最果てより

九時木

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 投薬ではなく、対話によって自然な治療を行う。それがこれまでの診察で心がけてきた、私の方針だった。


 患者の自立を妨げない程度で、信頼関係を築き上げていく。

 患者が心を閉ざしてしまわぬように、私はできる限り相手の言葉に耳を傾ける。

 それが、最も負担のない治療方法だと考えていた。実際に、相手を否定しないことは心理療法の基礎的な考え方の一つだった。

 しかし、相手を否定しないことと認知の歪みを指摘することは、別物だった。

 医師はカウンセラーのように、ただ親身になって相手を受け入れるだけでは務まらない。誇張された不安や事実に反することがあれば、それとなく「正す」必要がある。

 それは、研修の頃から院長に何度も教えられてきたことだった。

 それに、適切な投薬も欠かせなかった。患者の意志を尊重するために、薬を最小限に抑えることは、一見正しいように思える。

 しかし、薬を抑えすぎるあまり患者を苦しませるようなことがあれば、元も子もない。だから、院長は「躊躇なき投薬」をするよう、私に念を押した。


 全て、頭では理解していたことだった。しかし、私はどうしても患者に無理をさせたくないという感情を拭えずにいた。

 院長の言ったように、私はやはり患者に感情移入しすぎているのかもしれない。患者の痛みを感ずるあまり、強い庇護欲のようなものが働いてしまっているのだろう。

 患者とは、距離を置かねばならない。特に、aに対しては。

 aには人を深い感情に導くような、強い引力がある。

 彼女の孤独感がそうさせているのかもしれない。たった一人の世界に誰かを招き入れるように、彼女は物語の本を開け、語り部として流暢に話すのだ。

 寂しげに、時には楽しげに。まるで何年も取っておいた記憶を一挙に打ち明けるかのように。

 目の前で様々な表情を見せてくれる彼女に、私は目を背けられなかった。無邪気に話す彼女に対して、「その話はもうお終いにしよう」と打ち切ることができなかった。

 私の中で、そのような一言が言えるのは、院長ただ一人だった。

 結局、私は彼の助言に従った。診察室で私が俯いていると、院長は椅子から立ち上がり、黙って私の肩に手を置いた。

 「それで良いのだ」と、院長は岩のように重い言葉を私に放ち、面談の終わりを告げた。


 翌日、私はaと廊下で遭遇した。

 aは顔を上げると、何かを発見したように目を見開いた。そして、私に食いつくように話し始めた。

 「先生。さっき本を借りようと図書室に行ったら、入室を断られたんです。

 『あなたは入れないよ』って、図書員の方が……」

 私は黙っていた。口を開かず、力のない目で彼女を見た。

 「私が悪いことをしたからですか?」彼女は鋭く問い詰めるような勢いで続ける。

 「本を落として、端を折り曲げて、傷つけてしまったからですか。

 それとも、私が本に対して、中途半端な態度を取っていたからですか?」

 
 私は俯いた。ただ押し黙り、立ち尽くしている姿しか彼女に見せられなかった。

 aは私を見上げ、答えを待っていた。しかし、何も答えが得られないのがわかると、彼女は顔を引きつらせ、私と同じように頭を垂れた。

 つらい沈黙が続いていた。長い間の後、彼女は目を固くつむったかと思うと、勢いよく走り出し、自分の病室へ駆け込んだ。

 ドアを強く閉める音が、廊下に響き渡った。心臓を突き刺すような衝撃と、何かを訴えるような振動が足に伝い、私は歯を食いしばった。

 何か医師らしからぬ感情と、医師らしい感情が、私の中で同時に湧き上がり、私は力を加えられた粘土のように顔を歪ませた。


 その日はaの診察日だったが、足が自ずと彼女の病室から遠ざかった。

 突如、頭にのしかかるような、ひどい重みを感じた。額を押さえながら、私は誰もいない廊下を歩き、自分の診察室へ引き返していた。

 途中、一人の看護師が、何か私を心配するような声かけをしたのかもしれない。

 しかし、その声はほとんど耳に入らず、曖昧な意識の中、ただ自分の足音だけが機械的に鳴り響いていた。


 気がつけばそこは診察室で、私は脱力したように自分の椅子へどっと座り込んでいた。

 体の全ての重みを背もたれに任せ、私は虚脱状態で診察室の真っ白な壁を眺めていた。

 実際にはたった数分の間だったが、私には何時間、何日もそうしていたように感じられた。


 『医師はお人好しでは務まらないものだ……』

 院長の重々しい一言が、私の中で繰り返される。

 治療をするのは容易だが、患者のために治療をするのは難しい。

 相手に近づかれればこちらが離れるといった、一定の線引きさえできていれば良いのかもしれない。

 私は可能は限りで、そうしてきた。遠すぎず近すぎない距離を保ちながら、彼女と接してきたつもりだったのだ。

 しかし、院長にはそのようには見えていないようだった。それならば、やはり本を禁止し、彼女をいち早く社会訓練させることが最善策なのか?


 私は診察室で一人、長いこと悩んでいた。何十分も考え込んではみたが、どれも徒労に終わり、確かな答えは導き出せなかった。

 考えてばかりで、私の頭は重くなる一方だった。

 看護師が入室し、その声がはっきりと聞こえ始める。
 現実に戻ったその瞬間は、まるで私の頭が疲れきり、それ以上は問題に立ち向かえないと諦めを表しているかのようだった。
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