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第一章
23話:10年前の出会い④
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┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
一織に妙な感謝をされた翌日。
花に水やりをしていると、温室のドアが開く音がして、振り返ると案の定一織がいた。杖をつきながら久遠の方へ近づいてきて、「おはよ」と笑いかけてくれる。
「おはよって、夕方じゃん」
久遠は笑って手を止めた。ジョウロを花壇のそばに置いて、一織がベンチに座るのを少しだけ補助する。
「今日の中で久遠に会うのは初めてだから。後でこんにちはも言うね。あとおやすみも」
「意味わかんないよ」
苦笑してわざと厳しくつっぱねると、一織は嬉しそうに笑った。
こういう軽口を叩き合う時、以前より明らかに縮んだ距離を実感する。そして、顔を覗かせそうになる期待を抑え込むために必要な努力の量が増える。
久遠が一織の隣に腰をかけると、一織が口を開いた。
「今日ね、母さんが来てたんだ。午前中」
隣に座ってはじめて気づいた。
夕陽に照らされた一織の横顔は、目元が淡い桃色に染まっていて、長いまつ毛に雫がついていた。鼻の先も少し紅い。
「お母さん?」
「うん。それでね、ちょっと聞いてみたんだ。久遠と昨日話したこと」
いつもと変わらない柔らかな声色と表情をしているけれど、いつもと比べて久遠の目を見ない。
頬に落ちている温室の格子の影が、一織の横顔を芸術作品たらしめている。
「母さんは俺に賞とってほしいと思ってた?それとも、俺が頑張ってるのが好きだった?って」
お母さんとのやり取りを話すのは気恥しいのか、やっぱり久遠の目を見ない。
「そしたら母さんさ、全然答えてくれなくて。何かなと思って見たら、びっくりして絶句してたんだよ。それで、『あなたが頑張ってるから、支えさせてほしかっただけに決まってるでしょ』『いつから結果求めてると思わせちゃってた?』って、最終的には母さん泣いちゃって。びっくりしたよ」
笑ってるけど、あなたもそこで泣いたんでしょ。
久遠は愛おしく思ったけれど、そんな余計なことは言わなかった。
「俺、勝手に誤解してたみたい。別に母さんは、俺が賞取ろうが取るまいがどっちだってよくてさ、ただ……」
「一織くんの応援をすること自体が幸せ?」
一織が言葉選びに迷っているようだったので、図々しいかもしれないと思いつつも助け舟を出した。
一織はやっと久遠の方を見て、にこりと笑いかけてくれた。
「うん。……勝手に思い込んで、変に自分縛ってたみたいなんだよね。もう、いつから弓道を楽しんでやることが目的じゃなくなってたかも覚えてないけど、いつの間にかこうなっちゃってた」
自嘲気味に口角を上げた一織の姿が、また久遠の瞳には儚く映った。
実は昨日、一織の病室をあとにしてから、自分の病室で『神永一織』の名前を検索してみた。
何件か記事がひっかかった。賞状を持っている彼の姿と、「逸材・神永一織くん」という文字が散見された。どのページにも彼の名前の頭には「逸材」がくっつけられていたので、これは彼にお決まりの称賛ワードなのだということが分かった。
「全国中学生弓道大会」の結果が報じられたページでは、中学1年生の時の一織の写真が見られて嬉しかった。けれど、この歳から「逸材」と呼ばれる生活にのしかかる期待はどれほど大きいのだろうと心配にもなった。
「久遠と昨日ああやって話さなかったら、気づくこともなかったと思う。母さんの思いも決めつけちゃってた。だから久遠、ありがとう」
誰かの役に立てたと実感したのは、久遠にとってはこれが初めてだった。だから、これからもこの日のことは忘れられないと思う。
胸の奥がぶわりと昂って、そのまま視界もぼやけた。喉の奥がぎゅっときつくなって、声が出せなくなる。
自分が役に立てた、自分だからこそ役に立てたという実感が、全身を満たして熱くなる。
自分の存在価値を強く感じさせてもらえたこの時の久遠には、気づくことができなかった。
一織に気づきを与えてしまった久遠のこの行動は、一織に対する攻撃でもあったということに。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「久遠ちゃん、もう来週退院だね」
病室に問診へ来た主治医が、あっさりと告げた。久遠は目をしばたかせる。
一緒に病室にいた父は狂喜乱舞し、急いで久遠にハグした後、慌ただしく病室を出ていった。母に電話をしにいったのだろう。
この調子ではすぐにでも退院できそうだとは思っていたけれど、今日言われるとは思っていなかった。
久遠も医師にお礼を言って病室を出て、一織の病室へと急いだ。早くこの喜びを分かち合いたい。
エレベータを待つのも惜しく、階段を早足でおりる。転ばないようにと足元を見て降りていたら、看護師とぶつかりそうになって「久遠ちゃん走らない!」と怒られた。適当に謝罪をして、その横をすりぬける。
一織の病室の前で立ち止まり、息を整えた。
カラカラになった喉を唾を飲み込むことで無理やり潤し、意を決してドアに手をかけた。
――しかし、ドアをスライドする前に動きを止める。中から声がしたからだ。
「怖くて耐えられないんです」
一瞬耳を疑ったけれど、たしかにそれは一織の声だった。
「でもね一織くん。時期尚早のリハビリをしても、むしろ回復が遠のくだけなんだ。焦る気持ちは分かる。君がスポーツを頑張ってきたのも聞いている。でもまだ、失ったわけじゃない。後遺症が残る人もそう多くない。希望はある――」
「分かったようなこと言わないでください!!」
一織から、聞いたこともない強い語気の言葉が出た。
久遠はドアを僅かにスライドし、隙間から中を見た。一織の主治医らしき先生と看護師が、ベッドにいる一織を見つめていた。
「急にこんな……こんなことで今までの努力潰されて。今までの努力全部、なんだったんだろうって。……先生がもし、医者になるために必死に勉強していたのに、その頭が壊れたら?多分後遺症は残らないよ大丈夫だよって言われて、のうのうと寝て、ゲームしていられますか?俺はできません。毎日伸びてた成長が、止まってしまうのが怖い。……止まっちゃうだけじゃない。もう二度と復帰出来ないかもしれない」
怒る一織の姿を見たのは初めてだった。
ショックで立ちすくむ久遠と、中で激しい怒りを表現している一織との間に隔たるのは、もはや病室の壁だけではなかった。
幼い頃から入院を繰り返していた久遠は、両親を含め周りの大人に迷惑をかけているという自覚があったこともあり、今まで人の役に立てたことがなかった。そこへ現れた、神永をサポートするという役。久遠にとって願ってもいない役目だった。
だから、今思えば出しゃばっていただけなのだけれど、そんな久遠に神永は嫌な顔ひとつせず、迎え入れてくれた。捻くれた考えのない、真っ直ぐな人だったから。
今、あの聡明で爽やかで美しい彼が弱さを見せている。それを意外だと思った時点で、久遠も、一織に期待をかけていた大人たちと同じように、一織は恐れなど感じない一人前だと思い込んで彼の弱さに気づこうともしていなかったことになる。
「一織くん!」
慌てた看護師の声が耳を裂いて、反射的に久遠が顔を上げた。一織の腕が激しく痙攣しているのが見えた。人体があんなに異常な震えるのを久遠は初めて見たので、目を覆いたくなったが、視線を外せなかった。
「抗けいれん薬を!」
看護師が言うとほとんど同時に、一織はベッド脇にあったガーグルベースを引き寄せ、そこに嘔吐した。見えなかったけれど、水音がした。苦しそうに、悔しそうに歪む一織の顔が見えた。
久遠の足が震えた。フリーズしていた久遠の体が少しずつ動くようになり、一歩、また一歩と後ずさる。
彼がまだここまで具合が悪かったとは知らなかった。久遠の前での一織は、いつでも笑顔だったからだ。
その時、自分の身勝手さに気づいてしまった。
自分は、何度も入院経験があって、しかも手術を終えていて、あと数日待てば退院できる。
一方彼は初めての入院で、親しくない大人に囲まれて、未経験の治療を受けている。それに何より、自分がこれまで期待されていたスポーツを続けられるかどうかの確証もなく、胸を痛めている。
――そんな対比構造が、あの歳の久遠の頭で明確に思い浮かべられたわけではなかった。けれど突如として、とてつもなく自分が恥ずかしく思えた。
傲慢で恥ずかしい存在なような気がして、その日は自分の病室に戻った。いつも会っていた温室へは行けなかったし、自分の病室から見下ろせば見える温室を見ることも出来なかった。誠実な彼は今日もきっといつもの場所へ来ているはずで、その姿を見ることに耐えられないから。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
とは言ったって、何も言わずに退院してしまったのは我ながらやりすぎだったと思う。けれど未熟だった久遠にはそうすることしか出来なかった。
退院が決まったことを、どんな表情で、どんな言葉で伝えれば、一織に対する攻撃にならないかが分からなかった。毎日言葉を考えていたし、手紙も書いてみたけど、全部棄却した。
あの日、品行方正そうな一織が医師と対立していたのは、きっと無理なリハビリをしようとしたからで、そして一織にそうさせたのはきっと、弓道は本来楽しむものだという気づきに違いない。久遠と話す中でその感覚を思い出してしまった一織は、いてもたってもいられなくなって回復を急いでしまったのだ。
そんな文脈が容易に想像できたことで、人の役に立つことができたという傲慢な喜びで狭くなっていた久遠の視野に突然自分の罪というものが顕れて、自覚され、苦しくなった。
それに、今まで一時退院する際は周りの子どもたちに「またね」としか言ってこなかった。だから、さよならを言い慣れていなくて、どんな顔で会いに行けばいいのかが分からなかった。単純に、さよならと言うのが寂しすぎたのだ。
その後久遠は退院して、中学3年生の年度はなんとフルで学校生活を過ごすことが出来た。久遠にとってそれは初めての経験だった。時々経過観察のために病院へ行くことはあったし、運動制限も一応はあったけれど、それ以外は特別なことは何もない平凡な中学3年生だった。
無事に高校受験も経験して、第1志望に合格することが出来た時は、家族3人で抱き合って喜んだ。
――この時はまさか、入学式の日に一織を見かけることになるとは想像もしていなかったわけだ。
同じ高校を志望していた中学の同級生から、女子に人気の部活があるらしいとは聞いていたけれど、まさかそれが部員になりたい人が多いという意味ではなく、かっこいい男子が多い部活だとは思っていなかった。
桜が咲き誇った春の日に、その子と校門をくぐるなり「ほらあれかも」と指さした先に、人だかりが出来ていた。女子たちの隙間から見えたのは、複数名の背の高い男の人たちだった。
久遠は目を見開いた。見慣れた顔があったからだ。
背は記憶よりも伸びているし、骨格も大人びている。けれどあの美しい顔を見間違えるわけがなかった。
その時、一瞬で中学2年生のあの入院期間の思い出が頭を占領した。
「弓道部ってほんとイケメン多いんだって。あ、この話前もしたか」
いや待て、していない。
人気の部活があるとは聞いていたけれど……それが弓道部だってことまでは聞いていない!!!
一織に妙な感謝をされた翌日。
花に水やりをしていると、温室のドアが開く音がして、振り返ると案の定一織がいた。杖をつきながら久遠の方へ近づいてきて、「おはよ」と笑いかけてくれる。
「おはよって、夕方じゃん」
久遠は笑って手を止めた。ジョウロを花壇のそばに置いて、一織がベンチに座るのを少しだけ補助する。
「今日の中で久遠に会うのは初めてだから。後でこんにちはも言うね。あとおやすみも」
「意味わかんないよ」
苦笑してわざと厳しくつっぱねると、一織は嬉しそうに笑った。
こういう軽口を叩き合う時、以前より明らかに縮んだ距離を実感する。そして、顔を覗かせそうになる期待を抑え込むために必要な努力の量が増える。
久遠が一織の隣に腰をかけると、一織が口を開いた。
「今日ね、母さんが来てたんだ。午前中」
隣に座ってはじめて気づいた。
夕陽に照らされた一織の横顔は、目元が淡い桃色に染まっていて、長いまつ毛に雫がついていた。鼻の先も少し紅い。
「お母さん?」
「うん。それでね、ちょっと聞いてみたんだ。久遠と昨日話したこと」
いつもと変わらない柔らかな声色と表情をしているけれど、いつもと比べて久遠の目を見ない。
頬に落ちている温室の格子の影が、一織の横顔を芸術作品たらしめている。
「母さんは俺に賞とってほしいと思ってた?それとも、俺が頑張ってるのが好きだった?って」
お母さんとのやり取りを話すのは気恥しいのか、やっぱり久遠の目を見ない。
「そしたら母さんさ、全然答えてくれなくて。何かなと思って見たら、びっくりして絶句してたんだよ。それで、『あなたが頑張ってるから、支えさせてほしかっただけに決まってるでしょ』『いつから結果求めてると思わせちゃってた?』って、最終的には母さん泣いちゃって。びっくりしたよ」
笑ってるけど、あなたもそこで泣いたんでしょ。
久遠は愛おしく思ったけれど、そんな余計なことは言わなかった。
「俺、勝手に誤解してたみたい。別に母さんは、俺が賞取ろうが取るまいがどっちだってよくてさ、ただ……」
「一織くんの応援をすること自体が幸せ?」
一織が言葉選びに迷っているようだったので、図々しいかもしれないと思いつつも助け舟を出した。
一織はやっと久遠の方を見て、にこりと笑いかけてくれた。
「うん。……勝手に思い込んで、変に自分縛ってたみたいなんだよね。もう、いつから弓道を楽しんでやることが目的じゃなくなってたかも覚えてないけど、いつの間にかこうなっちゃってた」
自嘲気味に口角を上げた一織の姿が、また久遠の瞳には儚く映った。
実は昨日、一織の病室をあとにしてから、自分の病室で『神永一織』の名前を検索してみた。
何件か記事がひっかかった。賞状を持っている彼の姿と、「逸材・神永一織くん」という文字が散見された。どのページにも彼の名前の頭には「逸材」がくっつけられていたので、これは彼にお決まりの称賛ワードなのだということが分かった。
「全国中学生弓道大会」の結果が報じられたページでは、中学1年生の時の一織の写真が見られて嬉しかった。けれど、この歳から「逸材」と呼ばれる生活にのしかかる期待はどれほど大きいのだろうと心配にもなった。
「久遠と昨日ああやって話さなかったら、気づくこともなかったと思う。母さんの思いも決めつけちゃってた。だから久遠、ありがとう」
誰かの役に立てたと実感したのは、久遠にとってはこれが初めてだった。だから、これからもこの日のことは忘れられないと思う。
胸の奥がぶわりと昂って、そのまま視界もぼやけた。喉の奥がぎゅっときつくなって、声が出せなくなる。
自分が役に立てた、自分だからこそ役に立てたという実感が、全身を満たして熱くなる。
自分の存在価値を強く感じさせてもらえたこの時の久遠には、気づくことができなかった。
一織に気づきを与えてしまった久遠のこの行動は、一織に対する攻撃でもあったということに。
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「久遠ちゃん、もう来週退院だね」
病室に問診へ来た主治医が、あっさりと告げた。久遠は目をしばたかせる。
一緒に病室にいた父は狂喜乱舞し、急いで久遠にハグした後、慌ただしく病室を出ていった。母に電話をしにいったのだろう。
この調子ではすぐにでも退院できそうだとは思っていたけれど、今日言われるとは思っていなかった。
久遠も医師にお礼を言って病室を出て、一織の病室へと急いだ。早くこの喜びを分かち合いたい。
エレベータを待つのも惜しく、階段を早足でおりる。転ばないようにと足元を見て降りていたら、看護師とぶつかりそうになって「久遠ちゃん走らない!」と怒られた。適当に謝罪をして、その横をすりぬける。
一織の病室の前で立ち止まり、息を整えた。
カラカラになった喉を唾を飲み込むことで無理やり潤し、意を決してドアに手をかけた。
――しかし、ドアをスライドする前に動きを止める。中から声がしたからだ。
「怖くて耐えられないんです」
一瞬耳を疑ったけれど、たしかにそれは一織の声だった。
「でもね一織くん。時期尚早のリハビリをしても、むしろ回復が遠のくだけなんだ。焦る気持ちは分かる。君がスポーツを頑張ってきたのも聞いている。でもまだ、失ったわけじゃない。後遺症が残る人もそう多くない。希望はある――」
「分かったようなこと言わないでください!!」
一織から、聞いたこともない強い語気の言葉が出た。
久遠はドアを僅かにスライドし、隙間から中を見た。一織の主治医らしき先生と看護師が、ベッドにいる一織を見つめていた。
「急にこんな……こんなことで今までの努力潰されて。今までの努力全部、なんだったんだろうって。……先生がもし、医者になるために必死に勉強していたのに、その頭が壊れたら?多分後遺症は残らないよ大丈夫だよって言われて、のうのうと寝て、ゲームしていられますか?俺はできません。毎日伸びてた成長が、止まってしまうのが怖い。……止まっちゃうだけじゃない。もう二度と復帰出来ないかもしれない」
怒る一織の姿を見たのは初めてだった。
ショックで立ちすくむ久遠と、中で激しい怒りを表現している一織との間に隔たるのは、もはや病室の壁だけではなかった。
幼い頃から入院を繰り返していた久遠は、両親を含め周りの大人に迷惑をかけているという自覚があったこともあり、今まで人の役に立てたことがなかった。そこへ現れた、神永をサポートするという役。久遠にとって願ってもいない役目だった。
だから、今思えば出しゃばっていただけなのだけれど、そんな久遠に神永は嫌な顔ひとつせず、迎え入れてくれた。捻くれた考えのない、真っ直ぐな人だったから。
今、あの聡明で爽やかで美しい彼が弱さを見せている。それを意外だと思った時点で、久遠も、一織に期待をかけていた大人たちと同じように、一織は恐れなど感じない一人前だと思い込んで彼の弱さに気づこうともしていなかったことになる。
「一織くん!」
慌てた看護師の声が耳を裂いて、反射的に久遠が顔を上げた。一織の腕が激しく痙攣しているのが見えた。人体があんなに異常な震えるのを久遠は初めて見たので、目を覆いたくなったが、視線を外せなかった。
「抗けいれん薬を!」
看護師が言うとほとんど同時に、一織はベッド脇にあったガーグルベースを引き寄せ、そこに嘔吐した。見えなかったけれど、水音がした。苦しそうに、悔しそうに歪む一織の顔が見えた。
久遠の足が震えた。フリーズしていた久遠の体が少しずつ動くようになり、一歩、また一歩と後ずさる。
彼がまだここまで具合が悪かったとは知らなかった。久遠の前での一織は、いつでも笑顔だったからだ。
その時、自分の身勝手さに気づいてしまった。
自分は、何度も入院経験があって、しかも手術を終えていて、あと数日待てば退院できる。
一方彼は初めての入院で、親しくない大人に囲まれて、未経験の治療を受けている。それに何より、自分がこれまで期待されていたスポーツを続けられるかどうかの確証もなく、胸を痛めている。
――そんな対比構造が、あの歳の久遠の頭で明確に思い浮かべられたわけではなかった。けれど突如として、とてつもなく自分が恥ずかしく思えた。
傲慢で恥ずかしい存在なような気がして、その日は自分の病室に戻った。いつも会っていた温室へは行けなかったし、自分の病室から見下ろせば見える温室を見ることも出来なかった。誠実な彼は今日もきっといつもの場所へ来ているはずで、その姿を見ることに耐えられないから。
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とは言ったって、何も言わずに退院してしまったのは我ながらやりすぎだったと思う。けれど未熟だった久遠にはそうすることしか出来なかった。
退院が決まったことを、どんな表情で、どんな言葉で伝えれば、一織に対する攻撃にならないかが分からなかった。毎日言葉を考えていたし、手紙も書いてみたけど、全部棄却した。
あの日、品行方正そうな一織が医師と対立していたのは、きっと無理なリハビリをしようとしたからで、そして一織にそうさせたのはきっと、弓道は本来楽しむものだという気づきに違いない。久遠と話す中でその感覚を思い出してしまった一織は、いてもたってもいられなくなって回復を急いでしまったのだ。
そんな文脈が容易に想像できたことで、人の役に立つことができたという傲慢な喜びで狭くなっていた久遠の視野に突然自分の罪というものが顕れて、自覚され、苦しくなった。
それに、今まで一時退院する際は周りの子どもたちに「またね」としか言ってこなかった。だから、さよならを言い慣れていなくて、どんな顔で会いに行けばいいのかが分からなかった。単純に、さよならと言うのが寂しすぎたのだ。
その後久遠は退院して、中学3年生の年度はなんとフルで学校生活を過ごすことが出来た。久遠にとってそれは初めての経験だった。時々経過観察のために病院へ行くことはあったし、運動制限も一応はあったけれど、それ以外は特別なことは何もない平凡な中学3年生だった。
無事に高校受験も経験して、第1志望に合格することが出来た時は、家族3人で抱き合って喜んだ。
――この時はまさか、入学式の日に一織を見かけることになるとは想像もしていなかったわけだ。
同じ高校を志望していた中学の同級生から、女子に人気の部活があるらしいとは聞いていたけれど、まさかそれが部員になりたい人が多いという意味ではなく、かっこいい男子が多い部活だとは思っていなかった。
桜が咲き誇った春の日に、その子と校門をくぐるなり「ほらあれかも」と指さした先に、人だかりが出来ていた。女子たちの隙間から見えたのは、複数名の背の高い男の人たちだった。
久遠は目を見開いた。見慣れた顔があったからだ。
背は記憶よりも伸びているし、骨格も大人びている。けれどあの美しい顔を見間違えるわけがなかった。
その時、一瞬で中学2年生のあの入院期間の思い出が頭を占領した。
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