あいみるのときはなかろう

穂祥 舞

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衝撃

8月⑯

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 どうしてあいつが、あんな目に遭わなきゃいけない。やっぱりあの時、須々木が美術室に行かないように、何としても足止めしたらよかった。いや、その前に、遠慮せずに高崎に言うべきだった、須々木を庇っても無意味だと。悔やまれることばかりだった。
 ハンカチを出したかったが、鞄に手が届かなかった。ティッシュの箱を手渡されて、三喜雄は子どものように声を上げて泣いた。
 やがてエアコンで身体が冷えてくると、三喜雄の感情の昂りも冷めてきた。レッスン室のドアを軽くノックする音がして、夫人が顔を覗かせる。藤巻が彼女の差し出す盆を受け取り、2つのマグカップのうちのひとつを三喜雄の手に握らせた。

「飲みなさい、ちょっと落ち着く」

 言われるまま口をつけると、濃いミルクティーだった。あと口が少し甘い。そういえば高崎も紅茶をよく飲んでいたと思う。
 藤巻は若い弟子にゆっくり話した。

「辞めることはいつでもできる、ただそれは……高崎くん、だったか? 彼を悲しませるんじゃないかな」

 師の言う通りである。この一件で三喜雄が折れてしまえば、高崎は何のために伴奏につき合ってくれていたのだという話だ。

「三喜雄くんは賢いから言わなくてもわかってるだろうけど、再確認」

 三喜雄は藤巻の言葉に首を横に振る。俺は賢くなんかない、大馬鹿だ。
 あの時自分の目で見たことを、これまで誰にも詳細に話していない。それも辛いと感じていた三喜雄は、学校に一切関わりを持っておらず、高崎の顔も知らない藤巻に、話そうと決めた。ただ、高崎を保健室に連れて行く時に彼が呟いた言葉を明かすのは、かなり抵抗があった。
 ーー好きになったのが、片山さんだったらよかったのに。
 思いきってそれを伝えたら、また涙がどばっと溢れ出た。藤巻は三喜雄の話が一旦切れたところで、小さく息をついた。

「つまり高崎くんは男が好きな子で、自分を襲った先輩のことが好きだから、自分は悪くないのに身を引こうとしてる……そう解釈していいのかな」

 藤巻の解釈通りであれば、何故高崎が須々木をことごとく庇うのか、説明がつくのだった。高崎が男を好む者であることよりも、あんなクズに気持ちを寄せることが三喜雄には理解し難い。
 音楽の世界には同性愛者も多い。高崎がマイノリティであるかもしれないことに関して、藤巻はさらりと受け止めてくれたようである。

「それで三喜雄くんはどうなんだ、高崎くんにどうしてほしい?」
「俺は……高崎に学校を辞めてほしくないです、須々木が消えたらいいのに……」
「なるほど、でもそれじゃ高崎くんの問題は根本的に解決しないな、高崎くんが三喜雄くんに心を移すなら話は別だけど」

 しかし三喜雄は、もし高崎から恋愛感情を向けられても、それに応えることはおそらくできない。その結論は出ていた。

「ご家族の希望もあるんだろう、でも自分が去るのが一番いいと彼が考えても……おかしくないと僕は思う」

 藤巻の言葉は、おそらく事実に近いだろう。自分の存在が須々木を追い詰めていると語ったあの美しい2年生は、ふてぶてしいと同時に繊細なのだ。
 マグカップの中身をゆっくり飲んだ師は、いずれにせよ、と切り出した。

「三喜雄くんがここで諦めることには意味が無いな」

 酷い、と口から出そうになった。嘆くことも許されないのか。しかし藤巻は、傷心の弟子の気持ちを一切忖度しなかった。

「三喜雄くんがこんな状態になってることを知れば、高崎くんは更に傷つく……それに高崎くんは本番ピアニストでも何でもない、彼に弾いてもらわないと上手く歌えないと思ってるならその方が問題だ」

 また泣けそうになったが、やや涙腺も疲れたらしく、涙は出なかった。足元のゴミ箱がティッシュで一杯になっているのが、微妙に恥ずかしい。
 三喜雄は公式ピアニストとの合わせの時間を藤巻と段取りし、心配そうに見送りに出てきた夫人にも礼を言って、師の家を辞した。
 ふと、秋の虫の声が高くなっていることに気づく。春の歌を練習し続けるあいだに、短い夏が終わろうとしている。風もやや涼しく、泣き腫らした瞼や擦り続けた頬に心地よかった。三喜雄はしばらく自転車を押して歩いた。
 携帯電話を鞄の外ポケットから出す。母に今から帰る旨を連絡してから、高崎のアドレスを選択した。彼にどうしてほしい? 三喜雄は自分に問いかける。須々木や他の人の存在は関係無く、自分が彼に求めること。

「高崎の伴奏で歌いたいです。」

 三喜雄はその1行だけを送信した。すると、胃の辺りにずっと澱んでいたものが、消えていくような感覚があった。
 自転車に乗ろうとした途端、ズボンのポケットに入れた携帯が震えて、三喜雄はびくりとなった。画面を開くと、メールが来ている。

「なかなかお返事する勇気が出ませんでした、申し訳ありません。」

 そう書き出された高崎の文章は、すぐに三喜雄の視界の中でぼやけてしまった。
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