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第二部七章 帰陣
夕餉と手料理
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岩村城の本丸御殿内に設けられた湯殿に入り、旅の埃と汗を流した信繁たちは、城主の遠山景任に招かれて夕餉の席についた。
板間に敷かれた円座に腰を下ろした信繁たちの前に、玄米が盛られた椀や川魚の塩焼きや汁物、香の物が並べられた膳が置かれる。
「本来でしたら、盛大な宴を催したいところに御座りまするが……申し訳ありませぬ」
信繁の盃に酒を注ぎながら、景任が申し訳なさそうな顔で言う。
彼が、昌幸たちに酒を注いでいるつやの方をチラリと一瞥した事で理由を察した信繁は、穏やかな笑みを浮かべながら頭を振った。
「いや……十分に御座る。忝い」
そう答えて、景任の手から受け取った片口で彼の盃に酒を注ぐ。
そして、互いに杯を掲げ、くいっと飲み干した。
「ふう……」
杯を干した信繁は、箸を手に取り、香の物をひとつ摘み、口に運ぶ。
「うん、美味い」
口の中に広がる味噌の風味に、信繁は思わず呟いた。
その声を聞いた景任が、嬉しそうな顔をする。
「美味う御座いましょう? これは、奥が自らの手で仕込んだものでしてな。私も好物なのです」
「ほう、奥方殿が自ら……それは大したものだ」
景任の言葉に、信繁は感嘆の声を上げた。
「香の物だけでは御座いませぬぞ、左馬助様」
そう声を上げたのは、秋山虎繁である。
「某も何度かご相伴に預かりましたが、つや殿の手料理は、どれもこれも絶品です」
「いえ……そんな事は……」
虎繁の絶賛に、つやは恥ずかしそうな顔をして、首を横に振った。
そんな彼女に、虎繁は「そんな事は十分にありますぞ!」と言い切り、景任に向かって笑いかける。
「いやぁ、つや殿の手料理を毎日のように食せる遠山殿が羨ましゅうござる」
「いや、はは……」
虎繁から気さくに声をかけられた景任は、少しぎこちない表情で笑い声をあげながら答え、すぐにつと目を逸らした。
一瞬、場の雰囲気が妙な緊張をはらむ。
……と、
「――手料理といえば」
空気が重くなりかけたのを悟った昌幸が、さりげなく口を挟んだ。
「典厩様の奥方様であらせられる桔梗様がお作りになる手料理も、絶品です。秋山様もご存じでしょう?」
「お、おお、確かに!」
急に昌幸から話を振られた虎繁が、慌てて頷く。
「一度だけ、左馬助様のお屋敷で御相伴に預かった事があったが、その時に頂いた奥方様の料理の味は格別に御座った」
「そうでしょうそうでしょう」
昌幸は、虎繁の言葉に満足げな声を上げると、上座に座る信繁に笑いかけた。
「拙者は、甲斐に帰って桔梗様の手料理を食べるのが、今から楽しみでなりませぬ」
「……儂もだ」
信繁は、昌幸の言葉に頷く。
その脳裏に、甲斐府中の屋敷で彼を待つ桔梗と娘の綾の顔が浮かんだ。
もう二ヶ月以上もの間、彼女たちの顔も見れず、声も聞けていない。
唐突に胸の中に湧き起こった郷愁の念ごと飲み込むように、汁物の椀を一口啜った信繁は、昌幸に向かってニヤリと笑いかけた。
「……というか、昌幸よ。お主、甲斐に帰ったら当然のように儂の屋敷で飯を食うつもりのようだが、それでいいのか?」
「え?」
「お主は、もうひとり身ではないのだぞ。家に娶ったばかりの女房がおるのに、放っておくつもりか?」
「あ……いや、それは……」
信繁の問いかけに、昌幸は慌てて首を左右に振る。
「ほ、放っておくなど……。もちろん、まず帰るのは自分の屋敷で……」
「“まず”という事は、その後で左馬助様の屋敷に赴くつもりか、喜兵衛?」
昌幸の答えに、虎繁は眉を顰めながら問いを重ねた。
そんな虎繁の反応に怪訝な顔をしつつ、昌幸はコクンと頷く。
「え、ええ、まあ……」
「悪い事は言わぬ。帰ったその日……いや、数日は屋敷に留まり、嫁御の側にいてやれ」
虎繁は、真剣な顔をして言った。
「お前、まだ嫁御をもらったばかりであろう? 最初の一年が肝心だぞ。最も夫婦の情が強くなる時期に嫁御をぞんざいに扱ったら、その後いつまでも根に持たれて、事あるごとに掘り返される事になるぞ」
「う……!」
昌幸は、虎繁の話に有無を言わさぬ説得力を感じて、思わず息を吞む。
と、ふとある推測が頭に浮かび、昌幸は虎繁におずおずと尋ねた。
「……随分と具体的なお話ですが、ひょっとして、それは秋山様御自身の経験からの――」
「――言わせるな」
「あ……はい」
自分の問いを途中で遮った虎繁の表情から色々と察した昌幸は、おとなしく引き下がる。
そして、ちらりと他の者たちの顔を盗み見ると、信繁と景任は虎繁と同じような表情を浮かべて気まずげに目を逸らし、
「ふふ……」
――つやだけは、意味深な笑みを湛えていた。
◆ ◆ ◆ ◆
夕餉を摂り終え、景任とつやが部屋を辞した後、信繁らは部屋に残って酒を酌み交わしていた。
もちろん、三人で残ったのは、ただの酒盛りの為だけではない。
信繁が西に向かって進軍した後の東濃地方の情勢の確認と、今後の方針についての擦り合わせをする為である。
本来なら、旧斎藤家家臣として美濃の情勢に詳しい仙谷久勝と竹中半兵衛も同席させたいところではあったが、まだ当主の信玄の目通りも終えていないふたりは、今のところはまだ“敵軍の降将”という立場である。
その為、彼らを武田軍の機密に関わる話し合いに加える事はせず、武田家の臣である信繁・昌幸・虎繁の三人だけで話し合う事にしたのだ。
「……ところで、伯耆」
半刻 (約一時間)ほどで、大体の事を話し終えた信繁は、酒を呷って喉を潤してから、声を潜めて虎繁に言う。
「先ほどは、遠山殿とつや殿が居たから控えたが……訊かせてくれるか」
「はっ……」
信繁の言葉に、虎繁も真顔になって頷いた。
「例の件の事ですな?」
「ああ……」
虎繁の言葉に頷き返した信繁は、香の物が盛られた皿に目を落とし、静かに言葉を継ぐ。
「遠山勘太郎の妻だった、織田信長の妹……琴殿の死について、どこまで分かっているか訊かせてくれ」
板間に敷かれた円座に腰を下ろした信繁たちの前に、玄米が盛られた椀や川魚の塩焼きや汁物、香の物が並べられた膳が置かれる。
「本来でしたら、盛大な宴を催したいところに御座りまするが……申し訳ありませぬ」
信繁の盃に酒を注ぎながら、景任が申し訳なさそうな顔で言う。
彼が、昌幸たちに酒を注いでいるつやの方をチラリと一瞥した事で理由を察した信繁は、穏やかな笑みを浮かべながら頭を振った。
「いや……十分に御座る。忝い」
そう答えて、景任の手から受け取った片口で彼の盃に酒を注ぐ。
そして、互いに杯を掲げ、くいっと飲み干した。
「ふう……」
杯を干した信繁は、箸を手に取り、香の物をひとつ摘み、口に運ぶ。
「うん、美味い」
口の中に広がる味噌の風味に、信繁は思わず呟いた。
その声を聞いた景任が、嬉しそうな顔をする。
「美味う御座いましょう? これは、奥が自らの手で仕込んだものでしてな。私も好物なのです」
「ほう、奥方殿が自ら……それは大したものだ」
景任の言葉に、信繁は感嘆の声を上げた。
「香の物だけでは御座いませぬぞ、左馬助様」
そう声を上げたのは、秋山虎繁である。
「某も何度かご相伴に預かりましたが、つや殿の手料理は、どれもこれも絶品です」
「いえ……そんな事は……」
虎繁の絶賛に、つやは恥ずかしそうな顔をして、首を横に振った。
そんな彼女に、虎繁は「そんな事は十分にありますぞ!」と言い切り、景任に向かって笑いかける。
「いやぁ、つや殿の手料理を毎日のように食せる遠山殿が羨ましゅうござる」
「いや、はは……」
虎繁から気さくに声をかけられた景任は、少しぎこちない表情で笑い声をあげながら答え、すぐにつと目を逸らした。
一瞬、場の雰囲気が妙な緊張をはらむ。
……と、
「――手料理といえば」
空気が重くなりかけたのを悟った昌幸が、さりげなく口を挟んだ。
「典厩様の奥方様であらせられる桔梗様がお作りになる手料理も、絶品です。秋山様もご存じでしょう?」
「お、おお、確かに!」
急に昌幸から話を振られた虎繁が、慌てて頷く。
「一度だけ、左馬助様のお屋敷で御相伴に預かった事があったが、その時に頂いた奥方様の料理の味は格別に御座った」
「そうでしょうそうでしょう」
昌幸は、虎繁の言葉に満足げな声を上げると、上座に座る信繁に笑いかけた。
「拙者は、甲斐に帰って桔梗様の手料理を食べるのが、今から楽しみでなりませぬ」
「……儂もだ」
信繁は、昌幸の言葉に頷く。
その脳裏に、甲斐府中の屋敷で彼を待つ桔梗と娘の綾の顔が浮かんだ。
もう二ヶ月以上もの間、彼女たちの顔も見れず、声も聞けていない。
唐突に胸の中に湧き起こった郷愁の念ごと飲み込むように、汁物の椀を一口啜った信繁は、昌幸に向かってニヤリと笑いかけた。
「……というか、昌幸よ。お主、甲斐に帰ったら当然のように儂の屋敷で飯を食うつもりのようだが、それでいいのか?」
「え?」
「お主は、もうひとり身ではないのだぞ。家に娶ったばかりの女房がおるのに、放っておくつもりか?」
「あ……いや、それは……」
信繁の問いかけに、昌幸は慌てて首を左右に振る。
「ほ、放っておくなど……。もちろん、まず帰るのは自分の屋敷で……」
「“まず”という事は、その後で左馬助様の屋敷に赴くつもりか、喜兵衛?」
昌幸の答えに、虎繁は眉を顰めながら問いを重ねた。
そんな虎繁の反応に怪訝な顔をしつつ、昌幸はコクンと頷く。
「え、ええ、まあ……」
「悪い事は言わぬ。帰ったその日……いや、数日は屋敷に留まり、嫁御の側にいてやれ」
虎繁は、真剣な顔をして言った。
「お前、まだ嫁御をもらったばかりであろう? 最初の一年が肝心だぞ。最も夫婦の情が強くなる時期に嫁御をぞんざいに扱ったら、その後いつまでも根に持たれて、事あるごとに掘り返される事になるぞ」
「う……!」
昌幸は、虎繁の話に有無を言わさぬ説得力を感じて、思わず息を吞む。
と、ふとある推測が頭に浮かび、昌幸は虎繁におずおずと尋ねた。
「……随分と具体的なお話ですが、ひょっとして、それは秋山様御自身の経験からの――」
「――言わせるな」
「あ……はい」
自分の問いを途中で遮った虎繁の表情から色々と察した昌幸は、おとなしく引き下がる。
そして、ちらりと他の者たちの顔を盗み見ると、信繁と景任は虎繁と同じような表情を浮かべて気まずげに目を逸らし、
「ふふ……」
――つやだけは、意味深な笑みを湛えていた。
◆ ◆ ◆ ◆
夕餉を摂り終え、景任とつやが部屋を辞した後、信繁らは部屋に残って酒を酌み交わしていた。
もちろん、三人で残ったのは、ただの酒盛りの為だけではない。
信繁が西に向かって進軍した後の東濃地方の情勢の確認と、今後の方針についての擦り合わせをする為である。
本来なら、旧斎藤家家臣として美濃の情勢に詳しい仙谷久勝と竹中半兵衛も同席させたいところではあったが、まだ当主の信玄の目通りも終えていないふたりは、今のところはまだ“敵軍の降将”という立場である。
その為、彼らを武田軍の機密に関わる話し合いに加える事はせず、武田家の臣である信繁・昌幸・虎繁の三人だけで話し合う事にしたのだ。
「……ところで、伯耆」
半刻 (約一時間)ほどで、大体の事を話し終えた信繁は、酒を呷って喉を潤してから、声を潜めて虎繁に言う。
「先ほどは、遠山殿とつや殿が居たから控えたが……訊かせてくれるか」
「はっ……」
信繁の言葉に、虎繁も真顔になって頷いた。
「例の件の事ですな?」
「ああ……」
虎繁の言葉に頷き返した信繁は、香の物が盛られた皿に目を落とし、静かに言葉を継ぐ。
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