甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第一部二章 再動

甥と甥

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 「お屋形様の御成に御座ります!」

 という、信玄の近習の一声によって、大広間に集まってきた重臣たちと和やかに談笑していた信繁は、その表情を引き締めた。
 彼の周辺の重臣たちも、近習の声を耳にした途端、緊張の面持ちで、急いで各々の所定の座に腰を下ろす。
 信繁が大広間の上座の傍らに威儀を正して座るのと同様に、嫡男義信もその向かいに腰を下ろした。
 大広間に、張り詰めた緊張を孕んだ空気が満ちる。誰一人、しわぶきひとつもせずに、じっと主君の出座を待つ。
 と――、
 表の廊下の方から、ゆったりとした足音が聞こえ、だんだんとこちらへと近付いてきた。
 そして――、

「皆の者、大義である」

 聞き慣れた低い声が一同の耳朶を打ち、全員が一斉に深々と一礼する。
 頭を垂れた重臣たちの間を、板張りの床を静かに進む足音が聴こえた。

(……ふたり?)

 頭を下げ、床板に目を落としたまま、信繁は心中密かに首を傾げた。――信玄の他に、もうひとり、彼と並んで歩く者がいる?

(――一体、誰が?)

 と、訝しむ信繁の前を衣擦れの音が通過し、首座に座る気配がした後、穏やかな声が一同に向けてかけられる。

「皆の者、面を上げよ」
「「「――はっ」」」

 信玄の言葉に応じ、信繁を含めた重臣一同はその顔を上げ、上座の方へ顔を向けると――そのまま、目を見開いて固まった。
 何故なら――、首座に座る信玄の傍らに並んで座る、ひとりの若者の姿があったからだ。
 年の頃は、十五・六くらいだろうか? まだ幼いながらも、目鼻立ちの整った面立ちで、紅を引いたような真っ赤な唇が、その白皙の肌を更に白く引き立てている。
 前髪を落としていない事から、彼がまだ元服を済ませていない事が分かる。その、後頭部へと結い上げられた豊かな黒髪は、薄暗い大広間の中でも分かる程に艶々とした輝きを放っていた。
 その時、

「――し、四郎……だと!」

 呻くような呟きが耳に届き、信繁は声の元に目を遣った。
 ――彼の対面に座る義信が、顔面を蒼白にして、唇を微かに戦慄わななかせている。

(……では、あれが――)

 信繁は、再び上座へと目を移し、まるで女子のような美しい面差しをした、その若者の顔をまじまじと見た。

(――兄上が、諏訪の姫に産ませたという――四郎か)



 天文十年に、父信虎を追放し、甲斐の国主となった武田晴信 (後の信玄)が、まず最初に取りかかったのは、甲斐から信濃に出る際に、最初に到る地――諏訪地方の攻略であった。
 元々、諏訪地方の領主にして、諏訪大社の大祝おおはふり (諏訪大社の神職の最高位)でもあった諏訪家当主諏訪頼重と武田信虎との間には、婚姻関係に基づく同盟が結ばれていた。
 晴信の姉・禰々ねねが頼重に嫁いでいたのだ。つまり、頼重と晴信は、義理の兄弟という事になる。
 しかし晴信は、その同盟を一方的に破棄し、突然、諏訪へと攻め込んできた。その侵攻に対して、頼重も力の限り抵抗したものの、晴信は、諏訪氏の庶流で、頼重の大祝の座を狙う高遠城主・高遠頼継と手を組み、頼重を挟撃してきた為、衆寡敵せず、遂に降伏へと追い込まれた。
 ……そして、甲斐府中の東光寺へと幽閉された頼重は、後に自刃する事となる。

 頼重には妾腹の娘がおり、彼女を見初めた晴信は、山本勘助の献策もあって、周囲の重臣たちの反対を押し切って側室にした。
 その娘――諏訪御寮人が産んだ男児こそ――今、信玄の傍らに座る四郎であった。
 信繁にとっては、義信と同様、甥にあたるのだが、四郎を見るのは初めてであった。
 彼は兄たちとは違い、ずっと躑躅ヶ崎館の西曲輪に、匿われるように住まわされていたからだ。
 西曲輪は、信玄の正室・三条夫人や、側室とその子達が住まう男子禁制の区画で、弟の信繁でさえ、立ち入る事は赦されなかった。
 つまり、西曲輪そこでずっと生活していた四郎の顔を知る者は、この場の人間では、信玄の嫡男である義信以外はいない。
 突然、見慣れぬ若者が、主君の隣で平然と腰を下ろしているのだ。重臣たちが戸惑いの表情を浮かべるのも、けだし当然の事といえよう。
 だが、信繁には、解せぬ事がもう一つあった。

(……何故、この評定の場に四郎が?)

 この評定の場へは、武田家家臣の中でも、ごく一部の重臣にしか列席を赦されない。信繁の与力である昌幸も、その資格を満たしていない為、評定が始まる前に退室しているし、信繁の嫡男であり、当然親族衆の一員でもある信豊ですら、その例外では無かった。
 そんな場に、如何に信玄の子だとはいえ、未だに元服すらしていない四郎が平然とした顔で座っている事もおかしいし――、

(……四郎が、先程のお屋形様の御成と同時に入ってきたという事は……我らは、四郎に対しても頭を下げたという事になるのではないか――?)

 そして、その重臣の中に、信玄の嫡男・義信が含まれていたという事は……即ち、『当主の跡継ぎが、妾腹の四男に頭を下げた』という事実にもなる――。
 その事が何を意味するのか……。
 他の重臣たちも、チラホラと、その事に気付いた者が居るようだった。声にならないどよめきが、さざなみのように、大広間の空気を逆立てていく。
 信繁はゆっくりと、再び対面へ視線を戻す。
 先程まで蒼白だった義信の顔は、今度は紅潮し、その太い眉を吊り上げて、首座に厳しい目を向けていた。そして、その傍らに座る飯富虎昌も、今にも獲物を食い殺しそうな虎のような顔をして、唇を噛んでいた。

(……そういう事か)

 ――信繁は悟った。
 先程、飯富と義信の顔を過ぎった、憂いの理由が何なのかを――。
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