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第5章・僕たちに心がある意味
第27話
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どんよりした面持ちで家に帰ると、まだ五時前だというのに、珍しく蝶々さんが帰っていた。
「あ、おかえりしおちゃん」
返事に詰まっていると、怪訝に思ったのか、蝶々さんが振り返った。
「……どうかした?」
「いえべつに……それより蝶々さん、今日は仕事早く終わったんですね?」
「あぁ、うん。今日くらい帰って休めって、同僚に言われちゃってね」
「ずっと働き詰めでしたもんね」
「まぁね……。さて、しおちゃんも帰ってきたことだし、そろそろお夕飯の準備をしないとね」
そう言って、蝶々さんが台所に立つ。
僕は手を開く。手のなかには、彼女に突き返されてしまったキーホルダーがある。
「……あの、蝶々さん。これ、よかったらもらってください」
蝶々さんは振り返ると、わずかに戸惑いの色を浮かべてキーホルダーを受け取った。
「……あら、可愛い。どうしたの、これ」
「……なんとなく欲しくなって買ったんですけど、やっぱりいらなかったなって」
我ながら、苦しい言い訳だ。
けれど蝶々さんはなにも訊かず、
「……そっか。じゃあいただこうかな」
にこりと笑って受け取ってくれた。
なんてことないプラスチック製のキーホルダーなのに、それが手のひらからなくなっただけで、ずいぶん気持ちが軽くなったような気がする。
蝶々さんは嬉しそうにキーホルダーを目の前に掲げ持ち、どこに付けようかな、と嬉しそうに眺めていた。
なんとなく、蝶々さんにはすべてを見透かされている気がする。
でも、なにも言わないでいてくれるところが彼女らしい。ホッとしたような、だけどちょっと物足りない気がするような、複雑な気持ちが胸に広がる。こんな気持ち、とても言語化できそうにない。
「さて、とりあえずご飯の準備しちゃうから、しおちゃんも着替えてきちゃってね」
「はい」
返事をして、僕は階段に向かう。部屋に戻って部屋着に着替えてから、一階に降りて手を洗った。そうしてからリビングに戻ると、テーブルには既に夕飯が並べられていた。
いつものように椅子に座ると、テーブルに見慣れないものが置いてあることに気付き、首を傾げる。
「ビール……?」
蝶々さんはふだん、飲酒をしない。
どうしたんだろうと見ると、蝶々さんは僕の視線の意図に気付いたように笑って言った。
「今日はちょっと飲みたい気分だなって思って。しおちゃんもいっしょに飲まない?」
「えっ、いや、でも僕はまだ……」
狼狽する僕を見て、蝶々さんが笑う。
「違う違う、お酒じゃないよ。しおちゃんには私が特製ドリンク作ったから」
はい、と蝶々さんが僕の前にグラスを出す。
「えっ、なんですか?」
僕の前に出されたグラスには、みずみずしい泡がたくさん張り付いている。炭酸水だろうか。飲み物自体は、ほんのりとした桃色をしていた。
「桃のサイダーとかですか?」
蝶々さんとグラスを見比べながら訊ねると、蝶々さんは意味深に微笑んだ。
「まぁまず飲んでみてよ」
「……はい。いただきます」
グラスを引き寄せて取っ手を掴み、蝶々さんのビールジョッキと合わせると、かちんと小気味良い音がした。
ジョッキをぐいっと豪快に煽る蝶々さんにならって、僕もサイダーのグラスに口をつける。
ひとくち飲むと、ほどよい痺れと爽やかな甘酸っぱさが、舌から喉にかけてさらりと流れていく。
「……美味しい!」
あまりに美味しくて、僕は思わずグラスの中身をまじまじと見つめた。
「そう?」
「はい! これ、めちゃくちゃ美味しいです! 梅ですか?」
「そう! 無糖の炭酸に特製の梅酢を入れてみたの。しおちゃん、梅好きだったでしょ?」
「はいっ! すごい、すごい、美味しいです!」
感動のあまり口調が感情的になった僕を見て、蝶々さんは息を吐くように微笑む。
「よかった」
ついさっきまでまるで食欲なんて湧かなかったのに、梅サイダーのおかげか、いくらか食欲も湧いてきた気がする。
僕はお箸を持った。
今日の献立は、蝶々さん特製の生姜焼きだ。菜の花の胡麻和えもあった。
生姜焼きは僕のいちばんの好物だ。たぶん、僕が落ち込んでいることに気付いて、急遽献立を僕の好物に変更してくれたのだろう。
「……いただきます」
いつもなら、真っ先に生姜焼きに箸を持っていくところだけれど、僕はまず菜の花の胡麻和えを箸で掴み、ぱくりと食べた。
蝶々さんは少し驚いた顔をして、胡麻和えを食べる僕を見た。これまで出されてもずっと残してきたものだったから、僕が箸をつけたことが意外だったのだろう。
ごくん、と飲み込んでから、僕は瞬きをした。
「……あれ、美味しい」
「あれって」
蝶々さんがぷっと吹き出す。
「すみません。いや……なんかイメージでは、もっと苦いのかなと思ってて」
いざ食べてみると、案外食べやすい。というかふつうに美味しいし、程よい苦味のおかげで白米が進む。
食べ進めると、あっという間に小鉢を空にした僕を見て、蝶々さんはいつもよりわずかばかり無邪気な笑顔で、「でしょ? 案外ご飯に合うのよ、この苦味」と言った。
本当だ。ぜんぜん知らなかった。
食わずぎらいはするものじゃない。そう思いながら、僕は生姜焼きにかぶりついた。
「あ、おかえりしおちゃん」
返事に詰まっていると、怪訝に思ったのか、蝶々さんが振り返った。
「……どうかした?」
「いえべつに……それより蝶々さん、今日は仕事早く終わったんですね?」
「あぁ、うん。今日くらい帰って休めって、同僚に言われちゃってね」
「ずっと働き詰めでしたもんね」
「まぁね……。さて、しおちゃんも帰ってきたことだし、そろそろお夕飯の準備をしないとね」
そう言って、蝶々さんが台所に立つ。
僕は手を開く。手のなかには、彼女に突き返されてしまったキーホルダーがある。
「……あの、蝶々さん。これ、よかったらもらってください」
蝶々さんは振り返ると、わずかに戸惑いの色を浮かべてキーホルダーを受け取った。
「……あら、可愛い。どうしたの、これ」
「……なんとなく欲しくなって買ったんですけど、やっぱりいらなかったなって」
我ながら、苦しい言い訳だ。
けれど蝶々さんはなにも訊かず、
「……そっか。じゃあいただこうかな」
にこりと笑って受け取ってくれた。
なんてことないプラスチック製のキーホルダーなのに、それが手のひらからなくなっただけで、ずいぶん気持ちが軽くなったような気がする。
蝶々さんは嬉しそうにキーホルダーを目の前に掲げ持ち、どこに付けようかな、と嬉しそうに眺めていた。
なんとなく、蝶々さんにはすべてを見透かされている気がする。
でも、なにも言わないでいてくれるところが彼女らしい。ホッとしたような、だけどちょっと物足りない気がするような、複雑な気持ちが胸に広がる。こんな気持ち、とても言語化できそうにない。
「さて、とりあえずご飯の準備しちゃうから、しおちゃんも着替えてきちゃってね」
「はい」
返事をして、僕は階段に向かう。部屋に戻って部屋着に着替えてから、一階に降りて手を洗った。そうしてからリビングに戻ると、テーブルには既に夕飯が並べられていた。
いつものように椅子に座ると、テーブルに見慣れないものが置いてあることに気付き、首を傾げる。
「ビール……?」
蝶々さんはふだん、飲酒をしない。
どうしたんだろうと見ると、蝶々さんは僕の視線の意図に気付いたように笑って言った。
「今日はちょっと飲みたい気分だなって思って。しおちゃんもいっしょに飲まない?」
「えっ、いや、でも僕はまだ……」
狼狽する僕を見て、蝶々さんが笑う。
「違う違う、お酒じゃないよ。しおちゃんには私が特製ドリンク作ったから」
はい、と蝶々さんが僕の前にグラスを出す。
「えっ、なんですか?」
僕の前に出されたグラスには、みずみずしい泡がたくさん張り付いている。炭酸水だろうか。飲み物自体は、ほんのりとした桃色をしていた。
「桃のサイダーとかですか?」
蝶々さんとグラスを見比べながら訊ねると、蝶々さんは意味深に微笑んだ。
「まぁまず飲んでみてよ」
「……はい。いただきます」
グラスを引き寄せて取っ手を掴み、蝶々さんのビールジョッキと合わせると、かちんと小気味良い音がした。
ジョッキをぐいっと豪快に煽る蝶々さんにならって、僕もサイダーのグラスに口をつける。
ひとくち飲むと、ほどよい痺れと爽やかな甘酸っぱさが、舌から喉にかけてさらりと流れていく。
「……美味しい!」
あまりに美味しくて、僕は思わずグラスの中身をまじまじと見つめた。
「そう?」
「はい! これ、めちゃくちゃ美味しいです! 梅ですか?」
「そう! 無糖の炭酸に特製の梅酢を入れてみたの。しおちゃん、梅好きだったでしょ?」
「はいっ! すごい、すごい、美味しいです!」
感動のあまり口調が感情的になった僕を見て、蝶々さんは息を吐くように微笑む。
「よかった」
ついさっきまでまるで食欲なんて湧かなかったのに、梅サイダーのおかげか、いくらか食欲も湧いてきた気がする。
僕はお箸を持った。
今日の献立は、蝶々さん特製の生姜焼きだ。菜の花の胡麻和えもあった。
生姜焼きは僕のいちばんの好物だ。たぶん、僕が落ち込んでいることに気付いて、急遽献立を僕の好物に変更してくれたのだろう。
「……いただきます」
いつもなら、真っ先に生姜焼きに箸を持っていくところだけれど、僕はまず菜の花の胡麻和えを箸で掴み、ぱくりと食べた。
蝶々さんは少し驚いた顔をして、胡麻和えを食べる僕を見た。これまで出されてもずっと残してきたものだったから、僕が箸をつけたことが意外だったのだろう。
ごくん、と飲み込んでから、僕は瞬きをした。
「……あれ、美味しい」
「あれって」
蝶々さんがぷっと吹き出す。
「すみません。いや……なんかイメージでは、もっと苦いのかなと思ってて」
いざ食べてみると、案外食べやすい。というかふつうに美味しいし、程よい苦味のおかげで白米が進む。
食べ進めると、あっという間に小鉢を空にした僕を見て、蝶々さんはいつもよりわずかばかり無邪気な笑顔で、「でしょ? 案外ご飯に合うのよ、この苦味」と言った。
本当だ。ぜんぜん知らなかった。
食わずぎらいはするものじゃない。そう思いながら、僕は生姜焼きにかぶりついた。
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