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第6章・桜の正体
第39話
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ひとりきりになった僕は、屋上に足を向けた。無感情のまま、フェンスに作られた蜘蛛の巣を眺めていた。
蜘蛛の巣には、蝶が引っかかってしまっている。蝶は逃げようと、必死にもがいていた。
僕はよろよろと立ち上がって、フェンスによじ登った。
蝶の胴体部分を掴み、蜘蛛の巣から剥がしてやろうとして、手を止める。
この蝶を助けることは、果たして正しいことなのだろうか。
今、僕がしようとしていることは、この世の理に反した行動なのではないだろうか。
蜘蛛は生きるために蝶を捕食するだけであって、いたずらに殺すわけではない。
生きるために、殺すのだ。
僕が蝶を助けたら、蜘蛛が餓死するかもしれない。でも、このままでは蝶は間違いなく蜘蛛に喰われて死ぬ。だけど、だけど……。
力なく、蝶から手を離す。蜘蛛の巣がゆらゆらと揺れた。
僕は、どうしたらいいのだろう。
桜は、夢という少女を救うために生み出された。
この方法が病気のひとたちにとっての救いであることは、理解できる。
理解できてしまうからこそ、辛い。
正しい選択って、なんなんだろう……。
考えていると、ふと彼女の声が脳内に響いた。
『――辛くない?』
いつか、彼女と交わした会話だ。
入院生活でふつうの生活を知らない彼女に、僕はついそう問いかけたのだ。
だけど、彼女はこう答えた。
『私、生まれたときからずっとこの生活だから、これが私にとっての当たり前だし。よく分かんないや』
あのとき、僕はそんなふうに答えた彼女を不憫に思った。
じぶんの境遇をほかと比較することすらできず、疑問すら抱いていない彼女を、哀れだと思った。
……だけど。
比べることになんの意味がある?
『私たち、もう友だちでしょ?』
『俯きそうになったら、桜の木を探してみて! 桜の花を見ようとすれば、顔を上げられるから!』
『学校に通ってみたくなったから転校してきたの。見てみてこの制服! どう? 似合う?』
……そうだ。
彼女の、なにが不憫だというのだろう。
彼女のなにが間違っているというのだろう。
僕はこれまで、彼女ほど生きることとまっすぐ向き合っていたひとを見たことがない。
彼女は、僕なんかより精一杯生きている。
僕がこうして彼女の生い立ちを嘆くことは、彼女の生きてきた人生をまるごと否定することになるのではないか。
少なくとも僕は、彼女に出会って変わっている。
僕のなかには今、ふたつの感情がある。
これ以上、深入りするべきではないという想いがひとつ。彼女の特別になることは、必ず死が待つ彼女には残酷なことだからだ。
もうひとつは、彼女を諦めたくないというわがままな想いだ。
どちらもきっと正しくて、間違ってる。だから、どちらも捨てる必要はないのだ。僕が選べばいいだけ。そうしたいと思うほうを。
もう一度立ち上がる。
蝶を蜘蛛の巣から剥がすと、羽根に絡まった糸を丁寧に取ってやる。
そして、青々とした空へ放った。
蝶が大きく羽ばたき、飛んでゆく。太陽へ向かって、まっすぐに。
フェンスから飛び降りると、僕は屋上を飛び出した。
正しさなんて、最初からどうだってよかった。
大切なのは、僕の気持ちだ。僕がどうしたいかだ。
僕は、どうしたい?
もし僕が今、彼女から離れる選択をしたら、桜はどうなるだろう。
きっと、あの殺風景な病室で死ぬまで過ごすのだろう。ひとりぼっちであることを、それすら運命だと受け入れて。
姉を失い、ほかに家族もなく、友だちである僕にも拒絶されて。桜はたったひとりで死ぬ。
『汐風ってすごくきれいな名前じゃん』
『桜になりたい。実を結ばなくても、世界中に愛される花に』
階段を駆け下り、蝶々さんを探した。もう一度彼女に……大好きな桜に向き合うために。
蜘蛛の巣には、蝶が引っかかってしまっている。蝶は逃げようと、必死にもがいていた。
僕はよろよろと立ち上がって、フェンスによじ登った。
蝶の胴体部分を掴み、蜘蛛の巣から剥がしてやろうとして、手を止める。
この蝶を助けることは、果たして正しいことなのだろうか。
今、僕がしようとしていることは、この世の理に反した行動なのではないだろうか。
蜘蛛は生きるために蝶を捕食するだけであって、いたずらに殺すわけではない。
生きるために、殺すのだ。
僕が蝶を助けたら、蜘蛛が餓死するかもしれない。でも、このままでは蝶は間違いなく蜘蛛に喰われて死ぬ。だけど、だけど……。
力なく、蝶から手を離す。蜘蛛の巣がゆらゆらと揺れた。
僕は、どうしたらいいのだろう。
桜は、夢という少女を救うために生み出された。
この方法が病気のひとたちにとっての救いであることは、理解できる。
理解できてしまうからこそ、辛い。
正しい選択って、なんなんだろう……。
考えていると、ふと彼女の声が脳内に響いた。
『――辛くない?』
いつか、彼女と交わした会話だ。
入院生活でふつうの生活を知らない彼女に、僕はついそう問いかけたのだ。
だけど、彼女はこう答えた。
『私、生まれたときからずっとこの生活だから、これが私にとっての当たり前だし。よく分かんないや』
あのとき、僕はそんなふうに答えた彼女を不憫に思った。
じぶんの境遇をほかと比較することすらできず、疑問すら抱いていない彼女を、哀れだと思った。
……だけど。
比べることになんの意味がある?
『私たち、もう友だちでしょ?』
『俯きそうになったら、桜の木を探してみて! 桜の花を見ようとすれば、顔を上げられるから!』
『学校に通ってみたくなったから転校してきたの。見てみてこの制服! どう? 似合う?』
……そうだ。
彼女の、なにが不憫だというのだろう。
彼女のなにが間違っているというのだろう。
僕はこれまで、彼女ほど生きることとまっすぐ向き合っていたひとを見たことがない。
彼女は、僕なんかより精一杯生きている。
僕がこうして彼女の生い立ちを嘆くことは、彼女の生きてきた人生をまるごと否定することになるのではないか。
少なくとも僕は、彼女に出会って変わっている。
僕のなかには今、ふたつの感情がある。
これ以上、深入りするべきではないという想いがひとつ。彼女の特別になることは、必ず死が待つ彼女には残酷なことだからだ。
もうひとつは、彼女を諦めたくないというわがままな想いだ。
どちらもきっと正しくて、間違ってる。だから、どちらも捨てる必要はないのだ。僕が選べばいいだけ。そうしたいと思うほうを。
もう一度立ち上がる。
蝶を蜘蛛の巣から剥がすと、羽根に絡まった糸を丁寧に取ってやる。
そして、青々とした空へ放った。
蝶が大きく羽ばたき、飛んでゆく。太陽へ向かって、まっすぐに。
フェンスから飛び降りると、僕は屋上を飛び出した。
正しさなんて、最初からどうだってよかった。
大切なのは、僕の気持ちだ。僕がどうしたいかだ。
僕は、どうしたい?
もし僕が今、彼女から離れる選択をしたら、桜はどうなるだろう。
きっと、あの殺風景な病室で死ぬまで過ごすのだろう。ひとりぼっちであることを、それすら運命だと受け入れて。
姉を失い、ほかに家族もなく、友だちである僕にも拒絶されて。桜はたったひとりで死ぬ。
『汐風ってすごくきれいな名前じゃん』
『桜になりたい。実を結ばなくても、世界中に愛される花に』
階段を駆け下り、蝶々さんを探した。もう一度彼女に……大好きな桜に向き合うために。
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