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第二部七章 帰陣
出立と見送り
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翌日――。
「皆、ご苦労であった」
この日、主である信玄からの命によって甲斐へ赴く信繁は、旅装を整えて本陣宿所の門前に出ると、彼の後に控えていた将たちの方に振り返り、労りの言葉をかけた。
「わざわざの見送り、すまぬな、美濃」
「いえ」
小袖姿の馬場信春は、信繁の言葉に小さく頭を下げる。
「道中、くれぐれもお気を付け下され。典厩様の身に何かあらば、武田家の一大事に御座りますからな」
「ああ、分かっておる」
信春の言葉に頷いた信繁は、彼を安心させるように微笑んでみせた。
「まあ、案ずるな。信濃との国境までは、右馬助が二百の兵で護衛してくれるし、乱波衆もついておるからな」
「まあ……確かに」
信繁の言葉を聞いた信春は、彼の背後に立っている浅利信種に目を向ける。
「くれぐれも典厩様の事を頼むぞ、右馬助」
「はっ! お任せ下され、馬場様!」
信春の言葉に、信種は背筋をピンと伸ばして応えた。
「我が身命に代えましても、典厩様を無事に国境までお連れいたします! どうぞご安心めされよ!」
「うむ」
頼もしい信種の返事を聞いて満足げに頷いた信春は――一変して、心配そうな目で信繁の背後に控えた男の顔を見やる。
「お主にも頼むと言いたいところだが……そのザマでは些か心許ないのう、源五郎よ」
「な……何の。ご、ご懸念には及びませぬ……」
信春の呆れ声に強がる昌幸だったが――言葉とは裏腹に、その顔色は紙のように白い。
そんな息子の顔を見ながら、真田幸綱が苦笑いを浮かべた。
「まったく、あの程度の酒量で二日酔いとは……情けない奴じゃのう。ワシャ親として恥ずかしいわい」
「ぐっ……あ、あの程度って……」
父親の辛辣な言葉にムッとしたらしい昌幸は、ズキズキと疼く頭の痛みを堪えながら言い返す。
「夜明け前まで延々と飲まされ続けたら、嫌でもこうなりましょうが……」
「そうか? 一緒に飲んどったワシは、この通りピンピンしとるぞ?」
「アンタは拙者に酒を注いでばっかりで、最後の方はロクに飲んでいなかったでしょうがっ!」
涼しい顔で言い放つ幸綱に腹を立て、思わず声を荒げた昌幸だったが、すぐに「あ痛たた……」と悲鳴を上げ、顔を顰めながらこめかみを押さえた。
と、その時、
「……武藤様、お水をどうぞ」
「えっ? あ……!」
涼やかな女の声が耳朶を打つと同時に、竹の水筒を目の前に差し出された昌幸が、驚き混じりの声を上げる。
「こ、これは、奥方殿……」
「二日酔いには、お水を飲むのが一番です。さあ、どうぞ」
たじろぐ昌幸に、竹中半兵衛の妻・月が微笑みかけながら水筒を勧めた。
今日の月は、武田軍の本陣に来た時に着ていた尼僧の法衣ではなく、頭から小袖を被った被衣姿である。
薄く化粧を引いた彼女の顔は、昌幸が思わず目を奪われてしまう程に美しかった。
「こ、これは忝い……。ありがたく頂戴いたします」
思わず心乱れる昌幸だったが、必死で平静を取り繕い、月の手から水筒を受け取ると一気に飲み干す。
そして、空になった竹筒の縁から口を離すと、ぎこちない笑いを彼女に向けた。
「ふう……お陰様で生き返りました。ありがとうございます」
「いえ……お役に立てて何よりにございます」
昌幸の感謝の言葉にはにかみ笑いを浮かべる月の艶やかな表情に、昌幸の胸は更に高鳴る。
……と、
「おいおい、いかんぞ喜兵衛。他人様の奥方に懸想しては」
「なッ……何をおっしゃるのです、保科様っ!」
ニヤニヤ笑いながら保科正俊が言った冷やかしに、昌幸は顔を真っ赤にし、首を千切れんばかりに激しく左右に振った。
「け、懸想など……滅相も無い!」
「そうかぁ? 保科殿の言う通り、ワシから見てもデレッデレであったぞ、お主」
必死に否定する昌幸に半目を向けながら、幸綱は呆れ声を上げる。
「まったく……これは源五郎の父として、府中の嫁殿に報せねばならぬやもしれぬのう……」
「な、ななっ?」
幸綱の言葉を聞いた瞬間、昌幸は覿面に狼狽えた。
「お、おやめ下され親父殿! た、妙に報せるのだけは、後生ですから……!」
「カッカッカッ! 安心せい、タダの冗談じゃ」
さっきとは違う意味で顔面を蒼白にし、必死に懇願する昌幸に内心でたじろぎながら笑い飛ばした幸綱は、次いで信繁の後方に控えていた目元涼やかな風体の男に声をかける。
「我が愚息が、奥方殿に大変な失礼をいたした。何卒お許し下されよ、半兵衛殿」
「いや、ははは……分かっております」
大袈裟に頭を下げる幸綱に、月の夫である竹中半兵衛は思わず吹き出しながら頷いた。
そして、狼狽する昌幸を気遣うように穏やかな声をかける。
「私は別に気にしておりませぬから、武藤殿もそうお気になさらず……」
――そう言いかけた半兵衛だったが、ふと傍らに立つ月に目を遣り、彼女の顔が曇っている事に気付くと、怪訝な表情を浮かべる。
「ん……どうした、月?」
「……いえ」
半兵衛の問いかけに小さく頭を振った月は、ぷいとそっぽを向くと、頭から被っていた小袖の袷を重ねて顔を隠してしまった。
「……?」
「やれやれ……」
月の反応に当惑の表情を浮かべる半兵衛を見ながら、幸綱が呆れ混じりの溜息を吐く。
「美濃きっての切れ者と名高い竹中半兵衛殿も、こと女心に関してはてんで鈍いようじゃのう……」
「皆、ご苦労であった」
この日、主である信玄からの命によって甲斐へ赴く信繁は、旅装を整えて本陣宿所の門前に出ると、彼の後に控えていた将たちの方に振り返り、労りの言葉をかけた。
「わざわざの見送り、すまぬな、美濃」
「いえ」
小袖姿の馬場信春は、信繁の言葉に小さく頭を下げる。
「道中、くれぐれもお気を付け下され。典厩様の身に何かあらば、武田家の一大事に御座りますからな」
「ああ、分かっておる」
信春の言葉に頷いた信繁は、彼を安心させるように微笑んでみせた。
「まあ、案ずるな。信濃との国境までは、右馬助が二百の兵で護衛してくれるし、乱波衆もついておるからな」
「まあ……確かに」
信繁の言葉を聞いた信春は、彼の背後に立っている浅利信種に目を向ける。
「くれぐれも典厩様の事を頼むぞ、右馬助」
「はっ! お任せ下され、馬場様!」
信春の言葉に、信種は背筋をピンと伸ばして応えた。
「我が身命に代えましても、典厩様を無事に国境までお連れいたします! どうぞご安心めされよ!」
「うむ」
頼もしい信種の返事を聞いて満足げに頷いた信春は――一変して、心配そうな目で信繁の背後に控えた男の顔を見やる。
「お主にも頼むと言いたいところだが……そのザマでは些か心許ないのう、源五郎よ」
「な……何の。ご、ご懸念には及びませぬ……」
信春の呆れ声に強がる昌幸だったが――言葉とは裏腹に、その顔色は紙のように白い。
そんな息子の顔を見ながら、真田幸綱が苦笑いを浮かべた。
「まったく、あの程度の酒量で二日酔いとは……情けない奴じゃのう。ワシャ親として恥ずかしいわい」
「ぐっ……あ、あの程度って……」
父親の辛辣な言葉にムッとしたらしい昌幸は、ズキズキと疼く頭の痛みを堪えながら言い返す。
「夜明け前まで延々と飲まされ続けたら、嫌でもこうなりましょうが……」
「そうか? 一緒に飲んどったワシは、この通りピンピンしとるぞ?」
「アンタは拙者に酒を注いでばっかりで、最後の方はロクに飲んでいなかったでしょうがっ!」
涼しい顔で言い放つ幸綱に腹を立て、思わず声を荒げた昌幸だったが、すぐに「あ痛たた……」と悲鳴を上げ、顔を顰めながらこめかみを押さえた。
と、その時、
「……武藤様、お水をどうぞ」
「えっ? あ……!」
涼やかな女の声が耳朶を打つと同時に、竹の水筒を目の前に差し出された昌幸が、驚き混じりの声を上げる。
「こ、これは、奥方殿……」
「二日酔いには、お水を飲むのが一番です。さあ、どうぞ」
たじろぐ昌幸に、竹中半兵衛の妻・月が微笑みかけながら水筒を勧めた。
今日の月は、武田軍の本陣に来た時に着ていた尼僧の法衣ではなく、頭から小袖を被った被衣姿である。
薄く化粧を引いた彼女の顔は、昌幸が思わず目を奪われてしまう程に美しかった。
「こ、これは忝い……。ありがたく頂戴いたします」
思わず心乱れる昌幸だったが、必死で平静を取り繕い、月の手から水筒を受け取ると一気に飲み干す。
そして、空になった竹筒の縁から口を離すと、ぎこちない笑いを彼女に向けた。
「ふう……お陰様で生き返りました。ありがとうございます」
「いえ……お役に立てて何よりにございます」
昌幸の感謝の言葉にはにかみ笑いを浮かべる月の艶やかな表情に、昌幸の胸は更に高鳴る。
……と、
「おいおい、いかんぞ喜兵衛。他人様の奥方に懸想しては」
「なッ……何をおっしゃるのです、保科様っ!」
ニヤニヤ笑いながら保科正俊が言った冷やかしに、昌幸は顔を真っ赤にし、首を千切れんばかりに激しく左右に振った。
「け、懸想など……滅相も無い!」
「そうかぁ? 保科殿の言う通り、ワシから見てもデレッデレであったぞ、お主」
必死に否定する昌幸に半目を向けながら、幸綱は呆れ声を上げる。
「まったく……これは源五郎の父として、府中の嫁殿に報せねばならぬやもしれぬのう……」
「な、ななっ?」
幸綱の言葉を聞いた瞬間、昌幸は覿面に狼狽えた。
「お、おやめ下され親父殿! た、妙に報せるのだけは、後生ですから……!」
「カッカッカッ! 安心せい、タダの冗談じゃ」
さっきとは違う意味で顔面を蒼白にし、必死に懇願する昌幸に内心でたじろぎながら笑い飛ばした幸綱は、次いで信繁の後方に控えていた目元涼やかな風体の男に声をかける。
「我が愚息が、奥方殿に大変な失礼をいたした。何卒お許し下されよ、半兵衛殿」
「いや、ははは……分かっております」
大袈裟に頭を下げる幸綱に、月の夫である竹中半兵衛は思わず吹き出しながら頷いた。
そして、狼狽する昌幸を気遣うように穏やかな声をかける。
「私は別に気にしておりませぬから、武藤殿もそうお気になさらず……」
――そう言いかけた半兵衛だったが、ふと傍らに立つ月に目を遣り、彼女の顔が曇っている事に気付くと、怪訝な表情を浮かべる。
「ん……どうした、月?」
「……いえ」
半兵衛の問いかけに小さく頭を振った月は、ぷいとそっぽを向くと、頭から被っていた小袖の袷を重ねて顔を隠してしまった。
「……?」
「やれやれ……」
月の反応に当惑の表情を浮かべる半兵衛を見ながら、幸綱が呆れ混じりの溜息を吐く。
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