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その後、私は彼女にどんな話をしたのかよく覚えていない。
覚えているのは、aが私の猫についての話をじっと聞いていたことだけだった。
「先生は、猫が好きだったんですね」
ふと意識が戻った時、私の耳に入ったのはその一言だった。
目の前の彼女は、にこりと微笑んでいた。感情を込めようと努めているようだったが、何処か形式的でよそよそしくも見える、何とも曖昧な笑みだった。
別の日、私はaの様子を伺うために病室へと向かっていた。
開放病棟の広間には、数名の患者が集まっていた。彼らは壁掛けのテレビを見上げ、野球の観戦をしているようだった。
足を組んだり、頬杖をついたり、そんな彼らの何気ない仕草を横目に見ながら、私は廊下を歩いた。
「先生、おはようございます」と、白髪を団子に束ねた年配の女性患者が、私に声をかける。
私が挨拶を返すと、患者は目の前でクロールをしてみせ、「泳ぎの練習をしているんですよ」と笑った。
私は微笑を返し、彼女が廊下の端へゆっくり歩いていくのを見届けた。
病室の扉を開けると、カーテンが一つだけ閉じたままだった。
残り3つのカーテンは開けられており、ベッドの上に患者はいない。
私はいつも通り声をかけてから、閉じたカーテンにそっと触れた。
「また本を読んでいると、そうお思いですか?」
目の前で、aが本に目を留めたまま、私に話しかける。
薄明るい光が窓から差し込め、彼女の顔を柔らかに照らしていた。
一方の彼女はその光をあまり気に留めていないようで、肌はやや血の気が薄く、まるで陶器で作られているかのように見えた。
「何の本かな」私は白衣のポケットに手を入れ、少しくつろいでいるように見せた。
「『セーヌ河の名なし娘』。シュペルヴィエルの短編小説です。
『セーヌ河の名なし娘』と呼ばれる女性が、河に飛び込み溺死する。彼女は死体のまま海へ運ばれ、同じようにして死んだ仲間たちと海の底で平穏に過ごす。
でも、彼女は皆の輪に馴染めない。ついに我慢しきれなくなった彼女は、足についていた鉛を断ち切り、底を離れて水上へと浮かび上がる」
彼女の声には威厳があり、含みがあった。
「それで?」と私が尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。
「海の底は、死者たちが暮らす永遠の世界です。水上へ行かない限りは、意識が保たれたまま、なんの苦しみもなく幸せでいられる。
それでも、娘はそこから離れ、意識を絶つことを選びます。永遠に続く時間よりも終わりのある方が楽だと、そう感じていたから。
結局、自分の死体が地上の人間に見つかり、調査のために解剖されることを受け入れた。それが彼女の答えです」
彼女の顔つきは真剣で、隙がなかった。
海、死、意識。私はその物語から飛び交った様々な言葉を拾い、彼女に言った。
「……どうしてその本を?」
私の疑問に、彼女は口をぴたりと閉じた。
aは口を固く閉じたまま、私のつま先から頭まで、精密検査にでもかけるかのようにくまなく観察した。
そうして、彼女はしばらく私をじっと見つめていた。しかしその後、それまでの張りつめていた空気を解くかのように、彼女が笑いかけた。
「先生、もしあなたが私の精神状態について心配しているのなら、その必要はありません。
私はあの時と同じようなことは、もうしないつもりですから」
エアコンが室内の空気をかき混ぜ、じりじりと換気音を響かせる。
私が誰もいない3つのベッドを見渡していると、aがぽつりと呟いた。
「周りが呆れるほど読書にふけりすぎていることは、自覚しています。
先生はきっと、私が他の患者さんたちと全く関わろうとしないことに、少し違和感があるのかもしれません。
その人のペースがあるとは言えど、今後の暮らしを考えれば、少しでも社会性を身につけておいた方が良いのではないか。
先生は善い人だから、そう思うのでしょう。でも、私は自分を急かせば急かすほど、何故だか足取りが重く、ぎこちなくなってしまうんです」
aは私に問いかけているようで、そうでないようにも見えた。
彼女はたった1人の空間で、自分自身の声だけが反響するその場所で、ひたすら内向きの思考を重ねているようだった。
「おかしなことを打ち明けてしまいますが、私は人と話している時、相手と話をしているという実感があまり湧きません。
その人が話す言葉が、どこかで既に耳にしたように感じられて仕方ない。
今日は恋人と出かけに行った、遊園地のアトラクションやショッピングを楽しんだ。
家族とのんびり家で過ごしていた。公園に行ってピクニックをした、一日中ゲームをしていた。
起業セミナーで詐欺に遭って、何十万円もお金をつぎ込んでしまった。
仕事を始めたけど、労働時間が長すぎて辞めたい。上司との相性が悪くて辛い、後輩を指導するのが大変で、全ての責任を背負いきれない。
そういった諸々の体験談には、その人にしかわからないような幸せや悩みがある。だから、簡単に一般化できるものではない。
そのことについては、充分に考慮しなければならないと理解しています。
それでも時々、そんな人々の話から目を逸らしてしまいたくなることが、私にはあるんです」
aは社交辞令を述べるかのような平坦さで、次に何かを振り絞るかのような切実さで、話した。
彼女の中で、実に多くの感情が渦巻いているようだった。
私はカルテを手に取ったが、その手を下ろした。彼女を邪魔するまいと黙り、静かに見守ることにした。
「人々にとって、周りとはどのような存在なのでしょう?」彼女が本を伏せ、前髪をくしゃりと掻きむしった。
「日常生活について話せる、気さくな相手。人間関係の悩みについて打ち明けられる、良き相談相手。
互いの個性を認め、思い出を分かち合える、そんなかけがえのない存在なのかもしれません。
反対に、どうしても受け入れられない人、自分とは噛み合わない人、生涯に渡って許せない人もいるのでしょう。
でも先生、おかしいですよね。人間関係にはそんな風にして多少の強弱があるはずなのに、家族も友人も赤の他人も、私には全て同じ人間に映ってしまうんです。
遠く遠く離れた、無名で霧のように薄い、そんなぼんやりとした存在にしか捉えられない。
薄情で、淡白な人間ですよね。でもこのことを家族や友人に打ち明けてしまえば、私は誰からも距離を置かれてしまう。
だから、人前では黙って、さも周囲の言葉に耳を傾けているかのような姿勢を作って、できるだけ穏やかに微笑んでいる」
彼女は自身の欺きを暴くような鋭い口調で、しかし何処か悲しげな顔で語っていた。
外では雨がぽつぽつと屋根を打ち、湿り気のある空気を運び込もうとしていた。
海辺に並ぶヤシの葉が次々と揺れ、少しばかり勢いの激しい波が陸に打ち寄せ始める。
廊下では、開放病棟の患者がスリッパを床に滑らせ、その音を私たちの静まり返った病室にも響かせていた。
「……馬鹿みたいですよね。自分で話をして、自分で話を終わらせようとする。
何一つ行動していないのに、何もかも経験して知ったような気になる。
きっと、本の読みすぎです。読みすぎなんですよ、ほんとうに」
彼女の声は小さく震え、段々と途切れ途切れになっていった。
彼女は俯いていたが、その影がかった顔から、僅かに涙ぐんだ目が見えた。
彼女はその様子を悟られまいと、狭まった喉から音を振り絞り、必死に言葉を紡いでいるようだった。
「どんな人間にも、息継ぎは必要なものだよ」私は伏せられた本に目を落とし、静かに言う。
「君の場合、それを叶えてくれるのが本だったのかもしれない。
もし読書で虚しさを覚えるのなら、無理に本にすがらなくていいし、反対に無理に手放さなくてもいい。
人間関係だって、きっと同じことだ。誰かにはとても頼りになるが、別の誰かには押し付けのようにも感じられる。
どの塩梅も、確かに難しい。近づいては離れの繰り返しだったり、どちらか一方に傾いて挫けることもよくある。
だけど、何も焦ることはないし、一人で抱え込む必要もない。他人の言葉を信じるのは難しいかもしれないが、僕は君の人間関係について、何も咎めるつもりはないよ。
僕は、君が本当に納得できる方法を一緒に模索する。そして、いつか君が君自身を赦せる日が来るように支えていく。
その思いは、君がここへやって来た1年前から、ずっと変わっていないんだ」
私はaを宥めるように、また自分自身の言葉を確かめるように、ゆっくりと話した。
真っ白な布団に、彼女の小さな涙が落ちていく。音もなく布団に染み込み、本の表紙にもぽつりと粒が乗る。
彼女は顔を上げなかった。視線を落とし、自身の影に埋もれた本を見つめながら、ただ涙を流していた。
日が昇りつつあったが、その光は雲に遮られていた。薄暗がりの部屋で、私は彼女の涙が布団を湿らせるのをいつまでも眺めていた。
覚えているのは、aが私の猫についての話をじっと聞いていたことだけだった。
「先生は、猫が好きだったんですね」
ふと意識が戻った時、私の耳に入ったのはその一言だった。
目の前の彼女は、にこりと微笑んでいた。感情を込めようと努めているようだったが、何処か形式的でよそよそしくも見える、何とも曖昧な笑みだった。
別の日、私はaの様子を伺うために病室へと向かっていた。
開放病棟の広間には、数名の患者が集まっていた。彼らは壁掛けのテレビを見上げ、野球の観戦をしているようだった。
足を組んだり、頬杖をついたり、そんな彼らの何気ない仕草を横目に見ながら、私は廊下を歩いた。
「先生、おはようございます」と、白髪を団子に束ねた年配の女性患者が、私に声をかける。
私が挨拶を返すと、患者は目の前でクロールをしてみせ、「泳ぎの練習をしているんですよ」と笑った。
私は微笑を返し、彼女が廊下の端へゆっくり歩いていくのを見届けた。
病室の扉を開けると、カーテンが一つだけ閉じたままだった。
残り3つのカーテンは開けられており、ベッドの上に患者はいない。
私はいつも通り声をかけてから、閉じたカーテンにそっと触れた。
「また本を読んでいると、そうお思いですか?」
目の前で、aが本に目を留めたまま、私に話しかける。
薄明るい光が窓から差し込め、彼女の顔を柔らかに照らしていた。
一方の彼女はその光をあまり気に留めていないようで、肌はやや血の気が薄く、まるで陶器で作られているかのように見えた。
「何の本かな」私は白衣のポケットに手を入れ、少しくつろいでいるように見せた。
「『セーヌ河の名なし娘』。シュペルヴィエルの短編小説です。
『セーヌ河の名なし娘』と呼ばれる女性が、河に飛び込み溺死する。彼女は死体のまま海へ運ばれ、同じようにして死んだ仲間たちと海の底で平穏に過ごす。
でも、彼女は皆の輪に馴染めない。ついに我慢しきれなくなった彼女は、足についていた鉛を断ち切り、底を離れて水上へと浮かび上がる」
彼女の声には威厳があり、含みがあった。
「それで?」と私が尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。
「海の底は、死者たちが暮らす永遠の世界です。水上へ行かない限りは、意識が保たれたまま、なんの苦しみもなく幸せでいられる。
それでも、娘はそこから離れ、意識を絶つことを選びます。永遠に続く時間よりも終わりのある方が楽だと、そう感じていたから。
結局、自分の死体が地上の人間に見つかり、調査のために解剖されることを受け入れた。それが彼女の答えです」
彼女の顔つきは真剣で、隙がなかった。
海、死、意識。私はその物語から飛び交った様々な言葉を拾い、彼女に言った。
「……どうしてその本を?」
私の疑問に、彼女は口をぴたりと閉じた。
aは口を固く閉じたまま、私のつま先から頭まで、精密検査にでもかけるかのようにくまなく観察した。
そうして、彼女はしばらく私をじっと見つめていた。しかしその後、それまでの張りつめていた空気を解くかのように、彼女が笑いかけた。
「先生、もしあなたが私の精神状態について心配しているのなら、その必要はありません。
私はあの時と同じようなことは、もうしないつもりですから」
エアコンが室内の空気をかき混ぜ、じりじりと換気音を響かせる。
私が誰もいない3つのベッドを見渡していると、aがぽつりと呟いた。
「周りが呆れるほど読書にふけりすぎていることは、自覚しています。
先生はきっと、私が他の患者さんたちと全く関わろうとしないことに、少し違和感があるのかもしれません。
その人のペースがあるとは言えど、今後の暮らしを考えれば、少しでも社会性を身につけておいた方が良いのではないか。
先生は善い人だから、そう思うのでしょう。でも、私は自分を急かせば急かすほど、何故だか足取りが重く、ぎこちなくなってしまうんです」
aは私に問いかけているようで、そうでないようにも見えた。
彼女はたった1人の空間で、自分自身の声だけが反響するその場所で、ひたすら内向きの思考を重ねているようだった。
「おかしなことを打ち明けてしまいますが、私は人と話している時、相手と話をしているという実感があまり湧きません。
その人が話す言葉が、どこかで既に耳にしたように感じられて仕方ない。
今日は恋人と出かけに行った、遊園地のアトラクションやショッピングを楽しんだ。
家族とのんびり家で過ごしていた。公園に行ってピクニックをした、一日中ゲームをしていた。
起業セミナーで詐欺に遭って、何十万円もお金をつぎ込んでしまった。
仕事を始めたけど、労働時間が長すぎて辞めたい。上司との相性が悪くて辛い、後輩を指導するのが大変で、全ての責任を背負いきれない。
そういった諸々の体験談には、その人にしかわからないような幸せや悩みがある。だから、簡単に一般化できるものではない。
そのことについては、充分に考慮しなければならないと理解しています。
それでも時々、そんな人々の話から目を逸らしてしまいたくなることが、私にはあるんです」
aは社交辞令を述べるかのような平坦さで、次に何かを振り絞るかのような切実さで、話した。
彼女の中で、実に多くの感情が渦巻いているようだった。
私はカルテを手に取ったが、その手を下ろした。彼女を邪魔するまいと黙り、静かに見守ることにした。
「人々にとって、周りとはどのような存在なのでしょう?」彼女が本を伏せ、前髪をくしゃりと掻きむしった。
「日常生活について話せる、気さくな相手。人間関係の悩みについて打ち明けられる、良き相談相手。
互いの個性を認め、思い出を分かち合える、そんなかけがえのない存在なのかもしれません。
反対に、どうしても受け入れられない人、自分とは噛み合わない人、生涯に渡って許せない人もいるのでしょう。
でも先生、おかしいですよね。人間関係にはそんな風にして多少の強弱があるはずなのに、家族も友人も赤の他人も、私には全て同じ人間に映ってしまうんです。
遠く遠く離れた、無名で霧のように薄い、そんなぼんやりとした存在にしか捉えられない。
薄情で、淡白な人間ですよね。でもこのことを家族や友人に打ち明けてしまえば、私は誰からも距離を置かれてしまう。
だから、人前では黙って、さも周囲の言葉に耳を傾けているかのような姿勢を作って、できるだけ穏やかに微笑んでいる」
彼女は自身の欺きを暴くような鋭い口調で、しかし何処か悲しげな顔で語っていた。
外では雨がぽつぽつと屋根を打ち、湿り気のある空気を運び込もうとしていた。
海辺に並ぶヤシの葉が次々と揺れ、少しばかり勢いの激しい波が陸に打ち寄せ始める。
廊下では、開放病棟の患者がスリッパを床に滑らせ、その音を私たちの静まり返った病室にも響かせていた。
「……馬鹿みたいですよね。自分で話をして、自分で話を終わらせようとする。
何一つ行動していないのに、何もかも経験して知ったような気になる。
きっと、本の読みすぎです。読みすぎなんですよ、ほんとうに」
彼女の声は小さく震え、段々と途切れ途切れになっていった。
彼女は俯いていたが、その影がかった顔から、僅かに涙ぐんだ目が見えた。
彼女はその様子を悟られまいと、狭まった喉から音を振り絞り、必死に言葉を紡いでいるようだった。
「どんな人間にも、息継ぎは必要なものだよ」私は伏せられた本に目を落とし、静かに言う。
「君の場合、それを叶えてくれるのが本だったのかもしれない。
もし読書で虚しさを覚えるのなら、無理に本にすがらなくていいし、反対に無理に手放さなくてもいい。
人間関係だって、きっと同じことだ。誰かにはとても頼りになるが、別の誰かには押し付けのようにも感じられる。
どの塩梅も、確かに難しい。近づいては離れの繰り返しだったり、どちらか一方に傾いて挫けることもよくある。
だけど、何も焦ることはないし、一人で抱え込む必要もない。他人の言葉を信じるのは難しいかもしれないが、僕は君の人間関係について、何も咎めるつもりはないよ。
僕は、君が本当に納得できる方法を一緒に模索する。そして、いつか君が君自身を赦せる日が来るように支えていく。
その思いは、君がここへやって来た1年前から、ずっと変わっていないんだ」
私はaを宥めるように、また自分自身の言葉を確かめるように、ゆっくりと話した。
真っ白な布団に、彼女の小さな涙が落ちていく。音もなく布団に染み込み、本の表紙にもぽつりと粒が乗る。
彼女は顔を上げなかった。視線を落とし、自身の影に埋もれた本を見つめながら、ただ涙を流していた。
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