「格が違う」なら、どうぞお好きに。あなたも、鍵印のない範囲でお幸せに。

なかすあき

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花婿と花嫁の、血盟紋が浮かび上がりました。

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 大司教オスヴァルトが祭壇の中央に立つと、聖堂の空気が静かに噛み合った。
 歯車が合う音など、本当はどこにも鳴っていない。けれど人の胸の奥だけが、それを「鳴った」と知る。祈りの場は、こういう無音の切り替えが得意だ。先ほどまで残っていた歓声や拍手の余熱を、ただの呼吸へ戻してしまう。私語の端まで整列させ、目に見えない秩序を押し付けてくる。

「これより、盟約の儀に入る」

 声は低く、揺れない。祝福の温度ではなく、判定の温度だった。
 私は参列者席の端で背筋を伸ばし、その言葉を受け取る。受け取ったまま、温めない。温めれば感情が立ち上がる。感情は進行を乱す。私は今、それを乱さないためにここにいる。

 床に落ちたステンドグラスの色が、通路に帯を作っていた。青と赤と金。美しい帯だ。けれど美しさは私を救わない。救うのは原則であり、順序であり、紙に書かれた手続きだ。
 大司教が視線を巡らせ、この場の空気を固定する。

「盟約文に記された当事者、前へ。新郎アルト・グランヴェル。花嫁ミレイア・ヴァンローゼ」

 “花嫁ミレイア”という語が落ちた瞬間、胸の奥がひとつだけ縮んだ。
 痛みではない。痛みはもう透明に沈めてある。縮んだのは、私が当事者ではないという事実を、聖堂が改めて言葉にしたからだ。

 アルトが進み出る。
 白い礼装が光を弾き、肩口の縫い取りがきらりと揺れた。堂々としていて、それを疑わない。勝者が勝者のままでいるための姿勢。
 その隣にミレイアが並ぶ。薄い金のドレスが柔らかく波を打ち、彼女の微笑みはこの場に馴染みきっていた。まるで最初からそこにいたかのように。

 参列者の中に、安堵が生まれるのがわかった。
 “予定どおり”という安堵。
 人は予定どおりという言葉が好きだ。予定どおりなら、自分は何も背負わなくていい。予定どおりなら、見たくないものを見なくて済む。

 侍者が銀の聖杯を運び、祭壇の中央に置いた。
 冷たい光が走る。刃のように細い反射。私は聖具室で掌に受けたあの冷たさを思い出し、視線を逸らさないようにした。今日の真実は、あの冷たさの中にある。華やかな言葉の外側ではなく、冷えた器の内側に。

「採血は原則どおり、盟約文の当事者欄の順に行う」

 大司教の声が、順序を確定させる。
 それに従い、アルトが右手を差し出した。

 針が渡されて、アルトはためらいなく指先を刺す。
 滲んだ赤が白い手袋を汚さないように、侍者がすぐに布を添える。赤は一滴だけ、聖杯の縁へ落とされた。

 とぷり。

 音はほとんどない。けれど空気が揺れた。
 “血が落ちる”という出来事は、いつも目に見えない拍手を先に呼ぶ。誰もが次に起きるものを知っている。血盟紋けつめいもん――第一紋。家格の証明。誇りの装飾。

 大司教が低く詠唱する。
 言葉が重なるたび、聖杯の内側に刻まれた古文字が淡く光を含む。光は静かで、しかし確実に増していく。水面に月が近づくように、見えないものが近づき、輪郭を持っていく。

 そして――アルトの手首に光が生まれた。

 皮膚の下で金色の線が一気に走り、絡まり、整列し、形を結ぶ。迷いがない。躊躇がない。
 まるで初めからそこに刻まれていたものが、ただ表へ浮かび上がっただけのように。

 第一紋。

 獅子の横顔。冠。蔓草の装飾。
 華やかで、堂々としていて、見る者の視線を引き寄せる。光は強く、輪郭はくっきりと立ち、手首の上で宝飾品のように輝いた。

 会場が湧いた。

「……見事だ」
「さすが、グランヴェル家」
「これほど鮮明に出るとは」

 囁きが走り、すぐに揃った拍手に変わる。割れんばかり、というほど大きくない。だが、揃っている。その揃い方が、“勝者”を祝う作法そのものだ。
 この場で拍手は、祝福ではなく認定に近い。皆で同じ結論に合意する音。

 アルトの口元がわずかに上がった。
 笑いではない。勝った者が勝ったままでいるための表情。
 彼は自分の手首を一度だけ見下ろし、その輝きを当然のように受け入れる。そして周囲へ視線を返す。見せるための紋。見せるための人生。

 私は参列者席で、手袋の内側の指先をそっと重ねた。
 胸の奥で透明な痛みが、ほんの少しだけきしむ。けれど私は崩れない。崩れれば、誰かがそれを材料にする。憐れみも、嘲りも、どちらも材料だ。私は材料にならない。

 “あの子は負けたのね”
 ――そう見える。
 そう見せるための、材料には。

 大司教が拍手を切るように言う。

「第一紋、確認」

 次に来るのは花嫁の採血。
 ミレイアが一歩進み、勝者の微笑みを崩さないまま手袋を外した。会場は「もう何も問題ない」という空気を作り始めている。私はその空気が、薄い膜のように広がっていくのを感じた。膜は軽く、しかし人を思考停止させるには十分な厚みがある。

 針が触れ、彼女の指先に赤が滲む。
 一滴が聖杯の縁へ落ちる。皆が「次」を知っているから、安堵はほとんど完成してしまう。

 詠唱が重なり、ミレイアの薬指に柔らかな金の輪が浮かび上がった。花が咲くように、静かに。
 婚礼紋――花嫁の第一紋。

「……美しい」

 誰かが、ほっとした声でそう言った。
 拍手が起こる。安堵の拍手だ。花嫁が変わっても儀は成立する。

 “予定どおりだった”
 ――そう思いたい人々の拍手。
 私でさえ、一拍だけその空気に引きずられそうになる。人の確信は、こうして集団で増幅する。

 けれど私は、祭壇の中央に置かれた聖杯から目を離さなかった。

 さきほどの光は確かに増している。
 ただ――どこか浅い。
 水面だけが眩しく、底の暗さが動かない光。深い場所が、まだ沈黙している。

 書記官の羽根ペンが止まらないのも見えた。
 歓声に付き合わず、紙の上で確認を続けている。まるで、今の拍手はまだ“前座”だと知っているように。あるいは、知っているからこそ止まれないのだ。規則の人間は、感情の波に合わせて筆を止めたりしない。

 私は息をひとつ吐いた。
 静かに、胸の奥で言う。

 ――まだ、ここからだ。

 血盟紋は嘘をつかない。
 けれど人は、血盟紋の“表”だけを真実だと思い込み、いくらでも自分に都合のいい物語を作る。獅子が輝けば正しい。花が咲けば成立する。そう決めてしまえば楽だから。

 大司教が羊皮紙へ手を伸ばす。
 その動きが、儀式が終わっていないことを告げていた。拍手の終点ではなく、確認の入口へ向かう手だ。

 “勝者”を決めるためではない。
 “真実”を確かめるために。
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