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彼女にとって、本はどんな存在だったのか。私にその全ての感情を知ることはできない。
筋金入りの読書家であれば、ひとたび本を取り上げられれば、そう穏やかな気持ちではいられないはずだ。
彼女の反応も例外ではなかった。2週間も医師に口をきかないほどの絶望があったことは、院長ほど経験を積んでいない私でも容易に感じ取れた。
心の支えを失えば、誰でも立ち直るのは難しい。
彼女にとって本はなくてはならないものだった。決して欠けてはならないもののはずだった。少なくとも、私の中ではそれが答えだったのだ。
だが彼女の内面に存在するのは、大事なものを失ったという絶望だけではないようで、それが私をひどく戸惑わせた。
aを見ている時、私は時々誰と話しているのかわからなくなることがあった。
ある時はまっすぐな目で本の話をし、ある時は突き放すような態度で自分自身を冷笑する。
また別の時は密かに攻撃的になり、かと思えば母親のような温もりで相手に憐れみをかけることもある。
物語好きの子どものようだ、鋭い目つきの批評家のようだなどと、例えがいくらでも浮かぶほど、彼女の姿勢は多面的に映った。
私はそんな彼女の持つ強い何かに、深く心を抉られそうになる時があった。
同時に、自分の核を物語によって徹底的に覆い隠そうとしているような、そんなよそよそしさを彼女から常に感じてもいた。
『XX日は“異邦人"、XY日は“罪と罰"を読んでいた。
さらにYY日は“セーヌ河の名なし娘"。彼女の敬愛する作家はカミュとドストエフスキー……』
私はパソコンのカルテに目を留める。
自分が記入したカルテを見ているうちに、『年表か新聞でも読んでいるようだ』という院長の言葉がふと蘇る。
彼女は読んだ本を記録してほしいと言っていた。だから、私はその通りに書き込んだ。
彼女の意志を尊重するために。しかし、私は一体彼女の何を理解し、理解したつもりでいるのだろうか。
私はパソコンから目を逸らし、メモ用紙とペンを手に取った。ペンのノックを押し、様々な内容を書き込んだ。
aは周りと繋がれないという強い孤独感に苛まれ、またそのストレスによって解離的な症状を見せる一患者だった。
それなのに、彼女を「孤独」という形容詞で説明するには、何かが抜け落ちているような気がしてならなかった。
合わせ鏡のように無限に続く、彼女の人間性。何通りも見える、人としての「役割」のようなもの。
彼女は複数の人格が交代するような、解離性同一性障害ではない。だが、彼女の中にはいくつもの役割が存在する。
相手を労る保護者でいなくてはならないとか、本を過信しない懐疑者にならなくてはならないとか、子どものような無邪気さを失ってはならないとか。
そういった一定の人間像が、彼女の孤独感を取り囲み、その寂しさを埋め合わせるかのように機能している。
彼女は自身を人物化し、物事を物語化することで、あらゆる問題に対して間接的に対処しようとしている。
人と交渉したり、本心を打ち明ける代わりに、自分の中で決めた人間像に従うことで、周りとの関係を維持する。
院長は、今の彼女に読書は毒だと判断した。
今になって、私はその意味が少しわかるような気がした。
彼女にとって、読書は単なる気晴らしではない。幸福にも苦痛にもなる両価的な試練なのだ。
本は彼女が役割に徹することに正当性を与えている。何通りもの人間像を思い描き演じることを、彼女の深い内面に訴えかけることで後押ししている。
彼女は周囲に無頓着なのではない。反対に、強すぎる共感によって神経をすり減らしている。
周囲の感情に敏感だが、自分の苦しみや孤独感を物語としてしか表せず、過度の抽象化を避けられない……。
『先生はきっと私の知らない所で、何か自分らしさを損ねるようなことを受け入れざるを得なかったんですよね?
どうしようもない状況に置かれて、そこから脱するためにこうするしかなかったんですよね?』
彼女が本を失った喪失感の代わりに表したのは、私に対する過剰なまでの配慮だった。
私が彼女の母性的な笑みに耐えられなかったのは、医師としての役割を覆されたからなのか。
あるいは、彼女の中で起こった抑圧に、針で刺されたような痛みを覚えたのか。
いずれにせよ、私は自分が院長ほど強靭な心の持ち主ではないことを自覚するばかりだった。
院長は、医師の中でもっとも懸念されるのは、患者の感情に深入りする医師だと警告していた。
私は、精神科医という職業が一般的な印象よりもはるかに難儀であることを、今更になって知ったようだった。
薬物療法に徹する医師も、心理療法を選ぶ医師も、柔軟に対応する医師もみな、心の複雑さを突きつけられているのは同じなのだろうか。
私は我に返った。気がつけば、目の前の白紙にはぎっしりと文字が詰められていた。
私はその一枚の紙を持ち上げてみた。たった一枚のメモ用紙だったが、厚紙のような重さを感じた。
手元の腕時計は、30分の経過を知らせた。
久々の感覚だった。キーボードでタイピングする時よりも、何故か時の流れがずっと緩やかであるような気がし、私はゆっくりと息を吐いた。
筋金入りの読書家であれば、ひとたび本を取り上げられれば、そう穏やかな気持ちではいられないはずだ。
彼女の反応も例外ではなかった。2週間も医師に口をきかないほどの絶望があったことは、院長ほど経験を積んでいない私でも容易に感じ取れた。
心の支えを失えば、誰でも立ち直るのは難しい。
彼女にとって本はなくてはならないものだった。決して欠けてはならないもののはずだった。少なくとも、私の中ではそれが答えだったのだ。
だが彼女の内面に存在するのは、大事なものを失ったという絶望だけではないようで、それが私をひどく戸惑わせた。
aを見ている時、私は時々誰と話しているのかわからなくなることがあった。
ある時はまっすぐな目で本の話をし、ある時は突き放すような態度で自分自身を冷笑する。
また別の時は密かに攻撃的になり、かと思えば母親のような温もりで相手に憐れみをかけることもある。
物語好きの子どものようだ、鋭い目つきの批評家のようだなどと、例えがいくらでも浮かぶほど、彼女の姿勢は多面的に映った。
私はそんな彼女の持つ強い何かに、深く心を抉られそうになる時があった。
同時に、自分の核を物語によって徹底的に覆い隠そうとしているような、そんなよそよそしさを彼女から常に感じてもいた。
『XX日は“異邦人"、XY日は“罪と罰"を読んでいた。
さらにYY日は“セーヌ河の名なし娘"。彼女の敬愛する作家はカミュとドストエフスキー……』
私はパソコンのカルテに目を留める。
自分が記入したカルテを見ているうちに、『年表か新聞でも読んでいるようだ』という院長の言葉がふと蘇る。
彼女は読んだ本を記録してほしいと言っていた。だから、私はその通りに書き込んだ。
彼女の意志を尊重するために。しかし、私は一体彼女の何を理解し、理解したつもりでいるのだろうか。
私はパソコンから目を逸らし、メモ用紙とペンを手に取った。ペンのノックを押し、様々な内容を書き込んだ。
aは周りと繋がれないという強い孤独感に苛まれ、またそのストレスによって解離的な症状を見せる一患者だった。
それなのに、彼女を「孤独」という形容詞で説明するには、何かが抜け落ちているような気がしてならなかった。
合わせ鏡のように無限に続く、彼女の人間性。何通りも見える、人としての「役割」のようなもの。
彼女は複数の人格が交代するような、解離性同一性障害ではない。だが、彼女の中にはいくつもの役割が存在する。
相手を労る保護者でいなくてはならないとか、本を過信しない懐疑者にならなくてはならないとか、子どものような無邪気さを失ってはならないとか。
そういった一定の人間像が、彼女の孤独感を取り囲み、その寂しさを埋め合わせるかのように機能している。
彼女は自身を人物化し、物事を物語化することで、あらゆる問題に対して間接的に対処しようとしている。
人と交渉したり、本心を打ち明ける代わりに、自分の中で決めた人間像に従うことで、周りとの関係を維持する。
院長は、今の彼女に読書は毒だと判断した。
今になって、私はその意味が少しわかるような気がした。
彼女にとって、読書は単なる気晴らしではない。幸福にも苦痛にもなる両価的な試練なのだ。
本は彼女が役割に徹することに正当性を与えている。何通りもの人間像を思い描き演じることを、彼女の深い内面に訴えかけることで後押ししている。
彼女は周囲に無頓着なのではない。反対に、強すぎる共感によって神経をすり減らしている。
周囲の感情に敏感だが、自分の苦しみや孤独感を物語としてしか表せず、過度の抽象化を避けられない……。
『先生はきっと私の知らない所で、何か自分らしさを損ねるようなことを受け入れざるを得なかったんですよね?
どうしようもない状況に置かれて、そこから脱するためにこうするしかなかったんですよね?』
彼女が本を失った喪失感の代わりに表したのは、私に対する過剰なまでの配慮だった。
私が彼女の母性的な笑みに耐えられなかったのは、医師としての役割を覆されたからなのか。
あるいは、彼女の中で起こった抑圧に、針で刺されたような痛みを覚えたのか。
いずれにせよ、私は自分が院長ほど強靭な心の持ち主ではないことを自覚するばかりだった。
院長は、医師の中でもっとも懸念されるのは、患者の感情に深入りする医師だと警告していた。
私は、精神科医という職業が一般的な印象よりもはるかに難儀であることを、今更になって知ったようだった。
薬物療法に徹する医師も、心理療法を選ぶ医師も、柔軟に対応する医師もみな、心の複雑さを突きつけられているのは同じなのだろうか。
私は我に返った。気がつけば、目の前の白紙にはぎっしりと文字が詰められていた。
私はその一枚の紙を持ち上げてみた。たった一枚のメモ用紙だったが、厚紙のような重さを感じた。
手元の腕時計は、30分の経過を知らせた。
久々の感覚だった。キーボードでタイピングする時よりも、何故か時の流れがずっと緩やかであるような気がし、私はゆっくりと息を吐いた。
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