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第二部七章 帰陣
岩村城と再会
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馬場信春らに見送られて甲斐へ発った信繁一行は、久々利城の南を通ってから、東へ向かう山道に入った。
途中、土岐郡を流れる土岐川沿いに築かれた土岐高山城 (現在の岐阜県土岐市土岐津町高山)で一泊し、翌日には更に東へと向かう。
普通の行軍の速度ならば、その日のうちに最初の目的地に辿りつける距離だったが、長距離の旅に慣れていない女性の月の疲労を考え、山道の途中にあった集落に立ち寄り、更に一泊した。
次の日、太陽が昇って明るくなるのを待ってから出立した信繁たちは、険しい山道を歩き通し、夕方前に最初の目的地である岩村城へと辿り着いたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
「武田典厩様、我が城にお立ち寄り頂き、誠に嬉しゅう御座ります」
岩村城内に入り、大手門の前で馬から下りた信繁を出迎えたのは、岩村城の主である遠山大和守景任だった。
片膝をついて頭を下げた景任の挨拶に軽く会釈した信繁は、穏やかな微笑みを浮かべる。
「久しゅう御座る、遠山殿。わざわざのお出迎え、誠にかたじけない。今宵は世話になり申す」
そう、景任に向けて声をかけた信繁は、続けて、彼の後ろで平伏している女に目を向けた。
「つや殿も、どうぞお顔を上げて下され」
「――はい」
信繁に促され、小袖に地味な意匠の打掛を羽織ったつやはゆっくりと顔を上げる。
その顔に施された化粧が妙に薄く、着ている小袖の柄も控えめである事に気付いた信繁だったが、あえてそれには触れず、微笑みを湛えながら声をかけた。
「お久しゅう御座る。苗木城以来ですな」
「ええ、左様にございますね」
つやも、微かに口元を綻ばせながら、信繁の言葉に頷く。
「兼山での御戦勝、誠に祝着に存じます」
「これは忝きお言葉、痛み入り申す」
つやからかけられた祝福の言葉に穏やかな笑みを浮かべながら、信繁は慇懃に頭を下げた。
と、その時、
「左馬助様!」
大手門の方から、弾んだ声が上がる。
名を呼ばれて振り返った信繁が、声の主の顔を見るやたちまち顔を綻ばせた。
「おお、元気であったか、伯耆よ!」
「勿論に御座ります!」
信繁の言葉に満面の笑顔で応えたのは、藍色の小袖の上に萌黄色の胴服を纏った秋山伯耆守虎繁である。
信繁率いる武田本隊から離れ、在番衆として苗木城に留まっていた彼は、信繁が甲斐へ帰る途中に岩村城に立ち寄ると聞いて、矢も楯もたまらず駆けつけてきたのだった。
大手門に到るまでの緩やかな坂道を一気に駆け上ってきたせいで荒い息を吐いている乗騎から飛び降りた虎繁は、信繁に深々と頭を下げてから、残念そうに言う。
「左馬助様が着く前に岩村城へ駆けつけ、大和守殿たちといっしょに待ち受けようとしたのですが……思ったよりも早い御着到でしたな」
「儂らが早いのではなく、お主が遅かっただけではないか?」
少し悔しそうな顔をしている虎繁に、信繁はからかうように言った。
すると、彼の後ろに控えていた武藤昌幸がニヤリと笑いながら続く。
「左様にございますね。ひょっとして、深酒でも召されて寝過ごしたとかではありませぬか?」
「な、何を申すか、喜兵衛! そんな事……あ、ある訳が無かろうッ!」
昌幸の言葉に声を荒げる虎繁だったが、その目は疚しさを隠し切れぬ様子で、激しく泳いでいた。
そんな虎繁の反応に吹き出しそうになるのを堪えながら、信繁は彼に尋ねる。
「まあ良い。伯耆、あれから苗木の方は大事無かったか?」
「あ……はい」
信繁の問いかけに、虎繁はどことなくホッとした表情を浮かべつつ頷いた。
「概ねは。前の件によって苗木城内から親織田派を一掃できた事もあって、勘太郎殿も以前より色々とやりやすくなったかと」
そう答えた虎繁だったが、そこで表情を曇らせ、「ただ――」と言葉を続ける。
「勘太郎殿の奥方だった琴殿が――」
「……ああ」
虎繁の言葉に、信繁も暗い顔になって頷いた。
「――その事は、既に聞き及んでおる」
そう言った彼は、チラリとつやの方を見る。
つやは何も言わず、ただ静かに俯いていた。
他の者たちも、彼女の表情の変化に気付き、皆の間に気まずい沈黙が広がる。
――と、
「……積もる話は、また後ほどということで」
重くなった空気を破るように、遠山景任が口を開いた。
彼は、沈鬱な表情で俯いている妻の方を心配そうにチラリと見てから、再び信繁に言う。
「典厩様、本丸御殿の湯殿を整えさせております。夕餉の前に、風呂で行軍の疲れをお取りなさるが宜しいかと。……まあ、風呂とは言っても、なにぶん岩村城は険しき山城ゆえ、かけ湯や焚風呂ではない簡素な蒸し風呂しか御座いませぬが」
「おお、それは有難い」
景任の言葉に、信繁は顔を綻ばせた。
「朝からずっと馬の背の上で揺られ通しだったからな。旅塵と汗に塗れた体も綺麗にしたいと思うておったところだ。喜んでお言葉に甘える事にしよう」
そう言った信繁は、自分の言葉で居合わせた者たちの暗い表情と雰囲気も幾分か緩んだのを見て、秘かに安堵の息を吐く。
そして、穏やかな微笑みを浮かべながら、景任に軽く頭を下げた。
「行き届いたお気遣いに感謝いたしますぞ、遠山殿」
途中、土岐郡を流れる土岐川沿いに築かれた土岐高山城 (現在の岐阜県土岐市土岐津町高山)で一泊し、翌日には更に東へと向かう。
普通の行軍の速度ならば、その日のうちに最初の目的地に辿りつける距離だったが、長距離の旅に慣れていない女性の月の疲労を考え、山道の途中にあった集落に立ち寄り、更に一泊した。
次の日、太陽が昇って明るくなるのを待ってから出立した信繁たちは、険しい山道を歩き通し、夕方前に最初の目的地である岩村城へと辿り着いたのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
「武田典厩様、我が城にお立ち寄り頂き、誠に嬉しゅう御座ります」
岩村城内に入り、大手門の前で馬から下りた信繁を出迎えたのは、岩村城の主である遠山大和守景任だった。
片膝をついて頭を下げた景任の挨拶に軽く会釈した信繁は、穏やかな微笑みを浮かべる。
「久しゅう御座る、遠山殿。わざわざのお出迎え、誠にかたじけない。今宵は世話になり申す」
そう、景任に向けて声をかけた信繁は、続けて、彼の後ろで平伏している女に目を向けた。
「つや殿も、どうぞお顔を上げて下され」
「――はい」
信繁に促され、小袖に地味な意匠の打掛を羽織ったつやはゆっくりと顔を上げる。
その顔に施された化粧が妙に薄く、着ている小袖の柄も控えめである事に気付いた信繁だったが、あえてそれには触れず、微笑みを湛えながら声をかけた。
「お久しゅう御座る。苗木城以来ですな」
「ええ、左様にございますね」
つやも、微かに口元を綻ばせながら、信繁の言葉に頷く。
「兼山での御戦勝、誠に祝着に存じます」
「これは忝きお言葉、痛み入り申す」
つやからかけられた祝福の言葉に穏やかな笑みを浮かべながら、信繁は慇懃に頭を下げた。
と、その時、
「左馬助様!」
大手門の方から、弾んだ声が上がる。
名を呼ばれて振り返った信繁が、声の主の顔を見るやたちまち顔を綻ばせた。
「おお、元気であったか、伯耆よ!」
「勿論に御座ります!」
信繁の言葉に満面の笑顔で応えたのは、藍色の小袖の上に萌黄色の胴服を纏った秋山伯耆守虎繁である。
信繁率いる武田本隊から離れ、在番衆として苗木城に留まっていた彼は、信繁が甲斐へ帰る途中に岩村城に立ち寄ると聞いて、矢も楯もたまらず駆けつけてきたのだった。
大手門に到るまでの緩やかな坂道を一気に駆け上ってきたせいで荒い息を吐いている乗騎から飛び降りた虎繁は、信繁に深々と頭を下げてから、残念そうに言う。
「左馬助様が着く前に岩村城へ駆けつけ、大和守殿たちといっしょに待ち受けようとしたのですが……思ったよりも早い御着到でしたな」
「儂らが早いのではなく、お主が遅かっただけではないか?」
少し悔しそうな顔をしている虎繁に、信繁はからかうように言った。
すると、彼の後ろに控えていた武藤昌幸がニヤリと笑いながら続く。
「左様にございますね。ひょっとして、深酒でも召されて寝過ごしたとかではありませぬか?」
「な、何を申すか、喜兵衛! そんな事……あ、ある訳が無かろうッ!」
昌幸の言葉に声を荒げる虎繁だったが、その目は疚しさを隠し切れぬ様子で、激しく泳いでいた。
そんな虎繁の反応に吹き出しそうになるのを堪えながら、信繁は彼に尋ねる。
「まあ良い。伯耆、あれから苗木の方は大事無かったか?」
「あ……はい」
信繁の問いかけに、虎繁はどことなくホッとした表情を浮かべつつ頷いた。
「概ねは。前の件によって苗木城内から親織田派を一掃できた事もあって、勘太郎殿も以前より色々とやりやすくなったかと」
そう答えた虎繁だったが、そこで表情を曇らせ、「ただ――」と言葉を続ける。
「勘太郎殿の奥方だった琴殿が――」
「……ああ」
虎繁の言葉に、信繁も暗い顔になって頷いた。
「――その事は、既に聞き及んでおる」
そう言った彼は、チラリとつやの方を見る。
つやは何も言わず、ただ静かに俯いていた。
他の者たちも、彼女の表情の変化に気付き、皆の間に気まずい沈黙が広がる。
――と、
「……積もる話は、また後ほどということで」
重くなった空気を破るように、遠山景任が口を開いた。
彼は、沈鬱な表情で俯いている妻の方を心配そうにチラリと見てから、再び信繁に言う。
「典厩様、本丸御殿の湯殿を整えさせております。夕餉の前に、風呂で行軍の疲れをお取りなさるが宜しいかと。……まあ、風呂とは言っても、なにぶん岩村城は険しき山城ゆえ、かけ湯や焚風呂ではない簡素な蒸し風呂しか御座いませぬが」
「おお、それは有難い」
景任の言葉に、信繁は顔を綻ばせた。
「朝からずっと馬の背の上で揺られ通しだったからな。旅塵と汗に塗れた体も綺麗にしたいと思うておったところだ。喜んでお言葉に甘える事にしよう」
そう言った信繁は、自分の言葉で居合わせた者たちの暗い表情と雰囲気も幾分か緩んだのを見て、秘かに安堵の息を吐く。
そして、穏やかな微笑みを浮かべながら、景任に軽く頭を下げた。
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