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衝撃
8月⑮
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何度も何度もメールを打ち込んでは削除するうち、三喜雄は携帯電話を手にしたままベッドで寝落ちしてしまった。エアコンの風が少し冷たくて目覚めると午前2時で、起こしてくれない家族に不満を覚えつつ、真夜中に歯を磨いてシャワーを浴びる。
高崎にどう尋ねたらいいのか、どうしてもわからなかった。退学(転学?)を考えていると聞きました。そんなことをしなくても、きみは何も悪くないです。美術室に居づらかったら、あいつが卒業するまで、松倉先生に頼んで別の場所で描けばいいのでは……そんなことを書き連ねてみたものの、高崎の心に響くとは思えない。
父と母に怒られそうなので、緩くドライヤーをかけてゆっくり髪を乾かした。4時間眠れる、十分だ。三喜雄は鏡の中の疲れた顔を見て、何故か少しうんざりした。
翌日、深井が1ヶ月半振りにやってきた。夏休みの自主練の成果を見ようと言って、午前中は連盟の合同演奏会メンバーがビシバシ絞られ、三喜雄が午後に到着すると、コンクールの2曲のパート練習が順番に始まった。
朝からラテン語地獄だと長谷部はぼやいたが、こんな救いの無い気分の時に祈りの歌ばかり歌うのが、三喜雄には異様にきつかった。気持ちがついて行かない。挙げ句の果てに、千原英喜の「おらしょ」の第1楽章の全体練習の時、名指しで深井から注意を受ける始末である。
「おい片山、パーリーがテンポ遅らせてどうすんだよ、中田喜直歌ってんじゃねぇんだぞ」
深井は三喜雄と目が合うと、意地の悪い笑みを浮かべた。彼に声楽コンクールの予選で何を歌ったか、話した覚えは無い。三喜雄は舌打ちしそうになった。
「酷い顔してるな、お父さんがメールをくれたんだけど、ピアニストの天才くんのことか?」
藤巻のレッスン室に入るなり、そんな風に言われた三喜雄は、そうかもです、と投げやりに答えた。藤巻はそうか、と溜め息混じりに言う。
「お盆にひと息ついてくれたらと思ったんだけどなぁ、メンタル的に堪えてるかな」
「……大丈夫です、彼は大怪我した訳じゃないので」
三喜雄は自分に言い聞かせるように言った。そうだ、それは不幸中の幸いだ。
しかし気持ちはごまかせても、声帯は正直だった。コンコーネを歌い始めると、昼間の練習がハードだったとは言え、こんなに響きが作れないのは久しぶりだった。
「あまり寝てないな?」
師からずばりと指摘されて、ああ、はい、と三喜雄はもたもた答える。しかし明後日はピアノ合わせで週末はコンクールの準本選だ。寝ていないから声が出にくいなどと、言ってはいられない。
「大きな声は要らない、今日は確認だけしよう」
ヘンデルを歌うと、最後に高崎と練習した時のことが思い出されて仕方なかった。真剣に楽譜を見つめる美しい横顔や、長い指で鍵盤を捉える白い手、いいですね、と言ってくれる耳に心地良い声。
高崎が指摘した通り、tとdの発音を意識したのは良かったようで、言葉はいいんじゃないかと藤巻も言った。
続けて別宮貞雄の前奏が始まり、あの時の音楽室の残響が鮮明に蘇ってくるのが苦しくなる。それでも三喜雄の身体は伴奏に反応して、テンポの変化にしっかりついていった。
もう彼の伴奏では歌うことができない。音が切れた瞬間、いきなり現実が突きつけられた。哀しい不協和音が静かに響く。
「あいみるのときはなかろう……」
レチタティーヴォの和音が変わったが、声が出なかった。藤巻がこちらを見る。三喜雄が音を忘れたと思ったのだろう、次の音がぽん、と鳴った。だが音も言葉も出てきてくれない。
「……あ……無理……」
代わりに出たのは掠れた泣き言だった。三喜雄くん? と藤巻が声をかけてくる。
「無理です、歌えない……」
口にするなり、視界が一気に滲む。こみ上がってきたのは嗚咽だった。焦った三喜雄は右手で口を押さえて俯く。目から熱い水がこぼれ出て、カーペットにぼたぼたと落ちた。
「うっ……」
みっともないと思っているのに、身体の全てがコントロールできなかった。立っていられなくなり、その場にしゃがみ込む。
高崎が弾いてくれないなら、もう歌えない。それは絶望だった。
「もう辞める、歌えないです、もういい」
「わかった、とりあえず座ろう」
藤巻に抱えられ、丸椅子に腰を下ろした三喜雄は、止まらない涙をぼろぼろこぼし続けた。
高崎にどう尋ねたらいいのか、どうしてもわからなかった。退学(転学?)を考えていると聞きました。そんなことをしなくても、きみは何も悪くないです。美術室に居づらかったら、あいつが卒業するまで、松倉先生に頼んで別の場所で描けばいいのでは……そんなことを書き連ねてみたものの、高崎の心に響くとは思えない。
父と母に怒られそうなので、緩くドライヤーをかけてゆっくり髪を乾かした。4時間眠れる、十分だ。三喜雄は鏡の中の疲れた顔を見て、何故か少しうんざりした。
翌日、深井が1ヶ月半振りにやってきた。夏休みの自主練の成果を見ようと言って、午前中は連盟の合同演奏会メンバーがビシバシ絞られ、三喜雄が午後に到着すると、コンクールの2曲のパート練習が順番に始まった。
朝からラテン語地獄だと長谷部はぼやいたが、こんな救いの無い気分の時に祈りの歌ばかり歌うのが、三喜雄には異様にきつかった。気持ちがついて行かない。挙げ句の果てに、千原英喜の「おらしょ」の第1楽章の全体練習の時、名指しで深井から注意を受ける始末である。
「おい片山、パーリーがテンポ遅らせてどうすんだよ、中田喜直歌ってんじゃねぇんだぞ」
深井は三喜雄と目が合うと、意地の悪い笑みを浮かべた。彼に声楽コンクールの予選で何を歌ったか、話した覚えは無い。三喜雄は舌打ちしそうになった。
「酷い顔してるな、お父さんがメールをくれたんだけど、ピアニストの天才くんのことか?」
藤巻のレッスン室に入るなり、そんな風に言われた三喜雄は、そうかもです、と投げやりに答えた。藤巻はそうか、と溜め息混じりに言う。
「お盆にひと息ついてくれたらと思ったんだけどなぁ、メンタル的に堪えてるかな」
「……大丈夫です、彼は大怪我した訳じゃないので」
三喜雄は自分に言い聞かせるように言った。そうだ、それは不幸中の幸いだ。
しかし気持ちはごまかせても、声帯は正直だった。コンコーネを歌い始めると、昼間の練習がハードだったとは言え、こんなに響きが作れないのは久しぶりだった。
「あまり寝てないな?」
師からずばりと指摘されて、ああ、はい、と三喜雄はもたもた答える。しかし明後日はピアノ合わせで週末はコンクールの準本選だ。寝ていないから声が出にくいなどと、言ってはいられない。
「大きな声は要らない、今日は確認だけしよう」
ヘンデルを歌うと、最後に高崎と練習した時のことが思い出されて仕方なかった。真剣に楽譜を見つめる美しい横顔や、長い指で鍵盤を捉える白い手、いいですね、と言ってくれる耳に心地良い声。
高崎が指摘した通り、tとdの発音を意識したのは良かったようで、言葉はいいんじゃないかと藤巻も言った。
続けて別宮貞雄の前奏が始まり、あの時の音楽室の残響が鮮明に蘇ってくるのが苦しくなる。それでも三喜雄の身体は伴奏に反応して、テンポの変化にしっかりついていった。
もう彼の伴奏では歌うことができない。音が切れた瞬間、いきなり現実が突きつけられた。哀しい不協和音が静かに響く。
「あいみるのときはなかろう……」
レチタティーヴォの和音が変わったが、声が出なかった。藤巻がこちらを見る。三喜雄が音を忘れたと思ったのだろう、次の音がぽん、と鳴った。だが音も言葉も出てきてくれない。
「……あ……無理……」
代わりに出たのは掠れた泣き言だった。三喜雄くん? と藤巻が声をかけてくる。
「無理です、歌えない……」
口にするなり、視界が一気に滲む。こみ上がってきたのは嗚咽だった。焦った三喜雄は右手で口を押さえて俯く。目から熱い水がこぼれ出て、カーペットにぼたぼたと落ちた。
「うっ……」
みっともないと思っているのに、身体の全てがコントロールできなかった。立っていられなくなり、その場にしゃがみ込む。
高崎が弾いてくれないなら、もう歌えない。それは絶望だった。
「もう辞める、歌えないです、もういい」
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