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30 普通の彼氏はしないこと
しおりを挟む十二月に入り、街はすっかりクリスマスムードに包まれていた。
「みなさん、これまでありがとうございました」
大きな花束を抱えた凛音が、輝かんばかりの笑顔で頭を下げる。
拍手の音がフロアいっぱいに響き渡り、送別会は温かい空気に包まれた。
寿退社――そう聞いたとき、驚きよりも、ようやくこの日が来たのだという納得が先に立った。
凛音の恋人は、人気プロ野球選手の小山雄大さん。
彼を支えるために、彼女はこの職場を離れるのだ。
「まさか、高坂さんの恋人が、あの人気プロ野球選手の小山雄大選手だったなんて!」
「さすが高坂さんよねー!」
「友達に自慢しちゃおうっと」
同僚たちは口々に歓声を上げ、凛音は軽く肩をすくめて笑った。
「別に、私がすごいわけじゃないけどね。……それで言ったら、他にも有名な人とお付き合いしてる人、いるんじゃない?」
そう言いながら、彼女はちらりとこちらを見た。
「ええっ、誰ですか!?」
「同じアスリート? 俳優?」
「まだ内緒。でも――そのうち、ニュースになるかも」
からかうようにウインクをしてみせる凛音。
(ま、まさか……利仁さんのこと?)
同僚たちは一斉に「気になる!」と騒ぎ立てたが、私は笑ってごまかすしかなかった。
神崎さんのことを知っている人なら、彼が名の知れた家の人間であることも、大企業の跡取りだということも、みんなが知っている。
けれど私は、肩書きや家柄に惹かれたわけじゃない。
誰に対しても誠実であるところ――そういう“人としての温かさ”に、心を奪われたのだ。
「次は紬の番ね」
振り向けば、凛音がニヤリと笑っていた。
「つ、次って……まだ早いよ。私たち、付き合って一週間とかなんだから」
「関係ないわよ、時間の長さなんて。それに、向こうはその気じゃないの?」
「そ、そこまで考えてないと思うけど……」
曖昧に笑う私を見て、凛音は意味ありげに眉を上げた。
「だってあの人、デートで取引先の場所に紬を連れて行ったんでしょ? それ、普通の彼氏はしないわよ」
「っ……」
心臓が一瞬、強く跳ねた。
言葉が喉の奥でつかえて、出てこない。
「あの人、穏やかそうに見えて、たぶんすごく強かなタイプよ。外堀からきっちり埋めてくる感じ。気づいたら紬、“神崎夫人”って呼ばれてると思うわ」
「もうっ、やめてよ、そういうの!」
口では否定してみせるけれど、胸の奥がくすぐったくてたまらない。
顔が熱くなって、思わず両手で頬を覆う。
凛音はそんな私を見て、満足げに微笑んだ。
「でもね、今の紬、すごくいい顔してる。きらきらしてて、幸せそう。見てるこっちまで嬉しくなる」
その言葉に、胸がじんとした。
幸せそうな凛音を見ていて、ふと考える。
もし、このまま神崎さんとの関係が続いて、やがて結婚なんてことになったら――。
(……私に、社長夫人なんて務まるのかな)
不安はある。
けれど、神崎さんと一緒にいたいと思う気持ちは、初めて出会ったあの日よりもずっと強い。
その想いが、私の中で確かに育っているのを感じていた。
「凛音……ありがとう。凛音と働けなくなるのは寂しいけど、いつでも連絡してね」
「紬の幸せ報告も、ちゃんと聞かせてよ?」
凛音がからかうようにウインクする。
その仕草に、笑いながらも、胸の奥が少しだけ熱くなった。
友達の幸せを祝う夜――
けれどその帰り道、私はふと、自分の未来を思った。
いつか、神崎さんと歩む道の先にあるのは、きっと今とはまるで違う世界。
そこに足を踏み入れる勇気を、私は持てるだろうか――。
◇ ◇ ◇
十二月の週末。
百貨店の吹き抜けフロアには、大きなクリスマスツリーが設置されていた。
銀のオーナメントが灯りに照らされ、上階のバルコニーからも多くの人が見下ろしている。
今日は神崎さんが式典に出ると聞いて、私は仕事を早めに切り上げて駆けつけた。
人の波の少し後ろで足を止め、そっとステージを見上げる。
(いた……利仁さん)
点灯式のステージに立つ神崎さんの姿が見える。
深いネイビーのジャケットに、白い照明がやわらかく反射していた。
その姿は、華やかな会場の中でもひときわ凛として見えた。
「本日は、神崎グループ常務取締役、神崎利仁様にお越しいただいております」
司会者の声に合わせて、神崎さんが一礼する。
その瞬間、場内のあちこちから小さなざわめきが起きた。
「ちょっと待って! 生の神崎利仁、かっこよすぎでしょ!」
最前列の女性客が声を弾ませる。
その言葉に同意するように、周囲のあちこちで頷きや笑い声が漏れる。
(……今日って、クリスマスツリーの点灯式で合ってる、よね?)
ステージの中央にはツリーがそびえているのに、みんなの視線は、神崎さんから離れようとしない。
その熱気に少し気圧されながら、私も神崎さんを見つめていた。
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