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精神科医の役目は、医師として患者を治療することである。
患者との関係に悩んだとしても、決して相手をそのまま放置しておくようなことがあってはならない。
患者に病的な症状があれば、それに対処する。相手が拒絶を示しても、救いにつながるのであれば治療に取り組む。
必要な所で踏み込む強さと、距離を置く冷静さ。その2つがそろって、精神科医ははじめて正常に機能する。
私はそんな医師のあり方を確かめながら、aの治療法について考えていた。
解離的な症状、気分の沈み、対人関係への不安。彼女の症状を頭の中で並べ、整理した。
症状の整理が、問題を体系的に捉えることにつながるだろうと信じたのだ。しかし、実際はそうではなかった。
症状を並べれば並べるほど、その整理整頓が一体どんな治療につながるのか、わからなくなるばかりだった。
抗不安薬、睡眠薬、気分安定薬。処方についても一通り考えてみた。
だが、それも徒労に終わった。薬は不安定な感情や睡眠サイクルを整えるが、それ以外に何の意味があるのか、私には答えが見つからなかった。
彼女は、私とは違う生活の中で生きている。考えを突き詰めてようやく得た答えは、それだけだった。
私が他の患者の診察をしている間、彼女は1人窓の景色を眺め、波や浜辺の通行人を観察している。
彼女は自分が見たもの、見てきたものを私に伝える。しかし、私は彼女に対して形式的な返事しか寄越せない。
精神科医とは、一体何なのだろうか。誰のために、何のために存在するのだろうか。
私は精神科医が退職に至る理由を考えた。長時間労働、勤務形態、人間関係、様々な理由を考えた。
その中で、ただ1つ院長が触れなかったものがあった。
働き方でも、収入でもない。また医師自身が患者になり得るという危険性でもない。
「患者を救っているという実感のなさ」。それは沈黙の中で息を潜める、誰も口にしようとしない理由だった。
精神科医が、その理由を患者に伝えることは絶対にない。
精神科医同士がその理由を共有することも、恐らくそう多くはない。
しかし、その理由は語られないだけに、他のどんな理由よりも精神科医を苦しめるのだろう。
じわじわと、無意識下で、そのやりきれなさはくすぶり続け、精神科医の心を着実に蝕んでいくのだろう。
例の日を境に、彼女との距離はますます遠くなる一方だった。
会話は非常に淡白だった。診察中の私は、近頃の体調や薬の副作用について相手に尋ねるだけで、それ以外の情報を聞き出すことはしなかった。
彼女の方も、ただ頷いたり短く答えるだけで、もう自分の感じたことを何も語ろうとはしなかった。
いつからか、彼女は窓の景色ばかり眺めるようになった。私はその様子を見ているうちに、彼女は本当は景色ではなく、窓ガラスを見ているのではないかと思うようになった。
彼女が知らぬ間に窓ガラスを叩き割り、そこから外に飛び込んでしまうのではないかと、そんな目論見があるのではないかと警戒するようになっていた。
しかし、実際の彼女はそうはせず、ただ静物画を見るような淀んだ目で海を眺めているだけだった。
結局のところ、私の気が張り詰めているだけだった。私の中で焦りが先走りし、医師としての現実的な認識を歪めてしまっているのかもしれなかった。
彼女との会話に距離を置いてから、私の思考は段々と機械的になっていった。
患者に問診し、カルテに症状を記入する。患者の様子を伺うために、ひたすら廊下を行ったり来たりする。
行動は次第に固定化した。事務的に仕事をしているうちに、私は自分が本来の精神科医らしい振る舞いに戻りつつあるのかもしれないとさえ思うようになった。
他の医師がそうするように、患者に深入りせず、薬物療法で淡々と対処する。劇的ではないが、その方法は陰ながら患者を支えているはずだと、そう信じるようになっていた。
私は、今の自分の考えに違和感を抱かないわけではなかった。しかし、彼女との情緒的なやり取りに限界を感じていたのも事実だった。
彼女と私の間にある遠い距離感は、その時の私にはどうにも埋め合わせようのないもののように感じられていた。
私は慣性的な歩みで病室に向かい、目の前の扉を開けた。
仕切りのカーテンを開ける前に声をかけたが、返事はなかった。静かに様子を伺うと、彼女はベッドですやすやと眠っていた。
机の上には、1冊のノートが広げられていた。
開けられていたページは、真っ白だった。罫線が延々と続いているだけで、文字も何も書かれていない。
しかしよく見ると、所々が丸く滲んでいた。透明な水が落ちたかのような、そんな淡い痕跡があった。
その染みは、僅かに紙にしわを作っていた。ページの表面は控えめに凸凹しており、全体の形を歪ませていた。
ベッドで眠る彼女は、横になって布団を抱きしめていた。髪が枕の上で乱れ、頬はこけてすっかり疲れ果てているようだった。
外に目を移すと、はっきりしない天気が広がっていた。太陽は雲に隠れ、隙間からごく部分的に光が漏れている。
ヤシの木は風に揺れ、その葉は項垂れていた。海は高い波を立てず、ただゆらゆらと水面が揺れているだけだった。
何故だかわからないが、その日の私は静かに丸椅子に座った。
彼女のベッドと窓の間に椅子を置き、音のない病室で時間を過ごした。
すうすうと、彼女は小さく寝息を立てていた。その呼吸は、彼女の肺が確かに機能していることを表していた。
1人の人間が、目の前で静かに息をしていた。身を控えめに膨らませたり縮ませたりしながら、生きていた。
私の中で、何か私らしくない感情が湧いていた。これまで尊いと感じていたものが途端に何でもないように思えるような、そんな変わった感情だった。
強く確かなものが、目の前の1つの機能によってその力を無効化されてしまったような感覚だった。
その時の私は、生きていれば何でもよいと思った。
私が権威ある人に従って正しく生きようとも、反対に自らの意思を尊重して生きようとも、彼女が生きていれば何でもよいのだと思った。
それは認知を正す側としては相応しくない考えなのかもしれなかったが、その直観は私にそれ以上の異議を唱えさせなかった。
目の前の彼女は私に背を向けたまま丸まり、静かに眠り続けていた。
布団は彼女の体を覆わず、彼女の腕の中に収められていた。私はブランケットを運び、彼女の上にかけておこうかと思ったが、やめた。
私は眠る彼女を眺めてから、椅子から立ち上がった。そうしてカーテンをそっと閉め、できるだけ音を立てぬよう気をつけながら病室を去った。
患者との関係に悩んだとしても、決して相手をそのまま放置しておくようなことがあってはならない。
患者に病的な症状があれば、それに対処する。相手が拒絶を示しても、救いにつながるのであれば治療に取り組む。
必要な所で踏み込む強さと、距離を置く冷静さ。その2つがそろって、精神科医ははじめて正常に機能する。
私はそんな医師のあり方を確かめながら、aの治療法について考えていた。
解離的な症状、気分の沈み、対人関係への不安。彼女の症状を頭の中で並べ、整理した。
症状の整理が、問題を体系的に捉えることにつながるだろうと信じたのだ。しかし、実際はそうではなかった。
症状を並べれば並べるほど、その整理整頓が一体どんな治療につながるのか、わからなくなるばかりだった。
抗不安薬、睡眠薬、気分安定薬。処方についても一通り考えてみた。
だが、それも徒労に終わった。薬は不安定な感情や睡眠サイクルを整えるが、それ以外に何の意味があるのか、私には答えが見つからなかった。
彼女は、私とは違う生活の中で生きている。考えを突き詰めてようやく得た答えは、それだけだった。
私が他の患者の診察をしている間、彼女は1人窓の景色を眺め、波や浜辺の通行人を観察している。
彼女は自分が見たもの、見てきたものを私に伝える。しかし、私は彼女に対して形式的な返事しか寄越せない。
精神科医とは、一体何なのだろうか。誰のために、何のために存在するのだろうか。
私は精神科医が退職に至る理由を考えた。長時間労働、勤務形態、人間関係、様々な理由を考えた。
その中で、ただ1つ院長が触れなかったものがあった。
働き方でも、収入でもない。また医師自身が患者になり得るという危険性でもない。
「患者を救っているという実感のなさ」。それは沈黙の中で息を潜める、誰も口にしようとしない理由だった。
精神科医が、その理由を患者に伝えることは絶対にない。
精神科医同士がその理由を共有することも、恐らくそう多くはない。
しかし、その理由は語られないだけに、他のどんな理由よりも精神科医を苦しめるのだろう。
じわじわと、無意識下で、そのやりきれなさはくすぶり続け、精神科医の心を着実に蝕んでいくのだろう。
例の日を境に、彼女との距離はますます遠くなる一方だった。
会話は非常に淡白だった。診察中の私は、近頃の体調や薬の副作用について相手に尋ねるだけで、それ以外の情報を聞き出すことはしなかった。
彼女の方も、ただ頷いたり短く答えるだけで、もう自分の感じたことを何も語ろうとはしなかった。
いつからか、彼女は窓の景色ばかり眺めるようになった。私はその様子を見ているうちに、彼女は本当は景色ではなく、窓ガラスを見ているのではないかと思うようになった。
彼女が知らぬ間に窓ガラスを叩き割り、そこから外に飛び込んでしまうのではないかと、そんな目論見があるのではないかと警戒するようになっていた。
しかし、実際の彼女はそうはせず、ただ静物画を見るような淀んだ目で海を眺めているだけだった。
結局のところ、私の気が張り詰めているだけだった。私の中で焦りが先走りし、医師としての現実的な認識を歪めてしまっているのかもしれなかった。
彼女との会話に距離を置いてから、私の思考は段々と機械的になっていった。
患者に問診し、カルテに症状を記入する。患者の様子を伺うために、ひたすら廊下を行ったり来たりする。
行動は次第に固定化した。事務的に仕事をしているうちに、私は自分が本来の精神科医らしい振る舞いに戻りつつあるのかもしれないとさえ思うようになった。
他の医師がそうするように、患者に深入りせず、薬物療法で淡々と対処する。劇的ではないが、その方法は陰ながら患者を支えているはずだと、そう信じるようになっていた。
私は、今の自分の考えに違和感を抱かないわけではなかった。しかし、彼女との情緒的なやり取りに限界を感じていたのも事実だった。
彼女と私の間にある遠い距離感は、その時の私にはどうにも埋め合わせようのないもののように感じられていた。
私は慣性的な歩みで病室に向かい、目の前の扉を開けた。
仕切りのカーテンを開ける前に声をかけたが、返事はなかった。静かに様子を伺うと、彼女はベッドですやすやと眠っていた。
机の上には、1冊のノートが広げられていた。
開けられていたページは、真っ白だった。罫線が延々と続いているだけで、文字も何も書かれていない。
しかしよく見ると、所々が丸く滲んでいた。透明な水が落ちたかのような、そんな淡い痕跡があった。
その染みは、僅かに紙にしわを作っていた。ページの表面は控えめに凸凹しており、全体の形を歪ませていた。
ベッドで眠る彼女は、横になって布団を抱きしめていた。髪が枕の上で乱れ、頬はこけてすっかり疲れ果てているようだった。
外に目を移すと、はっきりしない天気が広がっていた。太陽は雲に隠れ、隙間からごく部分的に光が漏れている。
ヤシの木は風に揺れ、その葉は項垂れていた。海は高い波を立てず、ただゆらゆらと水面が揺れているだけだった。
何故だかわからないが、その日の私は静かに丸椅子に座った。
彼女のベッドと窓の間に椅子を置き、音のない病室で時間を過ごした。
すうすうと、彼女は小さく寝息を立てていた。その呼吸は、彼女の肺が確かに機能していることを表していた。
1人の人間が、目の前で静かに息をしていた。身を控えめに膨らませたり縮ませたりしながら、生きていた。
私の中で、何か私らしくない感情が湧いていた。これまで尊いと感じていたものが途端に何でもないように思えるような、そんな変わった感情だった。
強く確かなものが、目の前の1つの機能によってその力を無効化されてしまったような感覚だった。
その時の私は、生きていれば何でもよいと思った。
私が権威ある人に従って正しく生きようとも、反対に自らの意思を尊重して生きようとも、彼女が生きていれば何でもよいのだと思った。
それは認知を正す側としては相応しくない考えなのかもしれなかったが、その直観は私にそれ以上の異議を唱えさせなかった。
目の前の彼女は私に背を向けたまま丸まり、静かに眠り続けていた。
布団は彼女の体を覆わず、彼女の腕の中に収められていた。私はブランケットを運び、彼女の上にかけておこうかと思ったが、やめた。
私は眠る彼女を眺めてから、椅子から立ち上がった。そうしてカーテンをそっと閉め、できるだけ音を立てぬよう気をつけながら病室を去った。
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