか。
私はそれを、床の冷たさを感じながら見ていた。
舞踏会の夜、私に向けられた視線が、今は別の方向に流れ始めている。
それは勝利の甘さではなく、ある種の静けさを伴った現実だった。
空気が、今度は彼らを裁き始めたのだ。
殿下が口を開いた。
言葉は喉の奥で一度ひっかかり、それから形になって出てきた。
「……レティシア。君の示した記録が正しいとしても、国は今、危機にある。混乱を広げるのは得策ではない」
“得策”。
政治の言葉。
責任を“最善”の影に隠す言葉。
私は息を吸い、吐いた。
胸の奥の怒りが、まだ熱を持っているのが分かる。
けれど私は、その熱をそのまま外へ出さない。
熱い言葉は、彼らにとって都合のいい“感情的な女”を生み出すことになる。
ここまできて、それは許さない。
「混乱は、既にあります」
私は丁寧に言った。
「支払い遅延は続き、徴税は乱れ、備蓄の放出は滞っています。混乱を広げるかどうかではなく、混乱を止めるかどうかです」
殿下の眉がわずかに動いた。
反論しようとして、言葉を飲み込んだのが分かる。
飲み込んだ理由は、私が正しいからではない。
記録があるからだ。
聖女セシルが一歩前へ出た。
白いドレスの裾が、床をすべる。
その動きが、舞踏会の夜と同じように見えた。
彼女は泣ける場所を選ぶのが上手い。
「レティシア様……」
彼女は私の名を呼び、声を震わせた。
声の震えは祈りの余韻に似ている。
周囲の誰かが、小さく息を呑む。
「私は……私は、ただ……苦しむ方々のために……。雨が降らない中で、できることを……」
言葉は美しい。
美しいからこそ、誰もがその中に入りたくなる。
責任から守ってもらえるから。
私はセシルの顔を見た。
涙が、頬の上で光っている。
けれどその光は、水晶の光とは違う。ただの、逃げ道を作るための光だ。
「セシル様」
私は敬称を崩さずに言った。
「祈りを否定いたしません。ですが、寄付金の受領記録が不足しています。受領の署名、契約書、支払いの控え。これらを提示していただければ、疑念は晴れます」
疑念。
私は“罪”と断定しては言わなかった。
罪と言えば、セシルは被害者になれる。
疑念と言えば、必要なのは証明だ。
証明は、涙ではできない。
セシルの唇がわずかに開き、言葉を発することなく閉じる。
言い返す言葉が見つからないのだろう。
それでも彼女は、泣き顔のまま微笑もうとする。
「……記録は、神殿で管理しておりました。私自身は……」
その瞬間、私は彼女の指先を見た。
指輪が、また光を拾う。
舞踏会の夜に見た光と同じ。
決裁印に似た意匠。
私は、その指輪を検めたりはしない。
指摘した場合にセシルに与えられる“罰”は、想像に難くないから。
ただ、逃げ道を狭めて、真実を追い求めるだけで十分。
「神殿の管理であれば、なおさら提出できます」
私は淡々と続けた。
「神殿は誠実さの象徴です。記録を示せば、民は安心します。示せないのであれば――民は不安になります」
“不安”は、脅しではない。
現実の説明だ。
現実の説明は、時に刃になる。
セシルは一度、瞬きをした。
涙が落ちる。
落ちた涙は、床に吸われる。
水を求める国の床が、涙を吸う。
私はその光景に、胸の奥で短い痛みを覚えた。
――この国は、涙で回ってしまった。
だからこそ、今、涙では回らない形に戻さなければならない。
殿下が苛立ちを隠せない声で言った。
「レティシア、君は冷たい」
冷たい。
また、あのときと同じ言葉。
便利な言葉。
私を“人でない”側に追いやる言葉。
私は、ほんの少しだけ口角を上げた。笑みではない。
これは理解の形だ。
「冷たいのは、数字ではありません」
私は言った。
「嘘です。嘘は、民の食卓を、ひいては国を冷やします」
その言葉が落ちたとき、広間の空気がまた一段硬くなった。
誰も笑わない。
誰も拍手しない。
ただ、殿下の背後に立つ貴族たちの距離が、さらに半歩広がった。
私はそれを見逃さなかった。
今回の公開監査は、大声の断罪ではない。
しかし、支持の喪失という静かな音は確実に流れていた。
そのとき、書記官長が震える声で言った。
「……殿下。支払い遅延の件、商会からの催促が限界です。これ以上遅れれば、交易が止まります。税も入りません」
商会の代表らしき男が、重い声で続けた。
「我々は祈りを尊びます。しかし、支払いがなければ物は動きません。飢えるのは民です」
誰も、殿下を責めている口調ではない。
それでも、殿下の顔がわずかに青ざめた。
責められるより怖いのは、“見放される”ことかもしれない。
殿下は、周囲を見回した。
助けを求める視線。
かつてなら、貴族たちはそれに応えたのだろう。
けれど今、彼らは目を逸らした。
目を逸らすことで、自分の名が記録に残るのを避けるのだ。
私は殿下のその視線の動きを見て、心の奥で確信した。
この人は今まで、空気に守られてきた。
空気が味方であるうちは、責任は浮かばない。
でも空気が離れた瞬間、責任は沈まない。
むしろ浮かび上がる。
「殿下」
私は改めて呼びかけた。
ここからは、最後の決算の時間だ。
いかに殿下であっても、真実から目を背けることは許されない。
「私が王都へ来たのは、誰かを破滅させるためではありません。支払いを再開し、備蓄を動かし、配給を戻すためです」
殿下の顔が一瞬、希望の形になる。
私はその希望を、甘く受け止めない。
「そのために必要なのは、責任の明確化と、再発防止です。私は条件を提示しました」
私は手元の文書を取り出した。
羊皮紙に書かれた条文。
辺境支援の固定予算、基金の公開監査の定例化、決裁記録の復旧と変更禁止、神殿会計の提出期限。
そして、違反した場合の責任者の明記。
「殿下の印を頂ければ、私は財務院の混乱を止めます」
殿下は、私の持つ文書を見た。
その目に、焦りが浮かぶ。
印を押せば、責任が固まる。
押さなければ、崩れる。
殿下は唇を噛み、やがて言った。
「……その条件を飲めば、君は戻るのだな。王太子妃として」
最後の一手。
彼はここで“婚約”を餌に、私をあるべき場所に戻そうとしている。
戻れば、また私は道具になる。
だから私は、ここではっきりと告げなければならない。
私は、深く息を吸った。
この言葉は、私の人生の軸を決める言葉になる。
「殿下」
私は丁寧に、しかし、誤解が生じないように言った。
「婚約は、私を国の道具にするものでした。――壊した道具は元に戻せば済むと、お考えですか」
殿下の顔が、固まった。
それは怒りでも、悲しみでもない。
理解できない人の顔だった。
“道具”と言われた瞬間、自分が何をしてきたかが露わになる。
「私は王都へ戻ります。ですが、それは“殿下のもの”としてではありません」
一息に、続ける。
「私は制度のために動きます。民のために動きます。……そして、辺境のために動きます」
言い終えた瞬間、広間の空気が、別の形に変わった。
拍手ではない。
ざわめきでもない。
“決着がついた”という沈黙だろう。
殿下は、視線を彷徨わせた。
しかし、もう誰も彼を守らない。
守れば、自分の名も記録に沈むから。
「……印を」
殿下は小さく言った。
それは命令ではなく、懇願に近い声だった。
書記官長が文書を受け取り、殿下の前へ運ぶ。
殿下が印章を手に取った。
赤い蝋が溶かされ、文書に垂らされていく。
封蝋の匂いが、広間に広がった。
私はその匂いを吸い込みながら、舞踏会の夜を思い出した。
あのときの印は、私を追放するために押された。
今度の印は、私を解放するために押される。
殿下が蝋の上に印を押した。
ぐっと力が入り、そして、印が離れる。
そこに残った紋章は、ただの模様ではない。責任の形だ。
その瞬間、私は胸の奥で小さく、何かがほどけるのを感じた。
勝ったからではない。
“条件”が固定されたからだ。
嘘が逃げる穴が塞がったからだ。
聖女セシルが、何か言いたげに唇を震わせた。
けれど彼女は言葉を出せなかった。
記録の前で、言葉は軽い。
涙は、もっと軽い。
重いのは、印と日付と、署名だ。
私は、深く一礼した。
「承知いたしました。これより財務院の支払いを再開し、備蓄の放出を進めます。併せて、神殿会計の提出期限を定め、寄付金の行き先を確認します」
淡々と告げると、商会の代表が深く頭を下げた。
民の代表が、ほっと息を吐いた。
その息は、祈りの吐息ではない。
暮らしが戻ることへの、現実の息だ。
殿下は、まだ私を見ていた。
目の奥に、取り返しのつかない何かが浮かんでいる。
恐れか、後悔か、怒りか。
そのどれであっても、今はもう遅い。
私は殿下の視線を受け止め、最後に一つだけ、静かに言った。
「殿下。国のため、という言葉は便利です。責任の所在を溶かします。――私は、その便利さを終わらせに来ました」
言葉は穏やかだった。
でも、それは刃より深く刺さる言葉だったと思う。
なぜならそれは、殿下の逃げ場所そのものを消すから。
私は背を向けた。
背を向けても、もう怖くなかった。
舞踏会の光の中で背を向けたときとは違う。
今は、私の背後に記録がある。契約がある。
そして、辺境の水路の音がある。
これは、終わりではない。
始まりのための整地だ。
私はその整地を、静かに終えた。
光の中では誰もが平等に見える。数字も、名前も、日付も、同じ強さで浮かび上がる。
けれど光が消えた瞬間、そこに残るのは視線の逃げ方だ。
誰が誰を見ないようにするか。誰が誰に背を向けるか。誰が、半歩だけ距離を取るか。
私はそれを、床の冷たさを感じながら見ていた。
舞踏会の夜、私に向けられた視線が、今は別の方向に流れ始めている。
それは勝利の甘さではなく、ある種の静けさを伴った現実だった。
空気が、今度は彼らを裁き始めたのだ。
殿下が口を開いた。
言葉は喉の奥で一度ひっかかり、それから形になって出てきた。
「……レティシア。君の示した記録が正しいとしても、国は今、危機にある。混乱を広げるのは得策ではない」
“得策”。
政治の言葉。
責任を“最善”の影に隠す言葉。
私は息を吸い、吐いた。
胸の奥の怒りが、まだ熱を持っているのが分かる。
けれど私は、その熱をそのまま外へ出さない。
熱い言葉は、彼らにとって都合のいい“感情的な女”を生み出すことになる。
ここまできて、それは許さない。
「混乱は、既にあります」
私は丁寧に言った。
「支払い遅延は続き、徴税は乱れ、備蓄の放出は滞っています。混乱を広げるかどうかではなく、混乱を止めるかどうかです」
殿下の眉がわずかに動いた。
反論しようとして、言葉を飲み込んだのが分かる。
飲み込んだ理由は、私が正しいからではない。
記録があるからだ。
聖女セシルが一歩前へ出た。
白いドレスの裾が、床をすべる。
その動きが、舞踏会の夜と同じように見えた。
彼女は泣ける場所を選ぶのが上手い。
「レティシア様……」
彼女は私の名を呼び、声を震わせた。
声の震えは祈りの余韻に似ている。
周囲の誰かが、小さく息を呑む。
「私は……私は、ただ……苦しむ方々のために……。雨が降らない中で、できることを……」
言葉は美しい。
美しいからこそ、誰もがその中に入りたくなる。
責任から守ってもらえるから。
私はセシルの顔を見た。
涙が、頬の上で光っている。
けれどその光は、水晶の光とは違う。ただの、逃げ道を作るための光だ。
「セシル様」
私は敬称を崩さずに言った。
「祈りを否定いたしません。ですが、寄付金の受領記録が不足しています。受領の署名、契約書、支払いの控え。これらを提示していただければ、疑念は晴れます」
疑念。
私は“罪”と断定しては言わなかった。
罪と言えば、セシルは被害者になれる。
疑念と言えば、必要なのは証明だ。
証明は、涙ではできない。
セシルの唇がわずかに開き、言葉を発することなく閉じる。
言い返す言葉が見つからないのだろう。
それでも彼女は、泣き顔のまま微笑もうとする。
「……記録は、神殿で管理しておりました。私自身は……」
その瞬間、私は彼女の指先を見た。
指輪が、また光を拾う。
舞踏会の夜に見た光と同じ。
決裁印に似た意匠。
私は、その指輪を検めたりはしない。
指摘した場合にセシルに与えられる“罰”は、想像に難くないから。
ただ、逃げ道を狭めて、真実を追い求めるだけで十分。
「神殿の管理であれば、なおさら提出できます」
私は淡々と続けた。
「神殿は誠実さの象徴です。記録を示せば、民は安心します。示せないのであれば――民は不安になります」
“不安”は、脅しではない。
現実の説明だ。
現実の説明は、時に刃になる。
セシルは一度、瞬きをした。
涙が落ちる。
落ちた涙は、床に吸われる。
水を求める国の床が、涙を吸う。
私はその光景に、胸の奥で短い痛みを覚えた。
――この国は、涙で回ってしまった。
だからこそ、今、涙では回らない形に戻さなければならない。
殿下が苛立ちを隠せない声で言った。
「レティシア、君は冷たい」
冷たい。
また、あのときと同じ言葉。
便利な言葉。
私を“人でない”側に追いやる言葉。
私は、ほんの少しだけ口角を上げた。笑みではない。
これは理解の形だ。
「冷たいのは、数字ではありません」
私は言った。
「嘘です。嘘は、民の食卓を、ひいては国を冷やします」
その言葉が落ちたとき、広間の空気がまた一段硬くなった。
誰も笑わない。
誰も拍手しない。
ただ、殿下の背後に立つ貴族たちの距離が、さらに半歩広がった。
私はそれを見逃さなかった。
今回の公開監査は、大声の断罪ではない。
しかし、支持の喪失という静かな音は確実に流れていた。
そのとき、書記官長が震える声で言った。
「……殿下。支払い遅延の件、商会からの催促が限界です。これ以上遅れれば、交易が止まります。税も入りません」
商会の代表らしき男が、重い声で続けた。
「我々は祈りを尊びます。しかし、支払いがなければ物は動きません。飢えるのは民です」
誰も、殿下を責めている口調ではない。
それでも、殿下の顔がわずかに青ざめた。
責められるより怖いのは、“見放される”ことかもしれない。
殿下は、周囲を見回した。
助けを求める視線。
かつてなら、貴族たちはそれに応えたのだろう。
けれど今、彼らは目を逸らした。
目を逸らすことで、自分の名が記録に残るのを避けるのだ。
私は殿下のその視線の動きを見て、心の奥で確信した。
この人は今まで、空気に守られてきた。
空気が味方であるうちは、責任は浮かばない。
でも空気が離れた瞬間、責任は沈まない。
むしろ浮かび上がる。
「殿下」
私は改めて呼びかけた。
ここからは、最後の決算の時間だ。
いかに殿下であっても、真実から目を背けることは許されない。
「私が王都へ来たのは、誰かを破滅させるためではありません。支払いを再開し、備蓄を動かし、配給を戻すためです」
殿下の顔が一瞬、希望の形になる。
私はその希望を、甘く受け止めない。
「そのために必要なのは、責任の明確化と、再発防止です。私は条件を提示しました」
私は手元の文書を取り出した。
羊皮紙に書かれた条文。
辺境支援の固定予算、基金の公開監査の定例化、決裁記録の復旧と変更禁止、神殿会計の提出期限。
そして、違反した場合の責任者の明記。
「殿下の印を頂ければ、私は財務院の混乱を止めます」
殿下は、私の持つ文書を見た。
その目に、焦りが浮かぶ。
印を押せば、責任が固まる。
押さなければ、崩れる。
殿下は唇を噛み、やがて言った。
「……その条件を飲めば、君は戻るのだな。王太子妃として」
最後の一手。
彼はここで“婚約”を餌に、私をあるべき場所に戻そうとしている。
戻れば、また私は道具になる。
だから私は、ここではっきりと告げなければならない。
私は、深く息を吸った。
この言葉は、私の人生の軸を決める言葉になる。
「殿下」
私は丁寧に、しかし、誤解が生じないように言った。
「婚約は、私を国の道具にするものでした。――壊した道具は元に戻せば済むと、お考えですか」
殿下の顔が、固まった。
それは怒りでも、悲しみでもない。
理解できない人の顔だった。
“道具”と言われた瞬間、自分が何をしてきたかが露わになる。
「私は王都へ戻ります。ですが、それは“殿下のもの”としてではありません」
一息に、続ける。
「私は制度のために動きます。民のために動きます。……そして、辺境のために動きます」
言い終えた瞬間、広間の空気が、別の形に変わった。
拍手ではない。
ざわめきでもない。
“決着がついた”という沈黙だろう。
殿下は、視線を彷徨わせた。
しかし、もう誰も彼を守らない。
守れば、自分の名も記録に沈むから。
「……印を」
殿下は小さく言った。
それは命令ではなく、懇願に近い声だった。
書記官長が文書を受け取り、殿下の前へ運ぶ。
殿下が印章を手に取った。
赤い蝋が溶かされ、文書に垂らされていく。
封蝋の匂いが、広間に広がった。
私はその匂いを吸い込みながら、舞踏会の夜を思い出した。
あのときの印は、私を追放するために押された。
今度の印は、私を解放するために押される。
殿下が蝋の上に印を押した。
ぐっと力が入り、そして、印が離れる。
そこに残った紋章は、ただの模様ではない。責任の形だ。
その瞬間、私は胸の奥で小さく、何かがほどけるのを感じた。
勝ったからではない。
“条件”が固定されたからだ。
嘘が逃げる穴が塞がったからだ。
聖女セシルが、何か言いたげに唇を震わせた。
けれど彼女は言葉を出せなかった。
記録の前で、言葉は軽い。
涙は、もっと軽い。
重いのは、印と日付と、署名だ。
私は、深く一礼した。
「承知いたしました。これより財務院の支払いを再開し、備蓄の放出を進めます。併せて、神殿会計の提出期限を定め、寄付金の行き先を確認します」
淡々と告げると、商会の代表が深く頭を下げた。
民の代表が、ほっと息を吐いた。
その息は、祈りの吐息ではない。
暮らしが戻ることへの、現実の息だ。
殿下は、まだ私を見ていた。
目の奥に、取り返しのつかない何かが浮かんでいる。
恐れか、後悔か、怒りか。
そのどれであっても、今はもう遅い。
私は殿下の視線を受け止め、最後に一つだけ、静かに言った。
「殿下。国のため、という言葉は便利です。責任の所在を溶かします。――私は、その便利さを終わらせに来ました」
言葉は穏やかだった。
でも、それは刃より深く刺さる言葉だったと思う。
なぜならそれは、殿下の逃げ場所そのものを消すから。
私は背を向けた。
背を向けても、もう怖くなかった。
舞踏会の光の中で背を向けたときとは違う。
今は、私の背後に記録がある。契約がある。
そして、辺境の水路の音がある。
これは、終わりではない。
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私はその整地を、静かに終えた。
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