【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~

葉影

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第一章

69話:ありすとのトラブル

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 まだ勤務開始時間までには余裕がある。久遠は少しでも現場から離れたくて、非常階段を使って一つ下のフロアに降りていた。

 脳裏に焼き付いた、2人の影が重なったあの光景は、まるで悪夢の断片のようだった。喉が締め付けられる感覚。肺が酸素を拒むように浅い呼吸しかできない。

 ……付き合ってるって知ってたじゃん。何を一人で、舞い上がって。勝手にこうして、傷ついて。

 合コンの夜に久遠を助けに現れた彼が、王子様みたいだったから。だから、その時から久遠の頭もお花畑になってしまっていたのかもしれない。けれど今、淡い希望は脆くも砕け散った。彼が今想っているのはありすであり、自分の入り込む隙など微塵もなかったのだ。

 來からの手紙も、なにか來の記憶違いが入ってるのだろうか?一時的にも、彼も自分のことを……だなんてお花畑思考を働かせてしまったことが、今とても恥ずかしい。

「ねえ、久遠ちゃん!」

 頭上から降ってきた、アイドルみたいに可愛らしい声が、久遠を押し潰すようだった空気を一気に明るくさせた。

 ――どうして。

 上から、カンカンと階段を下りるヒールの音が迫ってくる。

 ――やめて、ごめんなさい、今は来ないで……。

「おはよう!早いね?」

 久遠の願いも虚しく、あっという間に追いつかれてしまった。――ありすも、なぜか階段を使って降りてきたみたいだ。

「おはようございます……」

 久遠が答えると、ありすは久遠の顔を覗き込んだ。仕草がいちいち可愛らしく、首の動きに合わせてピンクブラウンの髪が揺れると、ほのかに甘い香りが漂った。

「合コン以来だね」

 久遠は即座に反応できない。ぎこちなく笑みを返すのが精一杯だった。彼女の笑顔が眩しすぎて目を逸らしそうになる。

 ありすは、「あのね……」と両手を胸の前で組みながら、久遠の前に立った。

「合コンの時のこと、改めてお詫びしたいと思って。ほんとごめんね?まさか、あんな目に遭わせちゃうなんて思わなくて……」

 そう言って久遠を見るありすの瞳には、漫画のハイライトみたいに光を反射している。思わず目を奪われる。そして、この可愛さなら当然か、なんて思ってしまう。

「いえそんな、ありすさんが謝らないでください。私も不注意でした。緊張してつい飲みすぎちゃって」

 あなたと神永一織のデートシーンに動揺して飲みすぎた、とは言えない。初の合コンに緊張したということにした。

「うん、ありがとう。でも私、幹事だから責任感じちゃって……。怖い思いさせてごめんね。同性として、本当に心配で」

 大丈夫って、言ってるのに。
 自分のために心を痛めて謝ってくれているありすに対して、そんな棘のある思いが心を掠めてしまって、自分の醜さにほとほと嫌気がさす。

「あ、服はまた今度返してくれれば大丈夫だから」

 にっこり微笑まれ、服を貸していただいていたことをさっかり忘れていたことに気がつく。今後も着るかどうかは分からないデザインだったけれど、可愛かった。

「……でもさ、正直、あれはないなと思っちゃった」

 服のお返しに何かお菓子でもつけなきゃいけないかな、などと考えていると、ありすが言った。ありすの顔は、あからさまに不貞腐れたような顔になっている。

 "あれ"って……?

 久遠がまだ理解出来ていない顔を見て、ありすは「あ、神永神永」と続ける。

「だって普通、彼女を置いてあそこで他の女の子送ってく?何でもスマートそうに見えるのにああいうとこだけ鈍感だからあの人……」

 ありすは片手で目を覆って、呆れたようにため息をついた。

 久遠は何も言えなかった。この一瞬で色んな思考が頭を駆け巡っていたからだ。

 分からない、分からないけど、考えすぎかもしれないけれど……。
 もしかして今、牽制されてる?

 こんな可愛らしいありすに、こんな疑いを持つのは考えすぎかもしれない。それでも、ついそう考えてしまった。謝るフェーズを終え、久遠が被害の当事者であるということを差し置いて、今度は共通の敵で盛り上がろうとするフェーズに誘われている。

 どう合わせるのが正解なのか掴みきれないまま、曖昧に「はい」と返す。

「もうあれはほんとに私としても、もう、彼女として、ちょっと恥ずかしいぐらい」

 ありすは困ったように笑いながらそう言う。けれど、その言葉を表面的な意味で受け取るほど、久遠も純粋じゃなかった。

 そもそも、むしろ、対人関係においてネガティブフィルターをかけることが多い久遠なのだ。今のありすからは、遠回しに、"あの場面で神永が久遠を送る方を選んだのは、一般的に誤りとされる方の選択なのだ"という主張を向けられている気がしてしまった。

 ただ、彼女が言っていることも最もだ。酒に酔って無防備に男に襲われ、そこを意中の人に助けてもらうことで今カノとのデートを邪魔するなんて、社会的に悪役と見なされるのは久遠の方だろう。

「本当すみませんでした。私のせいで、 送ってもらっちゃって」

 ありすが尖らせている、可愛らしく艶めいている唇を、つい見てしまう。そして、さっき目撃した嫌な光景と重なる。

「久遠ちゃんが謝らないでよ~、悪いのは修斗でしょ?」

 言葉は久遠を庇ってくれているもののはずなのに、そんな感じがしないのはなぜだろう。ありすが今浮かべている笑顔も、しっかり可愛いのに。

 その答えに、心当たりがないわけではなかった。――多分、久遠の中に、ある夜から一点引っかかっていることがあるからだ。

「だから、彼氏としては残念だけど、まあ~、神永が送れてよかったよね。……それじゃあ、またね。今度、普通に男無しで飲んだりしたりしようねっ」

 解散の兆しに、久遠は迷った。迷ったけれど、勇気を出して引き止めてみる。

「あの」

「……ん?なぁに?」

 手すりを掴んで階段を降りかけていたありすがくるりと振り返る。

 もう、引き止めてしまったものは誤魔化せない。久遠は、ありすに聞いてみたいと思っていたことに思い切って踏み込んだ。

「合コンの日の夜……あの人に襲われた時に、その人、『ありすに言われたから』って言ってたんです」

 路地裏の暗がりの中、あの男は、久遠の耳元に顔を埋めながら囁いていた。

 ――『ね、我慢しなくていいから。ほら……"ありすからも聞いてるし"』

 当時は混乱していて何も考えていなかったけれど、時間が経ってから振り返った時、そのフレーズの意味が分からなかった。

 ありすは若干顔を強張らせた。けれど、すぐに苦笑を浮かべて「どういうこと?」と尋ねてくる。

 久遠は不安を抱いたまま、それでも続けてみた。

「私も分からないですけど、あの人が私のことを襲った時に、『ありすから聞いてるから』『久遠ちゃんが自分を気に入ってるって聞いたから』みたいなことを言ってたんです」

 本格的にありすに容疑をかけているとか、責めたいとか、そういうことではなかった。――この段階では。

 これ以降のありすの様子がおかしくなければ、久遠だって、あの発言は修斗のデマカセだとして、忘れることができたかもしれない。

「なにそれ。全然分かんない。 どういうこと? …………なんか疑ってる?私のこと」

 ありすの表情に、警戒の色が滲む。久遠は冷や汗をかいた。

「いや疑ってるとかじゃないですけど、」
「えなんか」

 亀裂が入りかけた雰囲気に焦り、久遠が弁明しようとすると、ありすが言葉を被せてきた。

「久遠ちゃんって思ったよりなんか、ちょっと怖いね」

 ……え?

「久遠ちゃんが今言った話、私は全然心当たりないけど、もしかしてもう言ったりした?神永に」

 ありすの口角には辛うじて笑みが保たれていたけれど、その目は笑っていないような感じがした。こうして引き攣った笑みを浮かべていると、ありすの顔立ちはより人形らしく見えてくる。

「言っ、てないです」

 久遠がそう答えると、ありすは苦笑したまま小さくため息をついた。

「……びっくりした。ありもしないこと神永に伝えて、味方につけちゃおうって考えかと思った」

 ありすの発言は、どんどん対立構造を作るような姿勢のものに変わっていく。何も知らない人にしては、防衛のための攻撃性が強すぎるのではないかと余計に疑ってしまう。

「……もしかして久遠ちゃん、神永センパイのこと好きになっちゃった?だからこうやって、私に意地悪するの?」

 久遠の胸がドクンと鳴る。カッと顔が赤くなるのも感じた。

 決して、意地悪をしているつもりはない。けれど、ありすの彼氏を好きだという疑いに関しては、否認できない。

 ここで敢えて"先輩"とつけるありすの意図が、久遠分からないでもなかった。久遠おまえは単なる会社の後輩なんだから、分を弁えろ。そういうメッセージが込められているに違いないと思った。

「たしかに彼は誰にでも優しくしちゃうけど……それで勘違いするのは、自分がつらくなるだけだと思うよ」

 ありすの声が少し落ちた。こちらに同情を向けるような声色になった。

 久遠の中で人懐っこく可愛らしいという印象だったありすが、今、目の前でどんどん印象を変えている。

 ありすの言っていることはもっともだから、性格が悪いとまでは思わない。けれど、自分に脅威が迫った時にうるうると涙を浮かべて耐えるような女の子でもないということは分かった。むしろ――。

「久遠ちゃんって、なんか、強かしたたか、だね」

 驚いた。久遠が今ありすに対して思ったことを、先に言われたからだ。困ったように笑いながら。

「あの、ごめんね。私もう行かないと」

 ありすがその場を去りそうになって、久遠はつい手を伸ばした。まだ話は終わっていない。

「待ってください」

 カチャン

 その拍子に、2人の間に何かが落ちた。久遠がありすの袖を引いて止めた時に、ありすのポケットから、リップケースが落ちたようだった。

 久遠はすぐに謝り、しゃがんで散らばったリップとグロス拾う。ありすも、足を伸ばしたまま、足元のケースを拾った。

 ……あれ?何だろう……。

 リップを拾っている時に、久遠の足元に真っ白な四角形の紙片が落ちているのも見つけた。

 拾ってみると、その紙はやや厚くて裏側がツルツルしていて、写真用紙であることが分かる。3センチほどの小ささのそれを、裏返して見てみると、1人の女の子が正面を向いている写真だった。

「嫌っ!!」

 突然、耳をつんざくような声が降ってきた。ほとんど同時に、久遠の手からその証明写真のようなものが奪い取られる。

 久遠は、一瞬何が起きたのか分からなかった。見上げた先のありすは、肩で息をして、久遠を睨んでいる。いや、睨むというよりも、怯えたような表情をしていた。

「ごめんなさい、それ……」

 久遠が言い終わるより前に、ありすはもう一度キッと久遠を睨むと、久遠が持っていたリップも取り返し、そのまま去っていってしまった。

 久遠は、しゃがんだまま1人取り残される。呆然と、ありすのヒールが階段を叩く音がどんどん遠のいていくのを聞いていた。

 しばらくして我に返って立ち上がた。その時、さっき写真を持っていた右手に微かな痛みを感じて視線を落とす。ありすが久遠の手から証明写真を取った際に、爪が当たったのかもしれない。人差し指と親指の間に、赤い筋が走っていた。

 赤い筋としてほんの少しだけ滲み始める血を、ぼうっと見つめてしまう。

 ――さっきのあの形相は何だったのだろう?

 お人形のようでありながら気さくなありすが、久遠が写真を持っていることに気がつくと、別人のように表情を変えた。

 ――それに、あの写真の女の子……。

 証明写真のような小さな写真には、高校生くらいの女の子が映っていた。よく見る前に取り去られてしまったため細かいことは分からなかったが、重めの一重まぶたが印象的な顔だった。

 ――あの顔、どこかで。

 写真を見た瞬間、ぼんやりと全体像を捉えただけだったのにも関わらず、なぜか記憶の箱が刺激される感覚があった。しかし、何も具体的なことは思い出せなかった。刺激されたという感覚があって、肝心の記憶にはモヤがかかっているみたいな。

 あの写真が久遠の人生に深く関わっているものであると知らない久遠は、その時は何も思い出せないまま、階段を上っていったのだった。
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