最果てより

九時木

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 彼女が涙を流してから数日後、私は診察のために再びaの病室へ入った。

 一言声をかけると、カーテンの中から「どうぞ」と彼女の返事が聞こえた。

 何処か力のない返事だった。私が慎重にカーテンを開けると、足元に一本の鉛筆が転がっていた。

 私は腰をかがめ、鉛筆を拾い上げた。あまり使われていないのか、その先は尖ったままだった。

 私が鉛筆を机の上に置こうとすると、仰向けになっていた彼女がゆっくりと目を開き、その姿勢のまま手元のノートを開いた。


 「『私にとって、最も憂鬱な時間は昼下がり。

 午後2時から5時にかけての何もしない時間は、思考が堂々巡りし、その迷路から出られない』」

 窓から強い光が差し込んでおり、時刻は午後2時を過ぎていた。

 彼女は読み上げたノートを閉じ、両腕をベッドへと脱力させた。


 「……なんだかぼんやりしているんです。本を読んでも何も頭に入らなくて、途中で止めてしまいました。

 気になる本を本棚から何冊か取り出してみたんですが、どれも長くは続かなかった。

 それで、今度は鉛筆を手に取って、物書きを始めてみたんです。でも、それも全然」

 病室の空気は暖房で温められ、まどろみを覚えるような温度だった。

 aの目下は、薄らと青紫に染まっていた。彼女は半分閉じた目で天井を眺め、我ここにあらずの様子だった。

 「たくさん本を借りたようだね」私は、ベッドの上で蝶の群れのように散らばった本を見る。

 「今の私、だらしない格好ですよね」

 aは少し嘲るような笑みを浮かべようとしたが、感情を表す気力が湧かないのか、ほとんど無表情と言ってもいいような顔をしていた。

 「そのまま楽にしていていいよ」私は鉛筆を机の上に置き、彼女の様子を伺いながら診察を始めた。


 「最近の調子はどうかな。一週間前に薬を減らしてみたけれど、何か体調の変化は?」

 カルテを手にしながら、私はaに尋ねる。

 「……リボトリールを減量すれば、日中の眠気が和らぐんでしたっけ」

 彼女が平坦なトーンで、処方を思い出すように聞き返す。

 直後、頭の中で症状を整理するような沈黙があり、彼女は補足した。


 「日中の眠気がなくなれば、夜は一日の疲れで眠気が来るはずなのに。

 でも私の場合、なぜか夜も眠れません。

 頭が冴えすぎてしまうのか、夜も考え事が止められなくなっています。

 日中のようなまとまりのない思考ではなく、次々と湧き出る問題に立ち向かっていくような、そんな活動的な思考が働くんです」

 彼女の訴えを、私はカルテに書き留める。aは機械の仕組みを説明するかのような、事務的な口調で続けた。
 
 「だけど、夜に眠れないと、今度は昼に眠気がやって来る。

 以前のような薬の副作用とは違って、どうやら夜の疲れで昼に眠気を感じるみたいです」


 昼夜逆転。彼女の話を聞いているうちに、私の頭にその言葉が浮かび上がった。

 抗不安薬の減量が影響を与えているのだろうか。彼女の話を聞いていると、薬で抑えられていた感情が表出し、生活リズムを変えてしまっているようだった。

 強い感情を処理するために、睡眠時間が削られている。私はその場で考え、カルテを確かめてから彼女に提案した。

 「薬の量を元に戻してみるかい?」

 「元通りにすれば、副作用で昼に眠くなる。薬を減らしても、夜の不眠でまた昼に眠気が訪れる。

 どちらにせよ眠気が残ってしまいます。私は一体、どうすれば良いのでしょうか」

 彼女は少し疲れ気味に尋ねる。その表情にはやはり変化がない。

 減量にあまり効果が見られないのならば、あとは飲むタイミングの問題かもしれない。

 私はリボトリールの処方を見極め、カルテから顔を上げた。


 「それなら、飲む頻度を減らしてみようか。

 今は朝と夜に1錠ずつ飲んでいるね。日中の眠気は、もしかすれば朝の服用が関係しているかもしれない。

 夜にだけ飲めば、薬の副作用が昼まで続くことはあまりないと思う。この飲み方を試すのはどうかな」

 私の提案に、aはしばらく黙っていた。

 その顔は何か考え込んでいるというよりも、虚ろげで気が沈んでいるように見えた。


 「そうするのが良いのかもしれません」

 彼女はほとんど声を張らず、吐息の力で答えていた。

 「合わない場合は、また色々と調整できるからね」

 私はできるだけ可能性を示せるような返答を心がけ、彼女に微笑みかけた。

 私は手を動かし、カルテに情報をまとめていた。その間、aは虚空を見つめていたが、ふと何かを思いついたようにノートを開いた。

 サラサラと、メモを取るような音が聞こえる。その内容について彼女に尋ねる必要性を考えてみたが、結局私は口を閉ざすことにした。

 aはノートを閉じ、皮肉な笑みを浮かべた。

 こちらに視線を送り、何か言いたげな様子だったが、まもなく彼女はその視線を窓へと移した。


 「……私がこの病院に来てから、一年が経つんですね」

 雲に覆われた空を眺めながら、aが呟く。

 「そのようだね」私はペンのノックを押し、ペン先を引っ込める。

 インクを見ると、残量が僅かになっていた。私は差し替え用のインクがデスクのどこにしまってあるのかを思い出しながら、彼女を観察していた。

 「昨日は晴れ、今日は曇り。外は毎日忙しそうです」

 彼女の視線の先には、浜辺に打ち寄せる波と、流れゆく雲があった。

 彼女の目が少しだけ光る。その目は自然風景の美に引き込まれているように見えたが、何かを求めるような、微かな羨望を表しているようにも見えた。
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