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第5章・僕たちに心がある意味
第28話
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食事のあと、食器を洗う蝶々さんの横で、僕は洗い終わった食器を布巾で拭いていた。
渡されたお皿を受け取り、拭いて食器棚にしまっていく。淡々と作業をこなしていると、蝶々さんが控えめに話しかけてくる。
「ねぇしおちゃん。あれ、本当に私がもらっちゃっていいの?」
「え?」
手を止め、顔を上げる。
あれって、なんだっけ? ほんの一瞬、分からなかった。蝶々さんと視線が交わって、すぐにあぁ、と理解する。
キーホルダーだ。桜にあげるはずだった、黒猫のキーホルダー。
「しおちゃんからプレゼントなんてしばらくぶりだったからすごく嬉しいけど、これをもらうべきは私じゃない気がするのよね」
蝶々さんは優しい微笑みを浮かべたまま、食器を洗い続けている。
「だれかにあげるつもりだったんじゃない?」
僕は蝶々さんから受け取ったばかりの食器を台に置き、ゆっくりと瞼をおろす。半分くらいじぶんの視界を潰したところで、僕は一度だけ瞬きをした。
食器に張り付いた玉のような水滴が、ゆるい曲線の上を音もなく滑り落ちていく。それをぼんやりと目で追いかけながら、呟いた。
「……でも、いらないって言われちゃったから」
呆れるほど、情けない声だった。
「そっか」
蝶々さんはそれ以上、追求はしてこない。
僕は自ら話し始めた。
「……実は僕、好きなひとがいるんです」
蝶々さんはほんの少し驚いた顔をした。
僕に好きなひとがいることに、ではなく、たぶん、僕が自らじぶんのことを話し始めたことに驚愕したのだ。今まで僕がじぶんから話をすることなんてなかったから。
だけど今は不思議と羞恥よりも、聞いてほしい、という気持ちのほうが強かった。
「まあ、ふられちゃったんですけどね」
「……どんな子なの?」
蝶々さんが柔らかな声音で訊く。ずいぶん心が弱っているのか、たったそれだけのことでも、涙腺が緩んだ。
「いつでも明るくて無邪気で……だけどちょっと変わった子なんです。ムードメーカーっていうか、トラブルメーカーっていうか。その子と知り合った瞬間、僕の学校生活は、思っていたものじゃなくなりました」
そもそも僕はこの街へ、ひとりになるためにやってきた。それなのに、彼女と出会った日、僕のなかのなにかが変わった。
きっともう二度と交わることはないと思っていた凪とも仲直りをして、新しい友だちまでできた。同性の友だちだけではなく、女の子の友だちまでできた。
今、蝶々さんに訊かれて頭のなかを整理して、実感する。
なにかが変わった、どころではない。僕の世界は、なにもかもが変わっている。
ぜんぶ、彼女が変えてくれたのだ。
「……こっちでの生活は、神奈川にいたときに思っていたものではまるでなくなったけれど、でも、今のこの生活は案外悪くないかもって、思ってたりして」
「そっか……しおちゃんも出会ったんだね。特別だと思えるひとに」
僕は彼女にふられてしまったし、彼女にとって僕は、さほど大切な登場人物ではないのかもしれない。
でも、僕にとっては大切なひとだ。それは間違いない。
僕はたぶん、彼女がいなかったら今もひとりのままだった。うずくまったままだった。だから、彼女には僕ができるかぎりの恩返しがしたい。ふられてなお、その気持ちは変わらない。それどころか、強くなるいっぽうだった。
「……あの」
僕は思い切って蝶々さんに訊ねた。
「……もし好きなひとが秘密を抱えて悩んでいたら、蝶々さんならどうしますか?」
蝶々さんは食器を洗うのをやめ、手を拭きながら小さく唸る。
「その子はなにも言ってくれないけれど、なにかを抱えているのは明らかで、その秘密のせいですごく辛そうなんです。でも、重要な内容はなにも教えてくれなくて……」
「……そうねぇ。状況がよく分からないけど、本人が言いたくなさそうなら、無理には聞かない」
興味本位で知りたいわけではないとはいえ、無理に踏み込むのはきっと違うと思うから。そう、蝶々さんは言う。
「やっぱりそうですよね……」
天井を仰ぐ。落胆の滲む吐息が漏れた。やっぱり、そっとしておくべきなのだろうか。
「……っていうのは一般的な考えで、私個人の意見としては、無理やりにでも聞き出すかな」
「えっ」
蝶々さんらしくない苛烈な発言に驚いて目を向けるが、その表情を見て、僕は開けていた口を閉じた。冗談を言っている顔ではなかった。
渡されたお皿を受け取り、拭いて食器棚にしまっていく。淡々と作業をこなしていると、蝶々さんが控えめに話しかけてくる。
「ねぇしおちゃん。あれ、本当に私がもらっちゃっていいの?」
「え?」
手を止め、顔を上げる。
あれって、なんだっけ? ほんの一瞬、分からなかった。蝶々さんと視線が交わって、すぐにあぁ、と理解する。
キーホルダーだ。桜にあげるはずだった、黒猫のキーホルダー。
「しおちゃんからプレゼントなんてしばらくぶりだったからすごく嬉しいけど、これをもらうべきは私じゃない気がするのよね」
蝶々さんは優しい微笑みを浮かべたまま、食器を洗い続けている。
「だれかにあげるつもりだったんじゃない?」
僕は蝶々さんから受け取ったばかりの食器を台に置き、ゆっくりと瞼をおろす。半分くらいじぶんの視界を潰したところで、僕は一度だけ瞬きをした。
食器に張り付いた玉のような水滴が、ゆるい曲線の上を音もなく滑り落ちていく。それをぼんやりと目で追いかけながら、呟いた。
「……でも、いらないって言われちゃったから」
呆れるほど、情けない声だった。
「そっか」
蝶々さんはそれ以上、追求はしてこない。
僕は自ら話し始めた。
「……実は僕、好きなひとがいるんです」
蝶々さんはほんの少し驚いた顔をした。
僕に好きなひとがいることに、ではなく、たぶん、僕が自らじぶんのことを話し始めたことに驚愕したのだ。今まで僕がじぶんから話をすることなんてなかったから。
だけど今は不思議と羞恥よりも、聞いてほしい、という気持ちのほうが強かった。
「まあ、ふられちゃったんですけどね」
「……どんな子なの?」
蝶々さんが柔らかな声音で訊く。ずいぶん心が弱っているのか、たったそれだけのことでも、涙腺が緩んだ。
「いつでも明るくて無邪気で……だけどちょっと変わった子なんです。ムードメーカーっていうか、トラブルメーカーっていうか。その子と知り合った瞬間、僕の学校生活は、思っていたものじゃなくなりました」
そもそも僕はこの街へ、ひとりになるためにやってきた。それなのに、彼女と出会った日、僕のなかのなにかが変わった。
きっともう二度と交わることはないと思っていた凪とも仲直りをして、新しい友だちまでできた。同性の友だちだけではなく、女の子の友だちまでできた。
今、蝶々さんに訊かれて頭のなかを整理して、実感する。
なにかが変わった、どころではない。僕の世界は、なにもかもが変わっている。
ぜんぶ、彼女が変えてくれたのだ。
「……こっちでの生活は、神奈川にいたときに思っていたものではまるでなくなったけれど、でも、今のこの生活は案外悪くないかもって、思ってたりして」
「そっか……しおちゃんも出会ったんだね。特別だと思えるひとに」
僕は彼女にふられてしまったし、彼女にとって僕は、さほど大切な登場人物ではないのかもしれない。
でも、僕にとっては大切なひとだ。それは間違いない。
僕はたぶん、彼女がいなかったら今もひとりのままだった。うずくまったままだった。だから、彼女には僕ができるかぎりの恩返しがしたい。ふられてなお、その気持ちは変わらない。それどころか、強くなるいっぽうだった。
「……あの」
僕は思い切って蝶々さんに訊ねた。
「……もし好きなひとが秘密を抱えて悩んでいたら、蝶々さんならどうしますか?」
蝶々さんは食器を洗うのをやめ、手を拭きながら小さく唸る。
「その子はなにも言ってくれないけれど、なにかを抱えているのは明らかで、その秘密のせいですごく辛そうなんです。でも、重要な内容はなにも教えてくれなくて……」
「……そうねぇ。状況がよく分からないけど、本人が言いたくなさそうなら、無理には聞かない」
興味本位で知りたいわけではないとはいえ、無理に踏み込むのはきっと違うと思うから。そう、蝶々さんは言う。
「やっぱりそうですよね……」
天井を仰ぐ。落胆の滲む吐息が漏れた。やっぱり、そっとしておくべきなのだろうか。
「……っていうのは一般的な考えで、私個人の意見としては、無理やりにでも聞き出すかな」
「えっ」
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