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「aとはよく本の話をするそうだな」
院長が黒のレザーチェアをゆっくりと回し、私の方に向き直る。
私は膝の上に手を置き、少し身構えながら話した。
「彼女は読書が好きなようなので」
「専攻の英文学以外にも、興味があるようじゃないか」院長が、確かめるような口調で私に尋ねる。
まるで、教師に質問された生徒のような格好だった。私は瞬きをしながら、恐る恐る答えを列挙した。
「フランス文学やドイツ文学、そして……」
「ロシア文学だろう」
院長が私をじっと見る。間髪入れず回答された私は、目を見開き、少し気圧されたように身を引く。
院長の方は、とうの前に知り尽くしているとでも言うような、また呆れ返ったような様子で深いため息をついていた。
「カルテにそう書いてあるんだ」
「君の書くカルテには驚きを禁じ得んな」
院長が眉をひそめながら、パソコン画面をスクロールする。
「特にaのものは、彼女の趣味についての詳細がこと細かく書かれている。
『XX日は“異邦人"、XY日は“罪と罰"を読んでいた。
さらにYY日は“セーヌ河の名なし娘"。彼女の敬愛する作家はカミュとドストエフスキー……』
まるで新聞や年表でも読んでいるかのような気分だ」
院長は比較的穏やかな調子を心がけているようだったが、その声には僅かに非難が込められているようにも感じた。
私は少しばかり手を握りしめ、声を抑えながら言った。
「何かしらの治療につながるかと思ったのですが」
私の一言で、診察室が瞬時に静まり返る。
心臓を射抜かれるかのような緊張感だった。その沈黙は、言葉よりもはるかに明確に私の誤ちを指摘しているようにさえ感じられた。
「……君はチェーホフの『六号病棟』を読んだことがあるか?」
院長が、ふと青い目をこちらに向ける。
想定外の返答だったが、私はまもなく相手の何か言いたげな様子を読み取った。
私が首を横に振ると、院長はふいとパソコン画面に目を逸らし、ぽつりと呟いた。
「彼女とロシア文学の話をしているなら、知っていると思ったんだがな。
かいつまんで言えば、こんな話だ。ある精神科医が『六郷病棟』と呼ばれる閉鎖病棟を訪れ、一人の若い患者と話をする。
患者の類まれなる知性に感銘を受けた医師が、その後何度も訪ね、その患者と話をする。
話を交わしているうちに、医師はなぜこんなにも才気溢れる患者を狭い病棟に閉じ込めるのかと、医療のあり方を疑うようになる。
その患者の話を聞けば聞くほど、医師は俗悪な世間を嫌い、また社会不信の闇にのまれていく……」
「それで?」私は不穏な物語の続きを尋ねる。
院長は瞬き一つもしなかった。一定の沈黙を置いてから、彼は私に向かって言い聞かせるように答えた。
「医師自身が病み、閉鎖病棟に入院するのだよ」
「医師が仕事を離れる理由は、いくつかある」
院長の厳かな眼差しが、私を捉えている。
私が僅かに口を開けたまま固まっていると、院長は何かを静観するような姿勢で、話を進めた。
「勤務形態や労働時間に不満を持つ者、労働と年収の不均衡に首を傾げる者……。
実に様々な者がいるが、私が中でも危惧しているのは、患者との距離感を見失う者だ。
多くの医師は、患者との衝突に疲れていることを自覚するが、そうでない場合もある。
患者に尽くそうと身を捧げ、自らが破滅の道へ向かっていることに気づかない。
全ての意志を尊重しようとするあまり、患者の波にのまれ、医師としての本来のあるべき立場を忘れていく。
医師の中で最も懸念されるのは、そのようにして無意識に深入りをしかねない存在なのだ」
院長の目は何処か憂いを帯び、また嘆きを表してもいるようだった。
「チェーホフのたとえは、果たして大げさだと思うかね?」院長が頬杖をつきながら、私に尋ねる。
私は長いこと考えた。頭の中で様々な考えが浮かび、それぞれを一つの言葉に収めるのに労を要した。
一分後、ようやく落ち着いた私は、選び抜いたその言葉を放った。
「院長が心配されていることを、私はありがたく思っています。
あなたのおっしゃる通り、私は少し出過ぎているのでしょう。
ですが、私は彼女との距離感に決して無頓着であるわけではありません。
どのように薬を扱い、どのように彼女と接するか。医師として、最適な治療法に悩んでもいます。
近頃の彼女が不安定なことも、承知しているつもりです。ですが、どの時期においても、彼女には一貫して何か必要なものがあるように思えます。
様々な要素を考えましたが、その中で最も彼女に必要なのは、周囲の理解ではないか。最近の私は、段々とそう思い始めているのです」
「だから、君は彼女の意志を尊重すると?」院長はじっと聞き入りながら、私に問うた。
私は静かに頷いてみせた。伝えるべきことは全て伝えたつもりだったのだ。
院長は組んだ手に顎を乗せ、しばらく黙っていた。
私は少し息をつこうとした。振り返ってみれば、肩にのしかかるような室内の空気感に、疲れを感じていたのかもしれない。
院長は考え込んでいるようだったが、突如顔をしかめ、私に投げかけた。
「君が医師としての自覚を維持していることは理解した。それは認めよう。
しかし、まだ一つ疑問がある。彼女が不安定であることを知っているのなら、何故君は彼女に図書室の出入りを認めているんだ?」
その言葉の意味を、私は理解することができなかった。
気がつけば、私は何を求められているかも知らぬまま、ただ相手に意見をぶつけていた。
「……彼女にとって、本は逃げ道のようなものだと思います。
周りに理解されたいが、現実では上手くいかない。その強い孤独感を解消する場所が、本になっている。
だから、本は彼女には必要なものだと、私は考えています」
「今日の出来事を目の当たりにしても、そう思うのかね」院長が鉛のように重い視線を私に向ける。
私は言葉を詰まらせた。気道に固い蓋がつけられ、いくら空気を押し出しても声を発せないような、そんな抗し難い感覚に陥った。
「君から言いにくいのならば、私がはっきり言おう。
彼女は本に対して、非常に不安定な感情を抱いている。違うか?」
院長の答えに、私は硬直する。院長はそのまま淡々と話し続けた。
「確かに読書は彼女の趣味だが、何事にも時機というものがある。
今は本を読ませる時ではない。彼女に必要なのは、躊躇なき投薬と人との交流。治療と経験だ。
それが、『周囲の理解』を深めるための一番の近道ではないかね?」
「最近の君は、薬を制限しすぎているし、彼女に本への執着を助長させているように見えるのだが」院長はパソコン画面に映った処方を確かめる。
数秒の沈黙があった。その間、私は院長が言わんとしていることをようやく思い知り、相手を凝視した。
「……まさか、本人の意思なしに、彼女から本を取り上げるというのですか?」私は手を握りしめながら、抗議の声で訴える。
院長は私を一瞥し、深いため息をついた。
それは呆れというよりも、何かを悟らせるような、そんな意味を強調しているかのようだった。
「わかるかね、医師はお人好しでは務まらないものだ。
彼女は打たれ弱いが、知性がある。知性で弱さを補える人間だ。自分で考え、問題を解決していける人間なのだよ。
ただ自分の賢さを上手く使う術を知らないだけだ。
本は彼女の気を惹きすぎている。集中力を逸らせる意味で、毒になっているのだ。
私たちがすべきことは、あの子が知性を使うべき本当の場所を示し、自信を身につけさせる。それだけだ」
「……知性を使うべき本当の場所?」私は動揺を隠しきれぬまま、震え声で相手に尋ねる。
院長は長いこと私を見つめていた。その後、老齢の医師は子どもを叱るような目を向けながら、力強く答えた。
「君は彼女をいつまでもこの病院に留まらせる気かね。
彼女がこの病院に来て1年が経つことは、主治医でない私もよく知っている。
しかし君は、その年月がどれほど彼女にとって長いものか、一度でも考えたことがあるのか?」
院長が黒のレザーチェアをゆっくりと回し、私の方に向き直る。
私は膝の上に手を置き、少し身構えながら話した。
「彼女は読書が好きなようなので」
「専攻の英文学以外にも、興味があるようじゃないか」院長が、確かめるような口調で私に尋ねる。
まるで、教師に質問された生徒のような格好だった。私は瞬きをしながら、恐る恐る答えを列挙した。
「フランス文学やドイツ文学、そして……」
「ロシア文学だろう」
院長が私をじっと見る。間髪入れず回答された私は、目を見開き、少し気圧されたように身を引く。
院長の方は、とうの前に知り尽くしているとでも言うような、また呆れ返ったような様子で深いため息をついていた。
「カルテにそう書いてあるんだ」
「君の書くカルテには驚きを禁じ得んな」
院長が眉をひそめながら、パソコン画面をスクロールする。
「特にaのものは、彼女の趣味についての詳細がこと細かく書かれている。
『XX日は“異邦人"、XY日は“罪と罰"を読んでいた。
さらにYY日は“セーヌ河の名なし娘"。彼女の敬愛する作家はカミュとドストエフスキー……』
まるで新聞や年表でも読んでいるかのような気分だ」
院長は比較的穏やかな調子を心がけているようだったが、その声には僅かに非難が込められているようにも感じた。
私は少しばかり手を握りしめ、声を抑えながら言った。
「何かしらの治療につながるかと思ったのですが」
私の一言で、診察室が瞬時に静まり返る。
心臓を射抜かれるかのような緊張感だった。その沈黙は、言葉よりもはるかに明確に私の誤ちを指摘しているようにさえ感じられた。
「……君はチェーホフの『六号病棟』を読んだことがあるか?」
院長が、ふと青い目をこちらに向ける。
想定外の返答だったが、私はまもなく相手の何か言いたげな様子を読み取った。
私が首を横に振ると、院長はふいとパソコン画面に目を逸らし、ぽつりと呟いた。
「彼女とロシア文学の話をしているなら、知っていると思ったんだがな。
かいつまんで言えば、こんな話だ。ある精神科医が『六郷病棟』と呼ばれる閉鎖病棟を訪れ、一人の若い患者と話をする。
患者の類まれなる知性に感銘を受けた医師が、その後何度も訪ね、その患者と話をする。
話を交わしているうちに、医師はなぜこんなにも才気溢れる患者を狭い病棟に閉じ込めるのかと、医療のあり方を疑うようになる。
その患者の話を聞けば聞くほど、医師は俗悪な世間を嫌い、また社会不信の闇にのまれていく……」
「それで?」私は不穏な物語の続きを尋ねる。
院長は瞬き一つもしなかった。一定の沈黙を置いてから、彼は私に向かって言い聞かせるように答えた。
「医師自身が病み、閉鎖病棟に入院するのだよ」
「医師が仕事を離れる理由は、いくつかある」
院長の厳かな眼差しが、私を捉えている。
私が僅かに口を開けたまま固まっていると、院長は何かを静観するような姿勢で、話を進めた。
「勤務形態や労働時間に不満を持つ者、労働と年収の不均衡に首を傾げる者……。
実に様々な者がいるが、私が中でも危惧しているのは、患者との距離感を見失う者だ。
多くの医師は、患者との衝突に疲れていることを自覚するが、そうでない場合もある。
患者に尽くそうと身を捧げ、自らが破滅の道へ向かっていることに気づかない。
全ての意志を尊重しようとするあまり、患者の波にのまれ、医師としての本来のあるべき立場を忘れていく。
医師の中で最も懸念されるのは、そのようにして無意識に深入りをしかねない存在なのだ」
院長の目は何処か憂いを帯び、また嘆きを表してもいるようだった。
「チェーホフのたとえは、果たして大げさだと思うかね?」院長が頬杖をつきながら、私に尋ねる。
私は長いこと考えた。頭の中で様々な考えが浮かび、それぞれを一つの言葉に収めるのに労を要した。
一分後、ようやく落ち着いた私は、選び抜いたその言葉を放った。
「院長が心配されていることを、私はありがたく思っています。
あなたのおっしゃる通り、私は少し出過ぎているのでしょう。
ですが、私は彼女との距離感に決して無頓着であるわけではありません。
どのように薬を扱い、どのように彼女と接するか。医師として、最適な治療法に悩んでもいます。
近頃の彼女が不安定なことも、承知しているつもりです。ですが、どの時期においても、彼女には一貫して何か必要なものがあるように思えます。
様々な要素を考えましたが、その中で最も彼女に必要なのは、周囲の理解ではないか。最近の私は、段々とそう思い始めているのです」
「だから、君は彼女の意志を尊重すると?」院長はじっと聞き入りながら、私に問うた。
私は静かに頷いてみせた。伝えるべきことは全て伝えたつもりだったのだ。
院長は組んだ手に顎を乗せ、しばらく黙っていた。
私は少し息をつこうとした。振り返ってみれば、肩にのしかかるような室内の空気感に、疲れを感じていたのかもしれない。
院長は考え込んでいるようだったが、突如顔をしかめ、私に投げかけた。
「君が医師としての自覚を維持していることは理解した。それは認めよう。
しかし、まだ一つ疑問がある。彼女が不安定であることを知っているのなら、何故君は彼女に図書室の出入りを認めているんだ?」
その言葉の意味を、私は理解することができなかった。
気がつけば、私は何を求められているかも知らぬまま、ただ相手に意見をぶつけていた。
「……彼女にとって、本は逃げ道のようなものだと思います。
周りに理解されたいが、現実では上手くいかない。その強い孤独感を解消する場所が、本になっている。
だから、本は彼女には必要なものだと、私は考えています」
「今日の出来事を目の当たりにしても、そう思うのかね」院長が鉛のように重い視線を私に向ける。
私は言葉を詰まらせた。気道に固い蓋がつけられ、いくら空気を押し出しても声を発せないような、そんな抗し難い感覚に陥った。
「君から言いにくいのならば、私がはっきり言おう。
彼女は本に対して、非常に不安定な感情を抱いている。違うか?」
院長の答えに、私は硬直する。院長はそのまま淡々と話し続けた。
「確かに読書は彼女の趣味だが、何事にも時機というものがある。
今は本を読ませる時ではない。彼女に必要なのは、躊躇なき投薬と人との交流。治療と経験だ。
それが、『周囲の理解』を深めるための一番の近道ではないかね?」
「最近の君は、薬を制限しすぎているし、彼女に本への執着を助長させているように見えるのだが」院長はパソコン画面に映った処方を確かめる。
数秒の沈黙があった。その間、私は院長が言わんとしていることをようやく思い知り、相手を凝視した。
「……まさか、本人の意思なしに、彼女から本を取り上げるというのですか?」私は手を握りしめながら、抗議の声で訴える。
院長は私を一瞥し、深いため息をついた。
それは呆れというよりも、何かを悟らせるような、そんな意味を強調しているかのようだった。
「わかるかね、医師はお人好しでは務まらないものだ。
彼女は打たれ弱いが、知性がある。知性で弱さを補える人間だ。自分で考え、問題を解決していける人間なのだよ。
ただ自分の賢さを上手く使う術を知らないだけだ。
本は彼女の気を惹きすぎている。集中力を逸らせる意味で、毒になっているのだ。
私たちがすべきことは、あの子が知性を使うべき本当の場所を示し、自信を身につけさせる。それだけだ」
「……知性を使うべき本当の場所?」私は動揺を隠しきれぬまま、震え声で相手に尋ねる。
院長は長いこと私を見つめていた。その後、老齢の医師は子どもを叱るような目を向けながら、力強く答えた。
「君は彼女をいつまでもこの病院に留まらせる気かね。
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