11 / 15
11
しおりを挟む
投薬ではなく、対話によって自然な治療を行う。それがこれまでの診察で心がけてきた、私の方針だった。
患者の自立を妨げない程度で、信頼関係を築き上げていく。
患者が心を閉ざしてしまわぬように、私はできる限り相手の言葉に耳を傾ける。
それが、最も負担のない治療方法だと考えていた。実際に、相手を否定しないことは心理療法の基礎的な考え方の一つだった。
しかし、相手を否定しないことと認知の歪みを指摘することは、別物だった。
医師はカウンセラーのように、ただ親身になって相手を受け入れるだけでは務まらない。誇張された不安や事実に反することがあれば、それとなく「正す」必要がある。
それは、研修の頃から院長に何度も教えられてきたことだった。
それに、適切な投薬も欠かせなかった。患者の意志を尊重するために、薬を最小限に抑えることは、一見正しいように思える。
しかし、薬を抑えすぎるあまり患者を苦しませるようなことがあれば、元も子もない。だから、院長は「躊躇なき投薬」をするよう、私に念を押した。
全て、頭では理解していたことだった。しかし、私はどうしても患者に無理をさせたくないという感情を拭えずにいた。
院長の言ったように、私はやはり患者に感情移入しすぎているのかもしれない。患者の痛みを感ずるあまり、強い庇護欲のようなものが働いてしまっているのだろう。
患者とは、距離を置かねばならない。特に、aに対しては。
aには人を深い感情に導くような、強い引力がある。
彼女の孤独感がそうさせているのかもしれない。たった一人の世界に誰かを招き入れるように、彼女は物語の本を開け、語り部として流暢に話すのだ。
寂しげに、時には楽しげに。まるで何年も取っておいた記憶を一挙に打ち明けるかのように。
目の前で様々な表情を見せてくれる彼女に、私は目を背けられなかった。無邪気に話す彼女に対して、「その話はもうお終いにしよう」と打ち切ることができなかった。
私の中で、そのような一言が言えるのは、院長ただ一人だった。
結局、私は彼の助言に従った。診察室で私が俯いていると、院長は椅子から立ち上がり、黙って私の肩に手を置いた。
「それで良いのだ」と、院長は岩のように重い言葉を私に放ち、面談の終わりを告げた。
翌日、私はaと廊下で遭遇した。
aは顔を上げると、何かを発見したように目を見開いた。そして、私に食いつくように話し始めた。
「先生。さっき本を借りようと図書室に行ったら、入室を断られたんです。
『あなたは入れないよ』って、図書員の方が……」
私は黙っていた。口を開かず、力のない目で彼女を見た。
「私が悪いことをしたからですか?」彼女は鋭く問い詰めるような勢いで続ける。
「本を落として、端を折り曲げて、傷つけてしまったからですか。
それとも、私が本に対して、中途半端な態度を取っていたからですか?」
私は俯いた。ただ押し黙り、立ち尽くしている姿しか彼女に見せられなかった。
aは私を見上げ、答えを待っていた。しかし、何も答えが得られないのがわかると、彼女は顔を引きつらせ、私と同じように頭を垂れた。
つらい沈黙が続いていた。長い間の後、彼女は目を固くつむったかと思うと、勢いよく走り出し、自分の病室へ駆け込んだ。
ドアを強く閉める音が、廊下に響き渡った。心臓を突き刺すような衝撃と、何かを訴えるような振動が足に伝い、私は歯を食いしばった。
何か医師らしからぬ感情と、医師らしい感情が、私の中で同時に湧き上がり、私は力を加えられた粘土のように顔を歪ませた。
その日はaの診察日だったが、足が自ずと彼女の病室から遠ざかった。
突如、頭にのしかかるような、ひどい重みを感じた。額を押さえながら、私は誰もいない廊下を歩き、自分の診察室へ引き返していた。
途中、一人の看護師が、何か私を心配するような声かけをしたのかもしれない。
しかし、その声はほとんど耳に入らず、曖昧な意識の中、ただ自分の足音だけが機械的に鳴り響いていた。
気がつけばそこは診察室で、私は脱力したように自分の椅子へどっと座り込んでいた。
体の全ての重みを背もたれに任せ、私は虚脱状態で診察室の真っ白な壁を眺めていた。
実際にはたった数分の間だったが、私には何時間、何日もそうしていたように感じられた。
『医師はお人好しでは務まらないものだ……』
院長の重々しい一言が、私の中で繰り返される。
治療をするのは容易だが、患者のために治療をするのは難しい。
相手に近づかれればこちらが離れるといった、一定の線引きさえできていれば良いのかもしれない。
私は可能は限りで、そうしてきた。遠すぎず近すぎない距離を保ちながら、彼女と接してきたつもりだったのだ。
しかし、院長にはそのようには見えていないようだった。それならば、やはり本を禁止し、彼女をいち早く社会訓練させることが最善策なのか?
私は診察室で一人、長いこと悩んでいた。何十分も考え込んではみたが、どれも徒労に終わり、確かな答えは導き出せなかった。
考えてばかりで、私の頭は重くなる一方だった。
看護師が入室し、その声がはっきりと聞こえ始める。
現実に戻ったその瞬間は、まるで私の頭が疲れきり、それ以上は問題に立ち向かえないと諦めを表しているかのようだった。
患者の自立を妨げない程度で、信頼関係を築き上げていく。
患者が心を閉ざしてしまわぬように、私はできる限り相手の言葉に耳を傾ける。
それが、最も負担のない治療方法だと考えていた。実際に、相手を否定しないことは心理療法の基礎的な考え方の一つだった。
しかし、相手を否定しないことと認知の歪みを指摘することは、別物だった。
医師はカウンセラーのように、ただ親身になって相手を受け入れるだけでは務まらない。誇張された不安や事実に反することがあれば、それとなく「正す」必要がある。
それは、研修の頃から院長に何度も教えられてきたことだった。
それに、適切な投薬も欠かせなかった。患者の意志を尊重するために、薬を最小限に抑えることは、一見正しいように思える。
しかし、薬を抑えすぎるあまり患者を苦しませるようなことがあれば、元も子もない。だから、院長は「躊躇なき投薬」をするよう、私に念を押した。
全て、頭では理解していたことだった。しかし、私はどうしても患者に無理をさせたくないという感情を拭えずにいた。
院長の言ったように、私はやはり患者に感情移入しすぎているのかもしれない。患者の痛みを感ずるあまり、強い庇護欲のようなものが働いてしまっているのだろう。
患者とは、距離を置かねばならない。特に、aに対しては。
aには人を深い感情に導くような、強い引力がある。
彼女の孤独感がそうさせているのかもしれない。たった一人の世界に誰かを招き入れるように、彼女は物語の本を開け、語り部として流暢に話すのだ。
寂しげに、時には楽しげに。まるで何年も取っておいた記憶を一挙に打ち明けるかのように。
目の前で様々な表情を見せてくれる彼女に、私は目を背けられなかった。無邪気に話す彼女に対して、「その話はもうお終いにしよう」と打ち切ることができなかった。
私の中で、そのような一言が言えるのは、院長ただ一人だった。
結局、私は彼の助言に従った。診察室で私が俯いていると、院長は椅子から立ち上がり、黙って私の肩に手を置いた。
「それで良いのだ」と、院長は岩のように重い言葉を私に放ち、面談の終わりを告げた。
翌日、私はaと廊下で遭遇した。
aは顔を上げると、何かを発見したように目を見開いた。そして、私に食いつくように話し始めた。
「先生。さっき本を借りようと図書室に行ったら、入室を断られたんです。
『あなたは入れないよ』って、図書員の方が……」
私は黙っていた。口を開かず、力のない目で彼女を見た。
「私が悪いことをしたからですか?」彼女は鋭く問い詰めるような勢いで続ける。
「本を落として、端を折り曲げて、傷つけてしまったからですか。
それとも、私が本に対して、中途半端な態度を取っていたからですか?」
私は俯いた。ただ押し黙り、立ち尽くしている姿しか彼女に見せられなかった。
aは私を見上げ、答えを待っていた。しかし、何も答えが得られないのがわかると、彼女は顔を引きつらせ、私と同じように頭を垂れた。
つらい沈黙が続いていた。長い間の後、彼女は目を固くつむったかと思うと、勢いよく走り出し、自分の病室へ駆け込んだ。
ドアを強く閉める音が、廊下に響き渡った。心臓を突き刺すような衝撃と、何かを訴えるような振動が足に伝い、私は歯を食いしばった。
何か医師らしからぬ感情と、医師らしい感情が、私の中で同時に湧き上がり、私は力を加えられた粘土のように顔を歪ませた。
その日はaの診察日だったが、足が自ずと彼女の病室から遠ざかった。
突如、頭にのしかかるような、ひどい重みを感じた。額を押さえながら、私は誰もいない廊下を歩き、自分の診察室へ引き返していた。
途中、一人の看護師が、何か私を心配するような声かけをしたのかもしれない。
しかし、その声はほとんど耳に入らず、曖昧な意識の中、ただ自分の足音だけが機械的に鳴り響いていた。
気がつけばそこは診察室で、私は脱力したように自分の椅子へどっと座り込んでいた。
体の全ての重みを背もたれに任せ、私は虚脱状態で診察室の真っ白な壁を眺めていた。
実際にはたった数分の間だったが、私には何時間、何日もそうしていたように感じられた。
『医師はお人好しでは務まらないものだ……』
院長の重々しい一言が、私の中で繰り返される。
治療をするのは容易だが、患者のために治療をするのは難しい。
相手に近づかれればこちらが離れるといった、一定の線引きさえできていれば良いのかもしれない。
私は可能は限りで、そうしてきた。遠すぎず近すぎない距離を保ちながら、彼女と接してきたつもりだったのだ。
しかし、院長にはそのようには見えていないようだった。それならば、やはり本を禁止し、彼女をいち早く社会訓練させることが最善策なのか?
私は診察室で一人、長いこと悩んでいた。何十分も考え込んではみたが、どれも徒労に終わり、確かな答えは導き出せなかった。
考えてばかりで、私の頭は重くなる一方だった。
看護師が入室し、その声がはっきりと聞こえ始める。
現実に戻ったその瞬間は、まるで私の頭が疲れきり、それ以上は問題に立ち向かえないと諦めを表しているかのようだった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる