婚約破棄された悪役令嬢ですが、なぜか変人侯爵に溺愛されてます

春夜夢

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第一部「ブレナード反逆編」

第8話:仮面を脱いだ夜と、忍び寄る噂

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静かに夜が更けていく。

 屋敷の灯りが徐々に落とされ、使用人たちの足音も消え、グランデ侯爵邸はまるで眠りに落ちたように静まり返っていた。
 だが私の胸の内は、まだ熱を持ったままだった。

 クラリッサ夫人の言葉が、何度も脳裏をかすめる。

 ――あの人は、自分を犠牲にしてでも家を守る男よ。

 義務の仮面を被り続けることが、どれほどの孤独を生むか。
 その孤独を、誰かが気づかぬふりをして見過ごしてきたのなら――

 私は、違う存在でいたいと思った。

* * *

 その夜、私は自らアレクシスの私室を訪れた。
 夜更けに女性が男の部屋を訪ねるのは、契約上どうなのかと迷ったが――今は、形よりも“気持ち”を届けたかった。

 ノックをすると、彼はすぐに出てきた。
 ナイトローブに着替えていたその姿は、日中よりも少しだけ柔らかく見える。

 「……眠れないのか?」

 「ええ。少しだけ、お話ししたくて」

 彼は頷き、室内へ手招きした。書斎とは違う、私的な空気が漂う部屋。
 その中に足を踏み入れた瞬間、私はどこかくすぐったい緊張を覚えた。

 「……レイナ」

 「はい?」

 「もし、僕が“完璧な器”でいることをやめたら、君は……失望するか?」

 唐突な問いだった。
 けれどその声音には、子どものような不安が滲んでいた。

 私はゆっくりと首を振った。

 「私が惹かれたのは、“器”ではなく、“あなた”そのものですわ」

 「……“契約相手”に対して、その言葉は適切とは言えない」

 「ええ。でも、これは契約とは関係のない、私個人の気持ちですから」

 しばしの沈黙。

 そして、アレクシスがソファの隣を指さした。

 「……隣、座るか?」

 「……では、失礼しますわね」

 私が彼の隣に腰を下ろすと、わずかな距離のはずなのに、胸の鼓動が跳ねる。

 「僕はずっと、どうやって人と心を通わせればいいのか分からなかった。両親が亡くなってからは特に。……話しかけても、誰も本音で返してくれなかった」

 「……侯爵家だから、ですね」

 「そう。僕ではなく、“地位”に向かって会話していた」

 彼の指先が、無意識にローブの袖をつまんでいた。
 私もそっと、自分の指先をその上に重ねた。

 「私は、“地位”ではなく“あなた”に話しています。だから……怖くてもいいのです。少しずつ、で」

 アレクシスが、ようやく視線を私に向けた。
 その瞳はいつもより、ずっと近く、あたたかく感じた。

 「レイナ……君は、どうしてそこまで、僕に向き合ってくれる?」

 「……あなたが、ずっと一人で、寂しそうだったから」

 「……それだけ?」

 私は少しだけ笑って、囁いた。

 「それだけで十分ですわ。私、そういう人に惹かれるんですの」

 ふいに、彼の手が私の手をそっと包み込んだ。

 優しくて、けれど震えていて。
 この人がずっと心の奥で“触れること”を恐れていたのだと、改めて気づかされた。

 「……ありがとう、レイナ。君に出会えて、よかった」

 その言葉は、どんな宝石よりも尊く、胸に深く刻まれた。

* * *

 翌朝。

 私はいつもより早く起き、庭のベンチで紅茶を啜っていた。
 けれど、その穏やかな時間は、ある報せによって破られた。

 「レイナ様、失礼いたします」

 執事が小走りに駆け寄り、封筒を差し出した。

 「こちら、本日早朝に王都から届いた書簡です。差出人は“無記名”でございますが……」

 私は眉をひそめながら、封を切った。

 ──そこに書かれていた内容は、あまりに衝撃的だった。

 > 《グランデ家の前当主夫妻の死は、事故などではない》
 > 《“レイナ・アルセリナ”もまた、その渦に飲まれることとなるだろう》

 ぞくり、と背筋が冷える。

 まるで呪詛のような文章だった。
 だが、恐怖以上に、心に引っかかったのはその一文。

 “事故などではない”

 ――やはり、あの死には裏がある。
 そして私は、知らず知らずのうちに“その核心”へ近づきつつあるのだ。

 私は、手紙をそっと折りたたみ、膝の上で静かに握った。

 「……アレクシス様。このことを、お話しすべきかしら」

 心の距離が近づいたその夜の直後に、過去の影が再び迫る。

 ただの“契約夫婦”だった私たちは、もはや運命を共にする者となりつつあるのかもしれない。
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