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第5話 揺らぐ日常と、初めて見た宰相閣下の激情
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王妃主催の夜会から数日が経過していた。
私の名前は少しずつ王都の上流階級の間に知られるようになり、「冷酷宰相の婚約者」という肩書きも、もはや珍しいものではなくなりつつあった。
けれど――
表面上は穏やかに流れていたその空気の裏で、私は“違和感”を感じ始めていた。
* * *
「……この書簡、昨日も受け取ったのですが、内容が同じでして」
「それは……失礼しました。私の手違いですわ」
「お茶の味が以前と違う……? 申し訳ありません、茶葉の等級は同じものを用意しておりますが……」
些細なことだった。
けれど、一つひとつの“ズレ”が積み重なり、まるで見えない糸に絡め取られているような不穏さを、私は肌で感じていた。
(誰かが、私の周囲で意図的に……?)
そして、その感覚はある日の午後、決定的な形で表面化した。
* * *
「……ん、くっ……!」
ドレスルームの鏡の前。
試着を終え、侍女が下がった直後だった。
突然背後から伸びてきた手が、私の腰をつかむ。
「やっと二人きりになれたね、エルネア嬢」
耳元で囁いたのは――
王妃付きの若い文官・ゼイス男爵の息子、リク・ゼイスだった。
「な、何を――やめてください!」
私は叫んで手を振り払おうとした。
だが、彼の手は固く、腰を引き寄せられ、背中が鏡に押し付けられる。
「冷たいなぁ……婚約者はもう年上の宰相様なんだから、たまには若い相手とも楽しんでみても――」
そのときだった。
「――離れろ」
雷のような怒声が、ドレスルームを貫いた。
次の瞬間、ドアが大きく開かれ、ルシアス閣下が現れた。
その顔には、これまで見たことのない“怒り”が宿っていた。
「て、閣下、これは……っ! 誤解です!」
「お前の息がかかる距離に、彼女を近づけたことが誤解ではないと証明している」
鋭い一睨みに、リクは床に膝をついた。
その間にルシアス閣下は私の腕をとり、自分の後ろへと庇うように引き寄せた。
「エルネア、怪我は?」
「いえ、私は……平気です」
声が震えてしまう。
手足も、まだ微かに震えていた。
けれど、閣下の背中が、私の視界いっぱいに広がった瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
(この人は、すぐに来てくれた……私を守るために)
そのあと、リクは近衛兵によりその場から連行され、事情を調べた結果、背後に「ある人物の影」があることが明らかとなった。
――姉、リアナ。
彼女が裏でリクに働きかけ、「宰相の気を惹けなくなった地味な妹は、どうせ遊ばれて捨てられる」と吹き込んでいたらしい。
(……姉様……)
落ち込む私に、ルシアス閣下は静かに言った。
「……済まない。もっと早く“囲って”おくべきだった」
「……囲う?」
「誰にも触れさせず、誰にも見せず、俺の目の届く場所だけに置いておくべきだったと……そう、思った」
その声は静かだった。
けれど、指先には熱があった。
そして――彼は、ふと手を伸ばし、私の頬に触れた。
熱い掌に包まれた肌が、じわりと火照る。
「……君が傷つくのは、もう嫌だ」
息が止まりそうになるほど近く、閣下の瞳が私を覗き込んでいた。
このまま触れられる――そう思った瞬間。
「……ル、ルシアス閣下……?」
私が彼の名前を呼ぶと、彼はふっと手を離し、背を向けた。
「……すまない。……今はまだ、これ以上は……」
言葉の続きを呑み込んだように、彼は部屋を出ていった。
残された私は、ぽつんと一人、静かに目を閉じた。
けれどその頬には、確かに彼の温もりが残っていて――
胸の鼓動は、いまだに収まる気配を見せなかった。
(……閣下は、私を“ただの駒”としてではなく……)
(ひとりの女性として、見てくれている……?)
そんな淡い期待が、私の心の奥に、初めて明確に芽吹いた夜だった。
私の名前は少しずつ王都の上流階級の間に知られるようになり、「冷酷宰相の婚約者」という肩書きも、もはや珍しいものではなくなりつつあった。
けれど――
表面上は穏やかに流れていたその空気の裏で、私は“違和感”を感じ始めていた。
* * *
「……この書簡、昨日も受け取ったのですが、内容が同じでして」
「それは……失礼しました。私の手違いですわ」
「お茶の味が以前と違う……? 申し訳ありません、茶葉の等級は同じものを用意しておりますが……」
些細なことだった。
けれど、一つひとつの“ズレ”が積み重なり、まるで見えない糸に絡め取られているような不穏さを、私は肌で感じていた。
(誰かが、私の周囲で意図的に……?)
そして、その感覚はある日の午後、決定的な形で表面化した。
* * *
「……ん、くっ……!」
ドレスルームの鏡の前。
試着を終え、侍女が下がった直後だった。
突然背後から伸びてきた手が、私の腰をつかむ。
「やっと二人きりになれたね、エルネア嬢」
耳元で囁いたのは――
王妃付きの若い文官・ゼイス男爵の息子、リク・ゼイスだった。
「な、何を――やめてください!」
私は叫んで手を振り払おうとした。
だが、彼の手は固く、腰を引き寄せられ、背中が鏡に押し付けられる。
「冷たいなぁ……婚約者はもう年上の宰相様なんだから、たまには若い相手とも楽しんでみても――」
そのときだった。
「――離れろ」
雷のような怒声が、ドレスルームを貫いた。
次の瞬間、ドアが大きく開かれ、ルシアス閣下が現れた。
その顔には、これまで見たことのない“怒り”が宿っていた。
「て、閣下、これは……っ! 誤解です!」
「お前の息がかかる距離に、彼女を近づけたことが誤解ではないと証明している」
鋭い一睨みに、リクは床に膝をついた。
その間にルシアス閣下は私の腕をとり、自分の後ろへと庇うように引き寄せた。
「エルネア、怪我は?」
「いえ、私は……平気です」
声が震えてしまう。
手足も、まだ微かに震えていた。
けれど、閣下の背中が、私の視界いっぱいに広がった瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
(この人は、すぐに来てくれた……私を守るために)
そのあと、リクは近衛兵によりその場から連行され、事情を調べた結果、背後に「ある人物の影」があることが明らかとなった。
――姉、リアナ。
彼女が裏でリクに働きかけ、「宰相の気を惹けなくなった地味な妹は、どうせ遊ばれて捨てられる」と吹き込んでいたらしい。
(……姉様……)
落ち込む私に、ルシアス閣下は静かに言った。
「……済まない。もっと早く“囲って”おくべきだった」
「……囲う?」
「誰にも触れさせず、誰にも見せず、俺の目の届く場所だけに置いておくべきだったと……そう、思った」
その声は静かだった。
けれど、指先には熱があった。
そして――彼は、ふと手を伸ばし、私の頬に触れた。
熱い掌に包まれた肌が、じわりと火照る。
「……君が傷つくのは、もう嫌だ」
息が止まりそうになるほど近く、閣下の瞳が私を覗き込んでいた。
このまま触れられる――そう思った瞬間。
「……ル、ルシアス閣下……?」
私が彼の名前を呼ぶと、彼はふっと手を離し、背を向けた。
「……すまない。……今はまだ、これ以上は……」
言葉の続きを呑み込んだように、彼は部屋を出ていった。
残された私は、ぽつんと一人、静かに目を閉じた。
けれどその頬には、確かに彼の温もりが残っていて――
胸の鼓動は、いまだに収まる気配を見せなかった。
(……閣下は、私を“ただの駒”としてではなく……)
(ひとりの女性として、見てくれている……?)
そんな淡い期待が、私の心の奥に、初めて明確に芽吹いた夜だった。
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