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第一部二章 再動
若殿と守役
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「――叔父上!」
評定の行われる大広間に入った信繁を、溌剌とした声が迎えた。
その声を聞いた信繁の顔が綻ぶ。
「おお……、これは若殿。ご無沙汰しております」
「そんな! “若殿”などと、他人行儀はお止め下され、叔父上!」
そう言いながら、喜色を露わにして信繁の元に来たのは、堂々とした体躯の威丈夫だった。
信繁は、柔らかな笑みを湛えて、その男を迎えた。
「……では、失礼して。――久しいの、太郎」
臣下から、叔父へと態度を変え、信繁は大きく頷いた。
信玄の嫡男である武田太郎義信は、嬉しそうな顔で、敬愛する叔父へ深々と頭を下げる。
「叔父上におかれましては、ご健勝で何よりでございます。お目覚めとの報せを受け、すぐにでも西上野から馳せ参じたかったのでございますが、箕輪の長野業盛め等がしぶとく抵抗を続けておりまして、前線より離れる事も能わず……」
「そうであったな」
信繁は、義信の言葉に小さく頷いた。
「確か、そなたは真田弾正と共に、西上野の攻略に取り掛かっておったのだったな」
「は。……とはいえ、殆どは弾正の独擅場でして。私はその横でふんぞり返るだけで、何も成せてはおりませぬが」
義信はそう言いながら、自嘲する様に口元を歪ませた。
そんな彼に、信繁は優しく言葉をかける。
「そう自分を卑下するでない。お前は大将だ。細かい事は配下に任せ、どっしりと構えているのも、大将の大切な仕事だぞ」
「左様で御座いますか……」
義信は、叔父の温かい言葉にホッとした表情を見せたが、「……ですが」と言葉を継いだ。
「――例えば、越後の上杉輝虎は、自ら槍を取り、先頭切って敵へ攻めかかります。……強い総大将とは、そういうものでは無いのでしょうか?」
「……二年前の戦いは、そうだったようだな」
信繁は、義信の言葉で苦い記憶が頭を過ぎり、僅かに顔を顰めた。
「あの時……、輝虎は単騎で我らが本陣に突っ込み、お屋形様と太刀合わせたという話だったな。敵といえど、武士としては、天晴れな男よ」
「……なれば――」
「だがな、太郎」
と、信繁は甥の目をジッと見据えて、静かに言葉を継いだ。
「その振る舞い、一軍を率いる大将としては下の下」
「……下の下……でござるか?」
「ああ」
訝しげに訊き返す義信に、信繁は大きく頷いた。
「考えてもみよ。もし万が一、単騎駆けした総大将が返り討ちに遭ったら、残された兵達はどうなる? ――頭を失った大蛇と同じよ。幾万の兵が残っていようが、その指揮系統は大いに乱れ、脆くなる」
そう言うと、信繁はその隻眼を伏せた。
「……桶狭間で、お主の義父、今川義元殿が討ち取られた時の事が良い例だ」
「……」
「儂はな、総大将は……いや、総大将こそ、誰よりも命を惜しんで、必要とあれば恥も外聞も誇りも名誉も捨ててとことんまで逃げ回り、最後の一兵が斃れるまで生き延びる覚悟が必要だと思っておる。――それが、幾千幾万の兵の命を預かる者としての務めだと、な」
「……恥も外聞も……誇りも名誉も……捨て――」
信繁の言葉を口の中で反芻するように呟く義信の肩を叩き、信繁はニコリと笑った。
「だからな。総大将は、ふんぞり返って床几に腰掛けておれば良いのだ。細かいところは、真田弾正に任せて、な」
「左様で御座ります、若殿!」
信繁の言葉を引き継いで、大きな声を上げたのは、彼の後方に控えていた昌幸であった。
「謀は、親父殿の働きどころですから、せいぜいこき使ってやって下され! 逆に、下手に口や手を出そうとすると、あの偏屈親父は、童のようにヘソを曲げてしまいますから」
「お主は――確か、弾正の息子の……」
「三番目に御座る。今は、武藤の家に入り、喜兵衛昌幸を名乗っておりまする」
「おお――! お主がそうか!」
義信の顔が綻んだ。
「弾正や信綱、それに昌輝らからも、お主の話は聞き及んでおるぞ」
「はて? 親父殿や兄上たちは、拙者の事を何と言っておりましたか?」
という、昌幸の問いに、義信は苦笑を浮かべ「あー……それは……」と言い淀む。
その様子に、昌幸は皮肉気に口角を上げた。
「……どうせ、『糞生意気な悪タレ』やら『口から先に生まれてきたような、こまっしゃくれた餓鬼』とか、そういう悪口で御座いましょう?」
「あ――いや……その……」
ムッとして頬を膨らませる昌幸の前で、額に冷や汗を乗せながら、ぎこちなく笑う義信。
そんなふたりの様子を横で見ながら、信繁の頬も緩んだ。
――と、
「……典厩殿、お久しゅう御座います」
スッと、義信の背後から現れた白髪頭の小柄な老人が、嗄れた声で信繁に声をかけた。
「――おお、飯富兵部ではないか」
信繁の顔が、懐かしさで綻んだ。
飯富兵部少輔虎昌――信玄の父・信虎の時代から武田家に仕える宿老にして、近隣の勢力から怖れられた武田軍の精鋭中の精鋭・赤備え隊を率いる武の要である。
齢は六十を超えているはずだが、相変わらず矍鑠としていて、若き日と同様に、元気に戦場を駈けているようだ。それは、彼の顔が日に焼けて真っ黒な事から窺い知れる。
また、彼は信玄から嫡男義信の守役の任を受けており、彼の事を公私問わず様々な面で補佐していた。
――と、虎昌は慇懃に頭を下げると、挨拶もそこそこに、声を顰めて信繁に囁きかける。
「……大変申し訳御座いませぬが……後ほど、お時間を頂きとうございます」
「……ん?」
信繁は、浮かない表情を浮かべる虎昌の顔に、訝しげな視線を向けた。
「――どうした? 何か憂い事でもあるのか?」
「それは――ここでは……」
問い返した信繁を前に、曖昧に言葉を濁す虎昌。藁にでも縋りたそうな切実とした表情で、それでいて、断固として退かない――そんな強い意志が、彼の表情から感じ取れた。
ふと見ると、義信も同じような表情を浮かべて、信繁の方を黙って見つめている。
――どうやら、よっぽど深刻なものを、その腹に抱えているようだ。
信繁は、何やら不穏なものを感じつつ、ふたりに向けて頷いた。
「……相分かった。これから始まる評定と宴の後に、お主らの話を聞くとしよう」
評定の行われる大広間に入った信繁を、溌剌とした声が迎えた。
その声を聞いた信繁の顔が綻ぶ。
「おお……、これは若殿。ご無沙汰しております」
「そんな! “若殿”などと、他人行儀はお止め下され、叔父上!」
そう言いながら、喜色を露わにして信繁の元に来たのは、堂々とした体躯の威丈夫だった。
信繁は、柔らかな笑みを湛えて、その男を迎えた。
「……では、失礼して。――久しいの、太郎」
臣下から、叔父へと態度を変え、信繁は大きく頷いた。
信玄の嫡男である武田太郎義信は、嬉しそうな顔で、敬愛する叔父へ深々と頭を下げる。
「叔父上におかれましては、ご健勝で何よりでございます。お目覚めとの報せを受け、すぐにでも西上野から馳せ参じたかったのでございますが、箕輪の長野業盛め等がしぶとく抵抗を続けておりまして、前線より離れる事も能わず……」
「そうであったな」
信繁は、義信の言葉に小さく頷いた。
「確か、そなたは真田弾正と共に、西上野の攻略に取り掛かっておったのだったな」
「は。……とはいえ、殆どは弾正の独擅場でして。私はその横でふんぞり返るだけで、何も成せてはおりませぬが」
義信はそう言いながら、自嘲する様に口元を歪ませた。
そんな彼に、信繁は優しく言葉をかける。
「そう自分を卑下するでない。お前は大将だ。細かい事は配下に任せ、どっしりと構えているのも、大将の大切な仕事だぞ」
「左様で御座いますか……」
義信は、叔父の温かい言葉にホッとした表情を見せたが、「……ですが」と言葉を継いだ。
「――例えば、越後の上杉輝虎は、自ら槍を取り、先頭切って敵へ攻めかかります。……強い総大将とは、そういうものでは無いのでしょうか?」
「……二年前の戦いは、そうだったようだな」
信繁は、義信の言葉で苦い記憶が頭を過ぎり、僅かに顔を顰めた。
「あの時……、輝虎は単騎で我らが本陣に突っ込み、お屋形様と太刀合わせたという話だったな。敵といえど、武士としては、天晴れな男よ」
「……なれば――」
「だがな、太郎」
と、信繁は甥の目をジッと見据えて、静かに言葉を継いだ。
「その振る舞い、一軍を率いる大将としては下の下」
「……下の下……でござるか?」
「ああ」
訝しげに訊き返す義信に、信繁は大きく頷いた。
「考えてもみよ。もし万が一、単騎駆けした総大将が返り討ちに遭ったら、残された兵達はどうなる? ――頭を失った大蛇と同じよ。幾万の兵が残っていようが、その指揮系統は大いに乱れ、脆くなる」
そう言うと、信繁はその隻眼を伏せた。
「……桶狭間で、お主の義父、今川義元殿が討ち取られた時の事が良い例だ」
「……」
「儂はな、総大将は……いや、総大将こそ、誰よりも命を惜しんで、必要とあれば恥も外聞も誇りも名誉も捨ててとことんまで逃げ回り、最後の一兵が斃れるまで生き延びる覚悟が必要だと思っておる。――それが、幾千幾万の兵の命を預かる者としての務めだと、な」
「……恥も外聞も……誇りも名誉も……捨て――」
信繁の言葉を口の中で反芻するように呟く義信の肩を叩き、信繁はニコリと笑った。
「だからな。総大将は、ふんぞり返って床几に腰掛けておれば良いのだ。細かいところは、真田弾正に任せて、な」
「左様で御座ります、若殿!」
信繁の言葉を引き継いで、大きな声を上げたのは、彼の後方に控えていた昌幸であった。
「謀は、親父殿の働きどころですから、せいぜいこき使ってやって下され! 逆に、下手に口や手を出そうとすると、あの偏屈親父は、童のようにヘソを曲げてしまいますから」
「お主は――確か、弾正の息子の……」
「三番目に御座る。今は、武藤の家に入り、喜兵衛昌幸を名乗っておりまする」
「おお――! お主がそうか!」
義信の顔が綻んだ。
「弾正や信綱、それに昌輝らからも、お主の話は聞き及んでおるぞ」
「はて? 親父殿や兄上たちは、拙者の事を何と言っておりましたか?」
という、昌幸の問いに、義信は苦笑を浮かべ「あー……それは……」と言い淀む。
その様子に、昌幸は皮肉気に口角を上げた。
「……どうせ、『糞生意気な悪タレ』やら『口から先に生まれてきたような、こまっしゃくれた餓鬼』とか、そういう悪口で御座いましょう?」
「あ――いや……その……」
ムッとして頬を膨らませる昌幸の前で、額に冷や汗を乗せながら、ぎこちなく笑う義信。
そんなふたりの様子を横で見ながら、信繁の頬も緩んだ。
――と、
「……典厩殿、お久しゅう御座います」
スッと、義信の背後から現れた白髪頭の小柄な老人が、嗄れた声で信繁に声をかけた。
「――おお、飯富兵部ではないか」
信繁の顔が、懐かしさで綻んだ。
飯富兵部少輔虎昌――信玄の父・信虎の時代から武田家に仕える宿老にして、近隣の勢力から怖れられた武田軍の精鋭中の精鋭・赤備え隊を率いる武の要である。
齢は六十を超えているはずだが、相変わらず矍鑠としていて、若き日と同様に、元気に戦場を駈けているようだ。それは、彼の顔が日に焼けて真っ黒な事から窺い知れる。
また、彼は信玄から嫡男義信の守役の任を受けており、彼の事を公私問わず様々な面で補佐していた。
――と、虎昌は慇懃に頭を下げると、挨拶もそこそこに、声を顰めて信繁に囁きかける。
「……大変申し訳御座いませぬが……後ほど、お時間を頂きとうございます」
「……ん?」
信繁は、浮かない表情を浮かべる虎昌の顔に、訝しげな視線を向けた。
「――どうした? 何か憂い事でもあるのか?」
「それは――ここでは……」
問い返した信繁を前に、曖昧に言葉を濁す虎昌。藁にでも縋りたそうな切実とした表情で、それでいて、断固として退かない――そんな強い意志が、彼の表情から感じ取れた。
ふと見ると、義信も同じような表情を浮かべて、信繁の方を黙って見つめている。
――どうやら、よっぽど深刻なものを、その腹に抱えているようだ。
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