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第37話 写真集発売イベント
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写真集発売記念イベントの朝。
東京の大型書店の裏に設けられた控え室には、化粧品の匂いと緊張した空気が漂っていた。
鏡の前に立つミキは、ゆっくりと深呼吸をした。
ラバースーツの艶やかな光沢が照明を受けてきらめく。
写真集と同じ衣装――あの雪の日を再現するためのもの。
「ミキさん、チャック閉めますね」
スタッフの若い女性が丁寧に背中を支えながら、衣装を整えていく。
ミキは鏡越しにその姿を見つめながら、小さくうなずいた。
体にぴたりと密着する素材が、呼吸のたびにわずかに伸び縮みする。
――大丈夫。まだ誰にも気づかれてない。
そう言い聞かせながら、胸の奥に手を当てた。
「最後にラバーコルセットを巻いたら完成です!」
スタッフが明るい声で言った瞬間、ミキの表情が凍った。
「ダメ!」
思わず強い声が出て、部屋の空気が一瞬止まった。
スタッフが目を丸くして、手を引っ込める。
「えっ……す、すみません! 何か……失礼なことを……?」
ミキはハッと我に返り、すぐに優しい笑みを作った。
「……ごめんなさい。ちょっと息苦しくて。コルセットは無しでお願い」
スタッフは安堵の表情を浮かべて、うなずいた。
「かしこまりました。すぐ調整しますね」
扉の外からは、すでにイベントのざわめきが聞こえてくる。
記者の声、ファンの呼びかけ、フラッシュの準備――いつもの風景。
だが、今のミキの胸の内は、かつてとは違っていた。
衣装の下で、ほんの少しだけ膨らみ始めたお腹に、そっと手を添える。
――ごめんね。でも、ママ、がんばるから。
ラバー越しに伝わる温もりに、ミキは静かに微笑んだ。
それは誰にも気づかれない、強くて優しい母の表情だった。
大型書店のイベントスペース。
サインと握手を求めて長蛇の列ができ、ファンたちの歓声とカメラのシャッター音が絶え間なく響いていた。
ミキは、プロの笑顔を崩さずに一人ひとりに丁寧に対応していた。
「ありがとう」「応援してます」――そうした言葉に頷きながら、疲れを見せずに微笑む。
そのとき。
次に並んでいた一人の女性が、ゆっくりと前に進み出た。
黒い帽子を目深にかぶり、マスクで顔を隠している。
しかし、その目だけは異様な光を放っていた。
「こんにちは」
ミキは変わらぬ笑顔で右手を差し出す。
だが――その瞬間。
女性の手が震え、かすれた声が漏れた。
「……あんたが……!」
その声は次第に強くなり、怒りと涙が入り混じった叫びへと変わる。
「私のケンジを……よくも汚してくれたなぁ!!」
ミキが目を見開くより早く、女性が腕を振り上げた。
手に光る金属の刃――反射的にミキは身をひねり、両腕でお腹をかばうように背を向けた。
鈍い衝撃。
次の瞬間、どっと人の波がざわめいた。
「危ない!!」「やめろっ!」
警備員たちがすぐさま飛びかかり、女性を床に押さえつける。
客席から悲鳴が上がり、スマホを持つ手が震える。
ミキは、息を詰めたまま立ち尽くしていた。
背中の腰あたりに熱い痛みと、じわりとした湿り気を感じる。
――お腹じゃない……守れた……。
そのわずかな安堵が、すぐに霞んでいく。
周囲の声が遠くなり、視界がゆらぐ。
「救急車! 誰か救急車を!」
スタッフの叫びが会場に響き、会場のざわめきが一斉にミキの方へと集まる。
警備員に取り押さえられた女は泣き叫んでいた。
「ケンジは私のものなのよ! 偽物が! 嘘つきが!」
その声を、ミキはもうはっきりとは聞いていなかった。
誰かが肩を支え、彼女の体を抱きかかえる。
照明が滲む。
ファンたちのざわめきが遠ざかる。
そして――
ミキは小さくお腹に触れながら、意識を手放した。
ーーーーー
夜のロッジ。
薪ストーブの炎が静かに揺れていた。
「……え? 一朗、これ……」
真白の震える声が、リビングに流れるニュースの音にかき消される。
〈速報です。人気モデル・ミキさんが本日午後、都内の大型書店で行われた写真集発売記念イベント中に、ファンの女性に襲撃され負傷しました。〉
テレビ画面には、騒然としたイベント会場の映像が映し出されていた。
報道カメラが捕らえたのは、倒れ込むミキの姿、駆け寄るスタッフ、取り押さえられる女。
モザイク越しでも、その場の混乱が伝わってくる。
真白は口元を押さえ、涙をこらえるように目を伏せた。
「ミキさん……嘘……」
一朗は、固く拳を握りしめたまま、画面から目を離せなかった。
〈幸い命に別状はなく、現在都内の病院で治療を受けています〉
アナウンサーの淡々とした声が続く。
「……よかった……」
真白が小さく息を漏らす。
しかし、一朗の胸の奥は別の思いで満たされていた。
息が詰まるような焦燥と、胸の奥を掻きむしられるような衝動。
テレビでは事件の続報が繰り返し流れている。
「ミキさんは現在、都内の病院で治療中です。命に別状はないとのことです」
そうアナウンサーが言うたびに、ほんの少しだけ心が安堵する。
けれど――それでも落ち着くことができなかった。
一朗はソファから立ち上がった。
「……やっぱり、連絡しよう」
真白が驚いたように顔を上げる。
「え……でも、ミキさん、今きっと……」
「いいんだ。……どうしても、声を聞きたい」
震える指でスマホを取り出し、連絡先一覧を開く。
そこに表示された「陽子」という名前。
ほんの数秒ためらった後、一朗は通話ボタンを押した。
コール音が静まり返った部屋に響く。
――プルルル……プルルル……
何度鳴っても、応答はない。
テレビの音さえ遠のいていくように感じる。
「出ろよ……陽子……お願いだから出てくれ……」
やがて通話が切れた。
冷たい無音だけが残る。
一朗はそのまま画面を見つめたまま、ゆっくりと唇を噛みしめた。
今度はSNSを開く。
メッセージの入力欄に、指先が震えながら文字を打ち込んでいく。
――陽子!どこだ!どこにいる!
――今すぐ陽子のところに行きたい!
――教えてくれ!お願いだ!
送信ボタンを押すと、青い吹き出しが画面の右側に並んだ。
既読のマークはつかない。
ただ時間だけが、無情に流れていく。
「……出ないの?」
真白の声が背後から小さく響く。
一朗は、深く息を吐いてスマホを握り締めた。
「……あいつ、昔からいつもそうなんだ。大事な時ほど、何も言わない」
窓の外では、夜の風が木々を揺らしていた。
ロッジの灯りの中、一朗のスマホの画面だけが、静かに、虚しく光り続けていた。
東京の大型書店の裏に設けられた控え室には、化粧品の匂いと緊張した空気が漂っていた。
鏡の前に立つミキは、ゆっくりと深呼吸をした。
ラバースーツの艶やかな光沢が照明を受けてきらめく。
写真集と同じ衣装――あの雪の日を再現するためのもの。
「ミキさん、チャック閉めますね」
スタッフの若い女性が丁寧に背中を支えながら、衣装を整えていく。
ミキは鏡越しにその姿を見つめながら、小さくうなずいた。
体にぴたりと密着する素材が、呼吸のたびにわずかに伸び縮みする。
――大丈夫。まだ誰にも気づかれてない。
そう言い聞かせながら、胸の奥に手を当てた。
「最後にラバーコルセットを巻いたら完成です!」
スタッフが明るい声で言った瞬間、ミキの表情が凍った。
「ダメ!」
思わず強い声が出て、部屋の空気が一瞬止まった。
スタッフが目を丸くして、手を引っ込める。
「えっ……す、すみません! 何か……失礼なことを……?」
ミキはハッと我に返り、すぐに優しい笑みを作った。
「……ごめんなさい。ちょっと息苦しくて。コルセットは無しでお願い」
スタッフは安堵の表情を浮かべて、うなずいた。
「かしこまりました。すぐ調整しますね」
扉の外からは、すでにイベントのざわめきが聞こえてくる。
記者の声、ファンの呼びかけ、フラッシュの準備――いつもの風景。
だが、今のミキの胸の内は、かつてとは違っていた。
衣装の下で、ほんの少しだけ膨らみ始めたお腹に、そっと手を添える。
――ごめんね。でも、ママ、がんばるから。
ラバー越しに伝わる温もりに、ミキは静かに微笑んだ。
それは誰にも気づかれない、強くて優しい母の表情だった。
大型書店のイベントスペース。
サインと握手を求めて長蛇の列ができ、ファンたちの歓声とカメラのシャッター音が絶え間なく響いていた。
ミキは、プロの笑顔を崩さずに一人ひとりに丁寧に対応していた。
「ありがとう」「応援してます」――そうした言葉に頷きながら、疲れを見せずに微笑む。
そのとき。
次に並んでいた一人の女性が、ゆっくりと前に進み出た。
黒い帽子を目深にかぶり、マスクで顔を隠している。
しかし、その目だけは異様な光を放っていた。
「こんにちは」
ミキは変わらぬ笑顔で右手を差し出す。
だが――その瞬間。
女性の手が震え、かすれた声が漏れた。
「……あんたが……!」
その声は次第に強くなり、怒りと涙が入り混じった叫びへと変わる。
「私のケンジを……よくも汚してくれたなぁ!!」
ミキが目を見開くより早く、女性が腕を振り上げた。
手に光る金属の刃――反射的にミキは身をひねり、両腕でお腹をかばうように背を向けた。
鈍い衝撃。
次の瞬間、どっと人の波がざわめいた。
「危ない!!」「やめろっ!」
警備員たちがすぐさま飛びかかり、女性を床に押さえつける。
客席から悲鳴が上がり、スマホを持つ手が震える。
ミキは、息を詰めたまま立ち尽くしていた。
背中の腰あたりに熱い痛みと、じわりとした湿り気を感じる。
――お腹じゃない……守れた……。
そのわずかな安堵が、すぐに霞んでいく。
周囲の声が遠くなり、視界がゆらぐ。
「救急車! 誰か救急車を!」
スタッフの叫びが会場に響き、会場のざわめきが一斉にミキの方へと集まる。
警備員に取り押さえられた女は泣き叫んでいた。
「ケンジは私のものなのよ! 偽物が! 嘘つきが!」
その声を、ミキはもうはっきりとは聞いていなかった。
誰かが肩を支え、彼女の体を抱きかかえる。
照明が滲む。
ファンたちのざわめきが遠ざかる。
そして――
ミキは小さくお腹に触れながら、意識を手放した。
ーーーーー
夜のロッジ。
薪ストーブの炎が静かに揺れていた。
「……え? 一朗、これ……」
真白の震える声が、リビングに流れるニュースの音にかき消される。
〈速報です。人気モデル・ミキさんが本日午後、都内の大型書店で行われた写真集発売記念イベント中に、ファンの女性に襲撃され負傷しました。〉
テレビ画面には、騒然としたイベント会場の映像が映し出されていた。
報道カメラが捕らえたのは、倒れ込むミキの姿、駆け寄るスタッフ、取り押さえられる女。
モザイク越しでも、その場の混乱が伝わってくる。
真白は口元を押さえ、涙をこらえるように目を伏せた。
「ミキさん……嘘……」
一朗は、固く拳を握りしめたまま、画面から目を離せなかった。
〈幸い命に別状はなく、現在都内の病院で治療を受けています〉
アナウンサーの淡々とした声が続く。
「……よかった……」
真白が小さく息を漏らす。
しかし、一朗の胸の奥は別の思いで満たされていた。
息が詰まるような焦燥と、胸の奥を掻きむしられるような衝動。
テレビでは事件の続報が繰り返し流れている。
「ミキさんは現在、都内の病院で治療中です。命に別状はないとのことです」
そうアナウンサーが言うたびに、ほんの少しだけ心が安堵する。
けれど――それでも落ち着くことができなかった。
一朗はソファから立ち上がった。
「……やっぱり、連絡しよう」
真白が驚いたように顔を上げる。
「え……でも、ミキさん、今きっと……」
「いいんだ。……どうしても、声を聞きたい」
震える指でスマホを取り出し、連絡先一覧を開く。
そこに表示された「陽子」という名前。
ほんの数秒ためらった後、一朗は通話ボタンを押した。
コール音が静まり返った部屋に響く。
――プルルル……プルルル……
何度鳴っても、応答はない。
テレビの音さえ遠のいていくように感じる。
「出ろよ……陽子……お願いだから出てくれ……」
やがて通話が切れた。
冷たい無音だけが残る。
一朗はそのまま画面を見つめたまま、ゆっくりと唇を噛みしめた。
今度はSNSを開く。
メッセージの入力欄に、指先が震えながら文字を打ち込んでいく。
――陽子!どこだ!どこにいる!
――今すぐ陽子のところに行きたい!
――教えてくれ!お願いだ!
送信ボタンを押すと、青い吹き出しが画面の右側に並んだ。
既読のマークはつかない。
ただ時間だけが、無情に流れていく。
「……出ないの?」
真白の声が背後から小さく響く。
一朗は、深く息を吐いてスマホを握り締めた。
「……あいつ、昔からいつもそうなんだ。大事な時ほど、何も言わない」
窓の外では、夜の風が木々を揺らしていた。
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