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50 善意だけではない 《利仁side》
しおりを挟む紬と暮らし始めて、一週間が過ぎた。
たったそれだけの時間だというのに、家の空気は驚くほど静かに、しかし確実に変わった。
彼女が持ち込んだ柔らかな気配――それは香りや色といった目に見える変化ではない。
冷蔵庫の中に置かれた作り置き、食卓に並ぶ温かな食事、帰宅すれば灯っている小さな明かり。
生活の隙間に紬の存在がそっと入り込んで、僕の家にも、僕の心にも、静かに居場所を作りはじめていた。
(それにしても……西橋の件が片付いて、ようやく肩の荷が下りたな)
――紬の地元で過ごした最終日のことだ。
僕は、紬の同級生であり、西橋に高額の金を貸してしまった栗原くんに会いに行った。
彼のために動いたというより、彼の“素直さ”が良くも悪くも暴走し、紬を悪者にしようとしていたことを、そのままにしたくなかったからだ。
その時、西橋家の家族とも話す機会を持つことになった。
彼らは今後の借金返済をどうするか、真剣に話し合っていた。
「家と土地を売れば、借金の返済は可能だと思います」
苦渋の面持ちで、西橋の父親がそう告げた。
「そうね。倫太郎のせいで、もうここにはいられないだろうし……引っ越すのもいいかもしれない」
前向きに受け止めようとする母親の姿勢が、痛々しいほどに健気だった。
子どものした過ちに、親として責任を取ろうとする覚悟が伝わってくる。
だが、本来その負担を負うべきなのは、彼らではない。
選択し、間違え、逃げ続けた当人だ。
「まずは、彼が本気で反省し、返済する意思があるのかを見守りましょう。それでも浪費を続けるようなら――僕の知り合いの職場を紹介します」
「そ、そんな……そこまでしていただくわけには……」
恐縮する両親へ、僕は静かに首を振った。
「構いません。彼が高額なお金を借りられたのは、おそらく“神崎グループに勤めていたから”という肩書きのせいです」
「いや、間違いなくそうでしょうけど、だからと言って神崎さんが責任を――」
「……最近、若い人たちに流行っている仕事があるんです。年収は一千万ほどで、おおよそ十ヶ月間、海の上で生活する仕事でして」
その場の空気がわずかに引き締まる。
僕が善意だけで紹介しているわけではないと悟ったのだろう。
だが、西橋家の誰も反対しなかった。
むしろ、それぐらいしなければ息子は立ち直れないと、危機感を共有しているようにも見えた。
三ヶ月から半年ほど様子を見て、それでも返済の意思がない場合。
浪費する時間など与えない職場に、強制的にでも移ってもらう――そう約束した。
その話を、西橋本人にも伝えた。
だが、返ってきたのは感謝の言葉ではなく、激しい拒絶だった。
「絶対に、アンタの世話にはならないからな!」
吐き捨てるような声。
予想はしていたが、想像よりずっと強い敵意を向けられた。
もっとも、僕としては痛くも痒くもない。
「それなら最初から、紬を大事にしたらよかったのに」
「っ……うるせぇ、黙れっ!!」
皮肉を言えば、西橋の目が血走る。
顔を真っ赤にして怒鳴り散らす彼の横で、西橋の姉が冷めた声でつぶやく。
「負け犬の遠吠えね……ダッサ」
「うるせぇって言ってんだろ!」
瞬く間に姉弟喧嘩が始まった。
あまりに騒々しく、あまりに未熟で、思わずため息が漏れそうになる。
僕は静かに立ち上がり、騒ぎが続く居間を後にした。
――紬には、この件を詳しく伝えるつもりはない。
彼女は優しい。
必要以上に気を病むだろう。
けれど、もう気にしなくていいのだ。
西橋がどうなろうと、紬の人生には一切関係がない。
それよりも今は――
目の前の未来を、彼女と築いていくことの方が、ずっと大切なのだから。
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