甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部七章 帰陣

山道と祠

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 浅利信種率いる二百の護衛と共に岩村城を発った信繁一行は、二ヶ月前に美濃に入った際に通った伊那街道を遡り、浪合関所 (現在の長野県下伊那郡阿智村浪合)から駒場 (現在の長野県下伊那郡阿智村駒場)を経て飯田城に向かう事にした。
 伊那街道は、天文二十三年 (西暦1554年)に下伊那地方を掌握した信玄が、弘治年間に大規模な整備を行っている。だが、山間を縫うように通る関係で、所々の道は狭く険しくなっている。

「だから、もう護衛はよいぞ、右馬助。兵を返し、烏峰へ戻れ」

 街道を馬で緩々と進みながら、信繁は傍らに従う浅利信種に言った。

「これから、本格的な山道に入る。このまま軍勢を引き連れていては、却って足が遅くなってしまう。だから、ここからは儂らのみで良い。ここまでご苦労だったな」
「ですが……」

 信繁の言葉に、信種は逡巡の表情を浮かべる。

「ここいらは、まだ美濃の内に御座る。何が潜んでいるか分かりませぬゆえ、せめて国境くにざかいを越えるまでは……」
「ははは、随分と心配性だな」

 信種の答えに、信繁は苦笑を漏らした。
 そして、山に囲まれた周囲の情景を見回し、彼を安心させるように頷く。

「まあ、そう案ずるな。熊は冬眠に入っておろうし、猪や狼なら我らだけでも追い払える」
「いや、もちろん、獣の心配もありまするが……」

 信繁の言葉に、信種は真剣な顔でかぶりを振った。

「それ以上に、賊や……他国から放たれた曲者などに待ち伏せでもされていたら……」

 周囲の者の耳に入る事を恐れるように潜めた声で、信種は言葉を継ぐ。

「……遠山勘太郎 (直廉)殿の御内儀の件も御座りますし」
「……」

 信種の言葉を聞いた信繁は、思わず黙り込んだ。
 と、

「――ご心配は御尤もに御座りますが」

 信繁の後ろについて馬を歩ませていた武藤昌幸が口を挟んだ。

「無論、拙者もその懸念はしております。ですから、街道の先に物見の者を放って異状が無いか確かめさせておりますし、街道の周囲は佐助をはじめとした乱破衆が目を光らせております。ですから、典厩様の仰る通り、ご安心して烏峰へお戻り下さい」
「そ、そうか……だが……」

 昌幸の説明に一旦は頷いた信種だが、それでもなお心配顔で逡巡している。
 そんな彼の横顔を見て、信繁は小さく溜息を吐きながら言った。

「……分かった分かった。そうまで儂らの身が心配だというのなら、もう少しだけ護衛してくれ」
「はっ! 畏まり申した!」

 信繁の言葉を聞いた途端、先ほどまでの憂い顔から表情を一変させる信種。
 嬉しそうな様子の彼に、信繁は釘を刺す。

「――だが、さすがに前田砦 (現在の岐阜県恵那市上矢作町本郷字城山)までだ。そこまで儂らを送ったら、四の五の言わずに烏峰へ戻れよ、良いな?」
「はっ」

 信種は、信繁の指示に素直に頷いた。
 だが、そんな素直な返事が逆に信じられない昌幸は、信種になおも懐疑的な目を向けるが――、

「……源五郎」

 不意に足元から上がった声に、慌てて振り向いた。
 見ると、柿渋色の装束を纏った佐助が、無表情で彼の馬の横に立っている。

「わッ!」

 驚いて思わず声を上げた昌幸は、バツ悪げに眉間に皺を寄せた。

「お前、気配を消して声をかけるな! 吃驚びっくりするだろうが!」
「オレは乱破だ。乱破が気配を消すのは当たり前だろうが」

 昌幸の文句にムッとしながらそっけなく答えた佐助だったが、すぐに表情を引き締め、「それより――」と言葉を続ける。

「一応報告だ。この先をもう少し行ったところにある祠の裏に、男がふたりいる」
「ッ!」

 佐助の言葉に、昌幸はハッと息を呑み、表情を緊張させた。

「男だと? 一体、どのような者どもだ?」
「一見すると、ただの百姓に見える」

 昌幸の問いかけにそう答えた佐助だったが、すぐに「……だが」と続ける。

「いかにも薪拾いの帰りに一休みしているといったていだが、ふたりのうち、髭面の方の目の配りがどうも百姓らしくない。腕の肉 (筋肉)の付き具合もな。あれは……田畑や山ではなく、戦場いくさばで飯を食っている者のそれだ」
「……地侍ではないのか?」
「地侍なら、帯刀もせずにあんな百姓じみた恰好をしているのが、逆に不自然だ」
「……帯刀もせずに? それは確かに不自然だな……」
「佐助」

 そこで、ふたりの話を聞いていた信繁が、鋭い声で口を挟んだ。

「その者たちの他には誰もいないのか?」
「いない」

 信繁の問いかけに、佐助は即座に首を横に振る。

「他の乱破衆と共に、件のふたりに気付かれぬようにしながら、秘かに周辺を探ったが……他に曲者が潜んでいる様子は無い」
「そうか……」

 佐助の答えを聞いた信繁は、顎に指を当てた。
 思案する信繁に、昌幸がおずおずと声をかける。

「……如何いたしましょう? 兵たちに追い払わせますか? それとも、いっそ斬り捨てて――」
「いや」

 昌幸の問いかけに、信繁はきっぱりとかぶりを振った。

「曲者かも判然とせぬ内に斬り捨てるのは、さすがに乱暴すぎる」
「では……?」
「右馬助」

 信繁は、昌幸の問いに答える前に信種を呼ぶ。

「直ちに兵をひとり、そのふたりの元まで駆けさせ、儂らが通り過ぎるまで平伏して待つよう伝えさせよ」
「はっ! 承知仕り申した!」

 信種は、信繁の指示に大きく頷いた。
 一方、昌幸は心配げな表情を浮かべて、信繁に言う。

「……それだけで宜しいのですか? 万が一、その者たちが、典厩様の命を狙う刺客だったら……」
「そうと分かった時点で対処すれば良い」

 信繁は、苦笑しながら答えた。

「案ずるな。儂の周りには右馬助とお主に加え、佐助までおるのだ。“後の先”で対応しても問題なかろう」
「しかし……」
「佐助の見立てによれば、そのふたりは刀も持っておらぬという。丸腰の男に何ができようぞ」

 そう、楽観的な口調で言いながら、信繁は昌幸に頷きかけるのだった。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 結局、そのまま歩みを止めずに街道を進んだ信繁たちは、問題の祠の前に差し掛かった。

「あれか……」

 件の者たちと思しき、粗末な野良着を着た二人組が、祠の横で地面に額を付けるようにして平伏している。
 顔は見えぬが、先ほどの佐助の報告通り、大柄の男の方の腕は着物の上からでも分かるくらいに太かった。それも、右腕の方が左腕よりも一回りは太い。
 明らかに、右手で刀を振るう――戦働きを生業とする者の腕だ。

「……」

 それを確認した昌幸と信種は、秘かに左手を腰の刀に伸ばしていつでも抜けるように鯉口を切り、彼らの傍らをかちで歩く佐助も、油断の無い眼差しを平伏する男たちに向ける。
 彼らに周りを固められた信繁は、ゆっくりと馬を進ませ、祠の前を横切った――その時、

「……やあ、お久しゅう御座りまする、武田典厩様!」

 唐突に陽気な響きを帯びた声が上がった。

「「「ッ!」」」

 次の瞬間、顔を強張らせた昌幸と信種が一斉に刀を抜き、佐助も素早く懐から取り出した苦無を構える。

「待て!」

 だが、信繁は片手を挙げて彼らを制した。
 そして、険しい目を平伏している男たちに向けながら、鋭い声をかける。

「……今の声、聞き覚えがある。お主は確か――」
「うふふ、一度しかお会いしておらぬ拙者の事を覚えて頂けていたとは、光栄の極みに御座りまするなぁ」

 どこか人を食ったような剽軽な口調で信繁の問いかけに答えながら、平伏していた二人組の小柄な方がゆっくりと頭を上げた。

「やはり……」

 その、不敵な薄笑みを浮かべた男の猿のような顔を隻眼で睨みながら、信繁は彼の名を口にする。

「――木下藤吉郎秀吉か」
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