つかれやすい殿下のために掃除婦として就くことになりました

樹里

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【番外編:第302~303話の間】

第304話 ノック音は邪魔です

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「いや。もういい。君がこの場にいてくれるだけで。もういいんだ」

 殿下はそう言うと、厚い胸に私を引き寄せて強く抱きしめる。

「お帰り、ロザンヌ」
「……はい、殿下。ただいま戻りました」

 私もまたこの夢をもう手放すまいと殿下の背に手を回した。
 すると殿下はもう一度だけ抱きしめる腕に力を入れると、ふっと力を抜き、私から身を離す。

「殿下?」

 見上げる私の顔に影が落ち、殿下の顔が近付いて来たので私は自然と目を伏せる。
 殿下の手が私の後頭部の髪に差し込まれ、熱い吐息が唇にかかり、口づけまでもうほんの一呼吸。
 と思われた時。

 ――コンコンッ。

 静かな室内に応接間へと続く扉からノック音が響いて、二人の時間が止まった。
 私はびくりと肩が震えて思わず目を開いてしまう。殿下もまた動きを止めたが、そちらに気を配るつもりはないようだ。私の顎をつかむ。

「ロザンヌ――愛している」

 かすれた低い声と熱っぽい瞳にどくりと大きく鼓動を打った。
 逸れた気持ちを一瞬の内に強く引き戻され、甘い毒を飲まされたように殿下に心を奪われて目が離せなくなる。

「ロザンヌ」

 名を呼ばれるたびに胸が熱くなる。
 端正な殿下の顔が近づき、私もまるで魔性に魅入られたように半ば目を伏せながら踵を上げる。
 と。

 ――コンコンッ。

 再びノック音が聞こえて、ぼんやりした思考から目覚めて正気に戻り、慌てて踵を下ろした。

「あ、あの。殿下。ノックが」
「気にしなくていい」

 殿下はそう言うけれど、さっきからユリアが呼んでいるのよね。ユリアは殿下がお見えになってすぐに退室した。その彼女が敢えて呼んでいるのだから、大事な用事なのではないだろうか。
 すると今度は。

 ――ココココンッ。

 何だかリズミカルだ。
 ユリアがこんな事をするとも思えないけれど。

 ――コココ、コンッ! ココ、コココンッ! コ、コココココンッ!

 続けて鳴らされるノックは段々と激しくなってきた。
 相手の苛立ちだか、からかいだかが伝わってきて、違う意味で胸がドキドキする。

「殿下」
「仕方がない。先に来客を片付けよう」

 さすがに殿下も興ざめしたようでため息をつくと私から離れ、扉へと向かい開け放つ。

「母上。……止めていただけませんか」
「あら。よくわたくしだと思いましたね。さすが我が息子」

 相手を確認する前に分かっていたようで殿下の第一声がそれだった。

「ところで」

 王妃殿下はエルベルト殿下を押しのけて部屋を覗き込まれた。

「ロザンヌ様!」

 私を確認なさると、ぱっと笑顔になって足早にやって来られる。

「ユリアさんの姿が見えたから、あなたも戻って来ているとは思っていたけれど、本当に良かったわ」
「ご、ごきげんよう、王妃殿下。この度は大変ご迷惑を」

 私がそこまで言った時、王妃殿下は私の唇にそっと指を当てて、首を振られた。

「謝るのはこちらの方よ。陛下のせいであなたにご迷惑をかけてしまったわ。さぞかし胸を痛めたことでしょう。まずはわたくしからお詫び申し上げます。本当にごめんなさい。後で陛下にもしっかり謝罪させますからね」
「い、いえ。そんな。とんでもないお話でございます」
「謙虚にそうおっしゃると思っていたわ。その分、わたくしが陛下にお仕置きしておきますわね。でもやはり陛下も反省していますし、謝罪だけはさせてちょうだい」

 エルベルト殿下のお話を聞いたところによると、既にとっちめられた後ではないのでしょうか。まだお仕置きするおつもりなのでしょうか。いえ、もういいですよ……。

「ところで戻って来てくれたということは、愚鈍な陛下の血を引いた鈍感な息子でも、仕方がないから一緒になってやろうとお考え直ししてくれたと解釈していいのですよね? 良かったわ。ありがとう。本当にありがとう。それでいつ婚約発表する? 明日? 明後日? ああ、ごめんなさい。あなたにだって心の準備というものがあるわよね」

 キラキラの瞳で勢いよく続けざまにお話になられる王妃殿下に圧倒されて、ようやく話が切れた今も何をお答えすればよいのか分からない。

「あ、あの、えっと」
「ああ、そうだわ。ドレスも用意しなけれ――あら。ドレスの用意はできているのね。素敵よ! とてもお似合いになると思うわ。さぞかし人目を引く婚約発表となることでしょう。でもあなたのご両親もお呼びしないといけないし、三日後ぐらいでいいかし」
「母上」

 見かねたエルベルト殿下が側にやって来てようやく止めてくれた。

「婚約発表はまだ先のことです。ロザンヌ嬢を困らせないでください」
「何ですって」

 王妃殿下はぐりんと顔を回して、殿下に視線を向けると睨み付けた。

「あなた、ただの口約束だけで女性を縛り付けるつもり? なんと嘆かわしい! そんな不誠実な息子に育てた覚えはありませんよ」
「いいえ。そうではなく」

 頭が痛そうにこめかみに手をやる殿下。

「ロザンヌ嬢はまだ学生です。今、発表すると、これからの学園生活に支障を来すことが予想されます。ですから公表は卒業後にする予定です。ただし、婚約者の名は未公表ですが、決定したということだけは広報するつもりです」
「……そう。それなら仕方ないわね」

 殿下の言い分を聞いて、王妃殿下は納得されたようだ。

「いえ、待って。だとしたら、わたくしとのお茶会はどうなるの。まさかそれも発表後?」

 不満そうな王妃殿下に、エルベルト殿下は苦笑いされた。

「自室でのお茶会ならいいのでは」
「分かったわ。それぐらいなら譲歩しましょう。――ロザンヌ様」
「は、はい」

 お二人の間で話の決着がつき、王妃殿下は再び私に視線を向けられたのでピンと姿勢を正す。

「不束者ですが、エルベルトをどうかよろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそどうぞよろしくお願いいたします」

 狼狽しながらも私は丁寧に礼を返した。
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