28 / 52
第5章・僕たちに心がある意味
第28話
しおりを挟む
食事のあと、食器を洗う蝶々さんの横で、僕は洗い終わった食器を布巾で拭いていた。
渡されたお皿を受け取り、拭いて食器棚にしまっていく。淡々と作業をこなしていると、蝶々さんが控えめに話しかけてくる。
「ねぇしおちゃん。あれ、本当に私がもらっちゃっていいの?」
「え?」
手を止め、顔を上げる。
あれって、なんだっけ? ほんの一瞬、分からなかった。蝶々さんと視線が交わって、すぐにあぁ、と理解する。
キーホルダーだ。桜にあげるはずだった、黒猫のキーホルダー。
「しおちゃんからプレゼントなんてしばらくぶりだったからすごく嬉しいけど、これをもらうべきは私じゃない気がするのよね」
蝶々さんは優しい微笑みを浮かべたまま、食器を洗い続けている。
「だれかにあげるつもりだったんじゃない?」
僕は蝶々さんから受け取ったばかりの食器を台に置き、ゆっくりと瞼をおろす。半分くらいじぶんの視界を潰したところで、僕は一度だけ瞬きをした。
食器に張り付いた玉のような水滴が、ゆるい曲線の上を音もなく滑り落ちていく。それをぼんやりと目で追いかけながら、呟いた。
「……でも、いらないって言われちゃったから」
呆れるほど、情けない声だった。
「そっか」
蝶々さんはそれ以上、追求はしてこない。
僕は自ら話し始めた。
「……実は僕、好きなひとがいるんです」
蝶々さんはほんの少し驚いた顔をした。
僕に好きなひとがいることに、ではなく、たぶん、僕が自らじぶんのことを話し始めたことに驚愕したのだ。今まで僕がじぶんから話をすることなんてなかったから。
だけど今は不思議と羞恥よりも、聞いてほしい、という気持ちのほうが強かった。
「まあ、ふられちゃったんですけどね」
「……どんな子なの?」
蝶々さんが柔らかな声音で訊く。ずいぶん心が弱っているのか、たったそれだけのことでも、涙腺が緩んだ。
「いつでも明るくて無邪気で……だけどちょっと変わった子なんです。ムードメーカーっていうか、トラブルメーカーっていうか。その子と知り合った瞬間、僕の学校生活は、思っていたものじゃなくなりました」
そもそも僕はこの街へ、ひとりになるためにやってきた。それなのに、彼女と出会った日、僕のなかのなにかが変わった。
きっともう二度と交わることはないと思っていた凪とも仲直りをして、新しい友だちまでできた。同性の友だちだけではなく、女の子の友だちまでできた。
今、蝶々さんに訊かれて頭のなかを整理して、実感する。
なにかが変わった、どころではない。僕の世界は、なにもかもが変わっている。
ぜんぶ、彼女が変えてくれたのだ。
「……こっちでの生活は、神奈川にいたときに思っていたものではまるでなくなったけれど、でも、今のこの生活は案外悪くないかもって、思ってたりして」
「そっか……しおちゃんも出会ったんだね。特別だと思えるひとに」
僕は彼女にふられてしまったし、彼女にとって僕は、さほど大切な登場人物ではないのかもしれない。
でも、僕にとっては大切なひとだ。それは間違いない。
僕はたぶん、彼女がいなかったら今もひとりのままだった。うずくまったままだった。だから、彼女には僕ができるかぎりの恩返しがしたい。ふられてなお、その気持ちは変わらない。それどころか、強くなるいっぽうだった。
「……あの」
僕は思い切って蝶々さんに訊ねた。
「……もし好きなひとが秘密を抱えて悩んでいたら、蝶々さんならどうしますか?」
蝶々さんは食器を洗うのをやめ、手を拭きながら小さく唸る。
「その子はなにも言ってくれないけれど、なにかを抱えているのは明らかで、その秘密のせいですごく辛そうなんです。でも、重要な内容はなにも教えてくれなくて……」
「……そうねぇ。状況がよく分からないけど、本人が言いたくなさそうなら、無理には聞かない」
興味本位で知りたいわけではないとはいえ、無理に踏み込むのはきっと違うと思うから。そう、蝶々さんは言う。
「やっぱりそうですよね……」
天井を仰ぐ。落胆の滲む吐息が漏れた。やっぱり、そっとしておくべきなのだろうか。
「……っていうのは一般的な考えで、私個人の意見としては、無理やりにでも聞き出すかな」
「えっ」
蝶々さんらしくない苛烈な発言に驚いて目を向けるが、その表情を見て、僕は開けていた口を閉じた。冗談を言っている顔ではなかった。
渡されたお皿を受け取り、拭いて食器棚にしまっていく。淡々と作業をこなしていると、蝶々さんが控えめに話しかけてくる。
「ねぇしおちゃん。あれ、本当に私がもらっちゃっていいの?」
「え?」
手を止め、顔を上げる。
あれって、なんだっけ? ほんの一瞬、分からなかった。蝶々さんと視線が交わって、すぐにあぁ、と理解する。
キーホルダーだ。桜にあげるはずだった、黒猫のキーホルダー。
「しおちゃんからプレゼントなんてしばらくぶりだったからすごく嬉しいけど、これをもらうべきは私じゃない気がするのよね」
蝶々さんは優しい微笑みを浮かべたまま、食器を洗い続けている。
「だれかにあげるつもりだったんじゃない?」
僕は蝶々さんから受け取ったばかりの食器を台に置き、ゆっくりと瞼をおろす。半分くらいじぶんの視界を潰したところで、僕は一度だけ瞬きをした。
食器に張り付いた玉のような水滴が、ゆるい曲線の上を音もなく滑り落ちていく。それをぼんやりと目で追いかけながら、呟いた。
「……でも、いらないって言われちゃったから」
呆れるほど、情けない声だった。
「そっか」
蝶々さんはそれ以上、追求はしてこない。
僕は自ら話し始めた。
「……実は僕、好きなひとがいるんです」
蝶々さんはほんの少し驚いた顔をした。
僕に好きなひとがいることに、ではなく、たぶん、僕が自らじぶんのことを話し始めたことに驚愕したのだ。今まで僕がじぶんから話をすることなんてなかったから。
だけど今は不思議と羞恥よりも、聞いてほしい、という気持ちのほうが強かった。
「まあ、ふられちゃったんですけどね」
「……どんな子なの?」
蝶々さんが柔らかな声音で訊く。ずいぶん心が弱っているのか、たったそれだけのことでも、涙腺が緩んだ。
「いつでも明るくて無邪気で……だけどちょっと変わった子なんです。ムードメーカーっていうか、トラブルメーカーっていうか。その子と知り合った瞬間、僕の学校生活は、思っていたものじゃなくなりました」
そもそも僕はこの街へ、ひとりになるためにやってきた。それなのに、彼女と出会った日、僕のなかのなにかが変わった。
きっともう二度と交わることはないと思っていた凪とも仲直りをして、新しい友だちまでできた。同性の友だちだけではなく、女の子の友だちまでできた。
今、蝶々さんに訊かれて頭のなかを整理して、実感する。
なにかが変わった、どころではない。僕の世界は、なにもかもが変わっている。
ぜんぶ、彼女が変えてくれたのだ。
「……こっちでの生活は、神奈川にいたときに思っていたものではまるでなくなったけれど、でも、今のこの生活は案外悪くないかもって、思ってたりして」
「そっか……しおちゃんも出会ったんだね。特別だと思えるひとに」
僕は彼女にふられてしまったし、彼女にとって僕は、さほど大切な登場人物ではないのかもしれない。
でも、僕にとっては大切なひとだ。それは間違いない。
僕はたぶん、彼女がいなかったら今もひとりのままだった。うずくまったままだった。だから、彼女には僕ができるかぎりの恩返しがしたい。ふられてなお、その気持ちは変わらない。それどころか、強くなるいっぽうだった。
「……あの」
僕は思い切って蝶々さんに訊ねた。
「……もし好きなひとが秘密を抱えて悩んでいたら、蝶々さんならどうしますか?」
蝶々さんは食器を洗うのをやめ、手を拭きながら小さく唸る。
「その子はなにも言ってくれないけれど、なにかを抱えているのは明らかで、その秘密のせいですごく辛そうなんです。でも、重要な内容はなにも教えてくれなくて……」
「……そうねぇ。状況がよく分からないけど、本人が言いたくなさそうなら、無理には聞かない」
興味本位で知りたいわけではないとはいえ、無理に踏み込むのはきっと違うと思うから。そう、蝶々さんは言う。
「やっぱりそうですよね……」
天井を仰ぐ。落胆の滲む吐息が漏れた。やっぱり、そっとしておくべきなのだろうか。
「……っていうのは一般的な考えで、私個人の意見としては、無理やりにでも聞き出すかな」
「えっ」
蝶々さんらしくない苛烈な発言に驚いて目を向けるが、その表情を見て、僕は開けていた口を閉じた。冗談を言っている顔ではなかった。
10
あなたにおすすめの小説
黒に染まった華を摘む
馬場 蓮実
青春
夏の終わりに転校してきたのは、忘れられない初恋の相手だった——。
高須明希は、人生で“二番目”に好きになった相手——河西栞に密かに想いを寄せている。
「夏休み明けの初日。この席替えで、彼女との距離を縮めたい。話すきっかけがほしい——」
そんな願いを胸に登校したその朝、クラスに一人の転校生がやってくる。
彼女の名は、立石麻美。
昔の面影を残しながらも、まるで別人のような気配をまとう彼女は——明希にとって、忘れられない“初恋の人”だった。
この再会が、静かだった日常に波紋を広げていく。
その日の放課後。
明希は、"性の衝動"に溺れる自身の姿を、麻美に見られてしまう——。
塞がっていた何かが、ゆっくりと崩れはじめる。
そして鬱屈した青春は、想像もしていなかった熱と痛みを帯びて動き出す。
すべてに触れたとき、
明希は何を守り、何を選ぶのか。
光と影が交錯する、“遅れてきた”ひと夏の物語。
僕《わたし》は誰でしょう
紫音みけ🐾新刊2月中旬発売!
青春
※第7回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
交通事故の後遺症で記憶喪失になってしまった女子高生・比良坂すずは、自分が女であることに違和感を抱く。
「自分はもともと男ではなかったか?」
事故後から男性寄りの思考になり、周囲とのギャップに悩む彼女は、次第に身に覚えのないはずの記憶を思い出し始める。まるで別人のものとしか思えないその記憶は、一体どこから来たのだろうか。
見知らぬ思い出をめぐる青春SF。
※表紙イラスト=ミカスケ様
橘若頭と怖がり姫
真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。
その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。
高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。
時間を止めて ~忘れられない元カレは完璧な容姿と天性の才能を持つ世界一残酷な人でした 【完結】
remo
恋愛
どんなに好きになっても、彼は絶対に私を愛さない。
佐倉ここ。
玩具メーカーで働く24歳のOL。
鬼上司・高野雅(がく)に叱責されながら仕事に奔走する中、忘れられない元カレ・常盤千晃(ちあき)に再会。
完璧な容姿と天性の才能を持つ世界一残酷な彼には、悲しい秘密があった。
【完結】ありがとうございました‼
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜
橘しづき
恋愛
姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。
私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。
だが当日、姉は結婚式に来なかった。 パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。
「私が……蒼一さんと結婚します」
姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる