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第5章・僕たちに心がある意味
第29話
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「私はちょうどしおちゃんと同じくらいの歳のとき、その選択をして後悔してるから」
彼女の口から発せられたたった二文字の言葉から、とてつもない重みを感じる。蝶々さんは、過去を思い出していた。
「それって、蝶々さんが中学生くらいのとき、失踪しちゃったっていう……?」
恐る恐る訊ねると、蝶々さんは「そう」と小さく頷いた。
「今でも後悔してる。あのとき、ちゃんと彼女の悩みを聞いてあげなかったこと」
蝶々さんはどこか遠くへ目を向けたまま、静かに語る。
「……そのひとは、なにかに悩んでたんですか?」
蝶々さんは頷く。
「学校でね、クラスの子からいじめられてたみたいなんだ」
聞いた瞬間、喉が締まるのを感じた。
「いじめ……」
まるで気道を見えない糸で強く締めあげられているみたいに、呼吸がままならなくなる。
顔も知らない蝶々さんの親友の姿が、白い煙のような得体の知れない姿となって、ゆっくりと僕の身体に染み込んでくるようだった。手や脇から思い出したように汗が噴き出し、鼓動が徐々に早まっていく。トラウマに呑み込まれそうになって、僕は強く目を瞑った。じぶん自身を労わるようにゆっくり息を吐きながら、目を開けて蝶々さんを見る。
「私、彼女がいじめられてたこと、ぜんぜん知らなくて。彼女がいなくなってから知ったの」
いつも柔らかな光を映している彼女の瞳に、その光はなかった。
「彼女の失踪の原因は、いじめだったってこと?」
違う、と否定してくれることを期待して、僕は蝶々さんに訊く。けれど、蝶々さんはなにも言わない。固く口を閉じたまま、頷きも、首を横に振りもしなかった。
全身から、力が抜けていく。
〝自殺〟というワードが脳裏をかすめ、思わぬ内容に僕は奥歯を噛む。
「……で、でも、その友だちは、蝶々さんにいじめられてたことを黙ってたってことですよね?」
「そうね」と、蝶々さんがようやく頷く。
「それなら……っ」
蝶々さんは悪くない。後悔する必要はないはずだ。彼女は、蝶々さんに助けを求めなかったのだから。心のなかで、そう励ます。
だけどそれを、言葉にはできなかった。僕には、失踪してしまった彼女の気持ちが痛いほどよく分かったから。
いじめの渦中にいた頃、僕も心のなかで毎日叫んでいた。
助けて。助けて、だれか、助けて……!
そう、叫んでいた。
でも実際、言葉にはできなかった。家族にすら、言えなかった。
蝶々さんは流し台についていた手を、まるでなにかを握るようにぎゅっと力を込めた。
「言いたくなかったのか、言えなかったのかは分からない。あの子はもういないから。でも、ただひとつ分かるのは、あのとき彼女を救えたのは私しかいなかった」
「……それは……」
彼女はおそらく、いなくなるずっと前からサインを出してたんだと思う。私はそれに気付かなきゃいけなかったのに、気付けなかった。
蝶々さんの呟きは、今にも消えてしまいそうなほどに小さい。伝わってくるのは、じくじくとした深い後悔。
「……でも、蝶々さんとそのひとは、違う学校だったんですよね?」
母からは、そう聞いている。もしそれが事実なら、蝶々さんが彼女がいじめられている事実を知ることは不可能だ。彼女が言わない限りは。
「そうだとしても、私は気付くべきだった」
「……それは、そうかもしれないですけど……」
救いがない、と思った。蝶々さんが抱えているものは、親友が蝶々さんに残したものは、あまりにも残酷だ。
蝶々さんは数度瞬きを繰り返したあと、僕に向き直った。僕の目の前には、いつもの柔らかな光を宿した蝶々さんがいる。それが余計に悲しくて、僕は唇を引き結んだ。
「本当に追い詰められてるときほど、ひとは辛いって言えない。だから、だれかが気付いてあげなきゃいけない。だけど他人に踏み込むのは勇気がいるから、助けを差しのべるのも簡単じゃない。拒絶されるかもしれないし、踏み込んだ以上は責任も降り掛かってくる」
「……うん」
そのとおりだ。現に僕は、彼女にこれ以上拒絶されるのが怖くて、その一歩が踏み出せないままでいる。
「……でもね、結局、結果なんだと思うよ。結果が良ければよかったって思うし、踏み込んだのに拒絶されたり、悪い結果になったらどのみち後悔する。どうするのがいいっていう模範はないよ。私は、親友のことがあって、もう二度と後悔したくなかった。だからあのとき、しおちゃんに踏み込んだ。その結果はもちろん後悔してないよ。だって私の前には今、こうしてしおちゃんがちゃんといてくれてるから」
涙があふれ出そうになって、僕は唇を噛み締めることでなんとか堪える。
「しおちゃんは、しおちゃん自身がどうしたいかで決めるべきだと思う」
「僕が……決める」
蝶々さんに問うというより、じぶんに言い聞かせるように呟く。
「うん。しおちゃんが考えて、決めるの」
彼女がどうしてほしいかなんて、いくら考えたところで分かりっこない。分かるのは、僕がどうしたいかということだ。
辛いときほど口に出せなかったという経験は、僕にもある。
目を閉じてよみがえるのは、暗闇のなかにいた僕を救い出してくれた蝶々さんの姿だった。
彼女の口から発せられたたった二文字の言葉から、とてつもない重みを感じる。蝶々さんは、過去を思い出していた。
「それって、蝶々さんが中学生くらいのとき、失踪しちゃったっていう……?」
恐る恐る訊ねると、蝶々さんは「そう」と小さく頷いた。
「今でも後悔してる。あのとき、ちゃんと彼女の悩みを聞いてあげなかったこと」
蝶々さんはどこか遠くへ目を向けたまま、静かに語る。
「……そのひとは、なにかに悩んでたんですか?」
蝶々さんは頷く。
「学校でね、クラスの子からいじめられてたみたいなんだ」
聞いた瞬間、喉が締まるのを感じた。
「いじめ……」
まるで気道を見えない糸で強く締めあげられているみたいに、呼吸がままならなくなる。
顔も知らない蝶々さんの親友の姿が、白い煙のような得体の知れない姿となって、ゆっくりと僕の身体に染み込んでくるようだった。手や脇から思い出したように汗が噴き出し、鼓動が徐々に早まっていく。トラウマに呑み込まれそうになって、僕は強く目を瞑った。じぶん自身を労わるようにゆっくり息を吐きながら、目を開けて蝶々さんを見る。
「私、彼女がいじめられてたこと、ぜんぜん知らなくて。彼女がいなくなってから知ったの」
いつも柔らかな光を映している彼女の瞳に、その光はなかった。
「彼女の失踪の原因は、いじめだったってこと?」
違う、と否定してくれることを期待して、僕は蝶々さんに訊く。けれど、蝶々さんはなにも言わない。固く口を閉じたまま、頷きも、首を横に振りもしなかった。
全身から、力が抜けていく。
〝自殺〟というワードが脳裏をかすめ、思わぬ内容に僕は奥歯を噛む。
「……で、でも、その友だちは、蝶々さんにいじめられてたことを黙ってたってことですよね?」
「そうね」と、蝶々さんがようやく頷く。
「それなら……っ」
蝶々さんは悪くない。後悔する必要はないはずだ。彼女は、蝶々さんに助けを求めなかったのだから。心のなかで、そう励ます。
だけどそれを、言葉にはできなかった。僕には、失踪してしまった彼女の気持ちが痛いほどよく分かったから。
いじめの渦中にいた頃、僕も心のなかで毎日叫んでいた。
助けて。助けて、だれか、助けて……!
そう、叫んでいた。
でも実際、言葉にはできなかった。家族にすら、言えなかった。
蝶々さんは流し台についていた手を、まるでなにかを握るようにぎゅっと力を込めた。
「言いたくなかったのか、言えなかったのかは分からない。あの子はもういないから。でも、ただひとつ分かるのは、あのとき彼女を救えたのは私しかいなかった」
「……それは……」
彼女はおそらく、いなくなるずっと前からサインを出してたんだと思う。私はそれに気付かなきゃいけなかったのに、気付けなかった。
蝶々さんの呟きは、今にも消えてしまいそうなほどに小さい。伝わってくるのは、じくじくとした深い後悔。
「……でも、蝶々さんとそのひとは、違う学校だったんですよね?」
母からは、そう聞いている。もしそれが事実なら、蝶々さんが彼女がいじめられている事実を知ることは不可能だ。彼女が言わない限りは。
「そうだとしても、私は気付くべきだった」
「……それは、そうかもしれないですけど……」
救いがない、と思った。蝶々さんが抱えているものは、親友が蝶々さんに残したものは、あまりにも残酷だ。
蝶々さんは数度瞬きを繰り返したあと、僕に向き直った。僕の目の前には、いつもの柔らかな光を宿した蝶々さんがいる。それが余計に悲しくて、僕は唇を引き結んだ。
「本当に追い詰められてるときほど、ひとは辛いって言えない。だから、だれかが気付いてあげなきゃいけない。だけど他人に踏み込むのは勇気がいるから、助けを差しのべるのも簡単じゃない。拒絶されるかもしれないし、踏み込んだ以上は責任も降り掛かってくる」
「……うん」
そのとおりだ。現に僕は、彼女にこれ以上拒絶されるのが怖くて、その一歩が踏み出せないままでいる。
「……でもね、結局、結果なんだと思うよ。結果が良ければよかったって思うし、踏み込んだのに拒絶されたり、悪い結果になったらどのみち後悔する。どうするのがいいっていう模範はないよ。私は、親友のことがあって、もう二度と後悔したくなかった。だからあのとき、しおちゃんに踏み込んだ。その結果はもちろん後悔してないよ。だって私の前には今、こうしてしおちゃんがちゃんといてくれてるから」
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目を閉じてよみがえるのは、暗闇のなかにいた僕を救い出してくれた蝶々さんの姿だった。
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