最果てより

九時木

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 はっきりと時の流れを思い出せない私に、カルテは前回の診察からそれなりの日が経ったことを伝えていた。

 記録によると、彼女の診察をするのは1週間ぶりのようだった。最近は外来患者の診察も増えたせいか、何かと忙しく、特定の患者について考え込むことが少なくなっていた。

 あるいは、私は忙殺を理由にし、aについて深く考えすぎるのを避けているのかもしれなかった。

 医師の姿勢として正しいとは言えないのかもしれない。しかし、全ての問題が深い思考によって解決できるとも言い難い状況だった。

 結局、私は時の流れに身を任せた。aとの距離感を取り戻すには、そうする他ないと判断したのだ。


 病室の扉を開けると、aはベッドから身を起こしていた。

 彼女の顔は陽光に照らされていた。彼女を見るのは久々なような気がしたが、その肌は以前と変わらず青白かった。

 思い返せば、本の話題などで熱が入る以外は、彼女はいつもそんな肌色をしていた。

 私が声をかけようとすると、彼女が先に口を開き、詩をうたった。

 「……宇宙を要約するという途方もないもくろみを抱き、精根を傾けて高雅で晦渋な手稿をやまと積み、推敲を重ねて最後の詩行に達した。

 幸運に感謝を捧げようとしてふと視線を上げると、空にかかる磨かれた円板が眼に入り、月を忘れていたことを知って動顚どうてんした」


 彼女がこちらに振り向き、にこりと微笑みかけて答える。

 「ボルヘスの『月』です。何となく忘れられなくて、大事に取っておこうと覚えたんですよ。

 作者は何か良い文章を書こうと懸命になるあまり、最も身近にある月の美しさに気づかない。

 どれだけ考え抜いた文章も、視界に飛び込む月の輝きには到底かなわないと気づかされる。

 宇宙を要約しようとむきになっているのに、確かな実体を持った月のことは忘れていた。そんな姿勢の空振りが読み取れますね。

 揺るぎない存在感を放った月への畏敬と、形ばかりの文の愚かさをうたった、面白い詩です。

 手元に本がないのに、気がつけばこの詩が頭に浮かんでいました。

 救いようがありませんね、私」

 彼女の甘い微笑みに、ほんのりと苦みが加えられる。

 私は彼女に対して同情を示したかったが、私の中の何かがそれを阻めた。

 彼女は黙り込む私を一瞥してから、話を続けた。


 「きっと、あと1週間もすれば本のことなんて忘れてしまうのでしょう。

 ほんのりとした懐かしさが残るだけで、張り切って覚えた詩も文章も、全て頭の中から消え去ってしまうんです。

 勉強と同じですね。一所懸命学んだのに内容は何一つ思い出せなくて、覚えているのはただ頑張ったという感覚だけ。

 本も所詮そんな存在なんですよ」

 彼女が話している間、私は自分が何分口を閉ざしたままだったのか、把握しきれていなかった。

 私が認識したのは、目の前の患者が僅かに切なげな顔を見せながら、こちらに何か問いかけるような眼差しを向けていることだけだった。

 ほんの一瞬、押し潰されそうな表情が私の視界に入った。それでも、その表情はやはり瞬間的なものだった。

 目の前の患者は、終始ごく落ち着いた様子で私に話しかけていた。


 「こういうことを考えていると、ある問いが浮かぶんです。

 人間は生きている間に、色々なことを学び覚える。でも、その記憶はいつまで保っていられるのだろうかと。

 歳を取ると、人は物忘れが増えていきますよね。直近の出来事から忘れて、反対に昔の記憶が強く蘇るようになる。

 でも、そんな古い思い出も次第には消え、その人は自分が何をしているのか段々わからなくなる。

 いつかは全て忘れてしまうのに、どうして人は何かを覚えようとするのか。私にはわからないんです。

 一体何のために、そんなことをするのでしょうね。先生?」


 彼女の問いは何処までも根源的で、深い思考と熟慮を必要とした。

 その引き込まれるような響きに、私はごく自然に口を開き、何か一つでも答えを言ってみたくなった。

 しかし、実際の私は医師としてどう答えるべきかを考えているばかりだった。

 医師としての正しさとは何かと、ひたすら自問し、頭の中で模索していた。

 どれだけ患者が求めていても、患者の感情を深堀りしてはならない。それがどれだけ関心を引きつけるような問いであっても、医師としての立場から逸れてはならない。

 目の前の人は、人である前に患者なのだと、私は決然とした態度で自分自身に言い聞かせた。

 そうしなければ、彼女はいつまでも私と対話を続けるだろう。いつまでも入院患者としてこの病室で暮らすことになるだろう。

 彼女に対してはいたって淡白な回答をするのが最適解ではないかと、そんな明確な答えがふと浮かんだ。

 私はその答えを実行した。できるだけ躊躇なく、迷いを見せず返すよう努めた。


 「何のためだろうね」という、詳細を語らない私の返事が病室に短く響く。

 彼女はじっとこちらを見た。強い眼差しだったが、次第に何か遠いものを見るような目に変わり、最後には私からふいと目を逸らした。

 彼女は海を眺めた。表情を変えぬまま、果てしなく続く海を一点に見つめていた。

 私たちの間に、絶対的な沈黙が居座っていた。何かの終わりを告げるような、不可逆的で冷たい沈黙だった。


 ふいに、私の視界に映る彼女が、全くの別人のように見えた。

 いつもの彼女ではない。本について嬉々として語るような彼女でも、寝不足で不安げな彼女でもない。

 私はカルテを手にしていた。だが、そのカルテも自分とは全く無関係の書類のように思えた。

 まるで赤の他人を目にしているようだった。1年間診続けてきた患者が、初めて会った相手のような、それよりもまだ顔すら知らぬ通行人のような、そんな人のように感じられた。

 彼女の目に光はなかった。空は青く、海は穏やかな波を立てていたが、その鮮やかな景色は彼女に何の感動も抱かせていないようだった。

 彼女の肌色はさらに青白く、冷たく見えた。彼女からは先程のもどかしげな表情が消え、今や何処までも無機質で変化のない顔が居座っていた。

 素早く仮面を入れ替えたかのような、省略的な転換が私の目の前で行われた。


 私はそのまま診察をしたが、それは彼女と機械の点検でもしているかのような時間だった。

 何の情緒的な響きも揺れもない、一年間の中で最も平坦なやり取りだった。

 診察後、彼女は自分から仕切りのカーテンを閉めた。自分の空間を閉ざしきるような、静かで躊躇いのない閉め方だった。

 帰りの廊下を歩いている間、私の頭の中は空白だった。

 何かが抜け落ちたような、果てしない虚脱感が私を襲い、私は自分が浮遊しているような感覚に陥った。

 ふと通りすがった別の中年患者が「先生、見てください」と言い、目を輝かせながら、色とりどりのクレヨンで描いた明るい絵を私に見せる。

 この病棟は、私に何の隙も与えてはくれないようだった。私は肩にのしかかる重みを振り払いながら、相手に力なく微笑みかけた。

 相手は絵を両手で広げたまま、無邪気に笑い返した。患者が長いこと笑ったままだったので、私は「それじゃあ」と素早く切り上げ、その場を去った。
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