最果てより

九時木

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 私はaから本を取り上げたことについて、何日も考え込んでいた。

 彼女は一週間、沈んだきりだった。私はaの様子を見るために度々病室を訪れたが、彼女は虚脱状態で、ほとんど無反応だった。

 「調子はどうですか」と声をかけても、表情一つ変わらない。

 「薬の副作用はありませんか」、「体はだるくありませんか」など、他にも様々なことを尋ねてみた。

 だが、彼女は布団から目を離さず、ただ置物のように固まっているばかりだった。

 彼女は心を閉ざしきっているようだった。どんな声をかけても反応がないので、私は段々と打ちのめされ、自分が無力感にのまれていくような気がした。


 2週間目のある朝、aはようやく口を開いた。

 彼女は窓越しに温かな日差しを浴びていた。細く伸びきった髪が、一本一本光を受け、儚く繊細な印象を与えていた。

 「今日は温かいですね」

 彼女が2週間ぶりに放ったのが、その一言だった。

 あまり誰かに向かって発せられていないような、何処かよそよそしい響きではあったが、私は彼女の一言に胸を打たれた。

 私はポケットからペンを取り出し、思わずペンを走らせそうになった。だがふと思いとどまり、私はそのまま静かに立っていた。

 「確かに、天気が良い日だね」。それはいつもの「調子はどうかな」の代わりにかけた声かけで、私はできるだけ平静を装いながら返した。

 相手は長いこと黙っていた。静かな空気が流れた後、彼女は身を起こしたまま、ぼんやりと空を見上げた。


 「長い旅をしていたような感覚があります。

 ずっとベッドの上で過ごしていたのに、ここ数週間で色々なことを体験して、今はただ強い疲労感が残っている。

 ダンテの『神曲』を読んだ時と、同じ感覚です。強い怒りと、半永久的に続く反省と、気だるげな諦め。

 それを一通り味わって、もう何も考えられない。そんな具合です……」

 疲れきった彼女の目は、重々しく、長い時の経過を思わせた。

 私は何も考えず、そっと口を閉ざした。彼女は天井から窓に視線を移し、呟いた。


 「ここ最近、自分が眠っているのか起きているのかよくわかりませんでした。

 一日中寝込んでいるのに、頭の中では常に映像が流れている。私は観察者として、その映像をぼんやりと眺めている。

 いつになったら終わるのだろうという、そんな考えさえありませんでした。ただ水に背を向けて浮かんでいるのと同じで、無感覚な状態を保ち続けていたんです。

 でも、今日ふと窓の景色が目に入って、目が覚めました。頭の中の映像が終わり、自分が現実世界に存在していることに、はと気がついたんです」

 そう言っている彼女だが、その声はまだ夢と現実の狭間にいるようで、眠たげだった。

 私は起きたての彼女を静かに見守っていた。そのまま黙っていると、彼女は脈絡もなくふと私に尋ねた。


 「先生は、人と話すのが好きですか?」

 その問いに、私は何と答えて良いのかわからなかった。

 彼女の問いかけはいつも突然で、意図が見えず、何処に行き着くのか想像できないことが多かった。

 答えに迷いながら、やや崩れた笑みを向け、私はそっと返した。

 「医師として務めを果たせる限りは、好きでありたい所だけれどね。君の方はどうなんだろう」

 「どうなのでしょう。でも、育てている花から目を逸らしたくないほどには、好きでないことはわかります」

 aは首を少し傾け、補足するように続けた。


 「私、昔にヒヤシンスを育てていたことがあるんです。

 球根から面倒を見ていた時期があって。日当たりの良い窓際に置いて、芽が出るのを待っていました。

 球根はすくすく成長して、緑の芽が出ました。それで、最終的には真っ白で小さな花がいくつも咲いてくれたんです。

 とても綺麗で、甘く爽やかな香りがしました。私、その優しさに触れられるなら、毎日でも見ていられると思ったんです。

 花は私をそっと慰めてくれるし、心を柔らかくしてくれる。励ましも労いもせず、ただ存在するだけで私を微笑ませてくれる。

 ずっとそのままでいいのにと思う。でも目を逸らせば、辺りはざわめきや騒がしさで囲まれていて、何だか頭が締め付けられそうになる」

 aは布団を握りしめ、少し顔を歪ませた。

 苦しい沈黙の後、彼女は何か重い蓋を開けることをついに覚悟したかのように、私をじっと見た。


 「……先生。実を言うと、私は本を読めないことに辛くなっているわけではありません。

 むしろ、自分でも驚くほど気分が晴れているんですよ。

 朝起きれば、雲ひとつない真っ青な空が目に飛び込む。布団は光に照らされて、思わず笑顔がこぼれてしまいそうになるほど真っ白に輝いて見える。

 長い間つけられていた足枷が外れて、今にも空に飛び立っていけるような、そんな鳥のような気持ちでいっぱいなんです。

 そんな時は、ぐんと両手を上げて、背伸びをする。身体がほぐれて、温かい感情に包まれる。

 なんて気持ちの良い朝なんでしょう。それで、私はそんな幸せな気分のまま、布団の上を探る。

 何か読めるものがないかと、いつもの癖で。でも、そこには何もない」

 aの言葉に、私の胸がひりついた。

 私は自分が無音の世界に投げ出され、無意識に呼吸を止めているのを知った。

 彼女の口調は、低斜面の上を流れる水のように緩やかだったが、確かに私の元まで迫り来ているようだった。

 
 「まっさらな布団。一人部屋でぽつんと取り残されて、太陽だけが頭上へと昇って、忌々しいほどに私を照りつけてくる。

 これ見よがしの明るさで、体を焼き尽くすような暑さで。じりじりと、私の中で、段々と穏やかでない感情が渦巻いてくるんです。

 同時に、途方もない気持ちにのまれる。目の前に澄み切った青空があるのに、まるでそこに永久に閉じ込められてしまったかのような、そんな気持ちに。

 そして、そんなちっぽけな自分をはるか遠くから眺めているような、そんな感覚に」

 彼女の目は果てしないほど遠い所を見つめているようで、また同時に残酷なまでに透き通っているように見えた。

 遠くを見ていた彼女の目が、ふと私を捉えた。言葉が消え去り、ただ目の前の存在だけを認識するような視線が、私に向けられた。

 
 「難しいですよね、先生。先生はここ数週間、私の変化をずっと見てきたんでしょう。

 でも、私も先生の変化に何も気づいていないわけではないんですよ。

 先生はきっと私の知らない所で、何か自分らしさを損ねるようなことを受け入れざるを得なかったんですよね?

 どうしようもない状況に置かれて、そこから脱するためにしかなかったんですよね?」


 それは、私が今までに経験することのなかった絶望だった。

 aは察しているようだった。私が治療方針を変えたことも、院長の意見に屈したことも。

 彼女の顔に、柔らかな日差しが降りていた。その顔はひどく悲嘆に暮れ、しかし憐れみをかけるような優しさがあり、何処か母性的でさえあった。

 私はその場でしゃがみ込み、頭を抱えたくなった。そのまま内部の衝動に打ちのめされ、自分という存在が破裂して散り散りになってしまえばいいのにとさえ感じた。

 私は今の自分が彼女に対してどのように振舞っているのか、何の想像もできなかった。

 一つだけわかったのは、彼女の前にはただ無言を貫く医師が立っているということだけだった。

 彼女は微笑んでいた。私はその笑みを振り切るようにして踵を返したが、そんな自分の行動に気がついたのは、いつもの診察室に着き、使い古した椅子に腰を下ろしてからだった。
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