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第二部七章 帰陣
訃報と孤独
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その後、信繁たちは三日ほど岩村城に逗留し、その時間を美濃と信濃の国境を越える為の準備に費やした。
美濃と信濃の国境には大小様々な山や峠が聳えており、その山肌を縫うように細い街道が通っている。そろそろ雪も降り始める頃合いであり、国境を越えるには充分な備えと体力を必要としたからだ。
たっぷりと休息と栄養を摂り、気力と体力を満たした信繁たち一行は、岩村城に着いてから四日後の未明に信濃に向けて発つ事にしたのだった。
「こんな朝早くにわざわざ見送りして頂き、忝のう御座る」
旅支度を調えた信繁は、日も昇らぬ明け方に城の大手門まで見送りに出てきた遠山景任夫婦に向けて深々と頭を下げた。
「いえいえ……」
信繁の謝辞に、景任は慌てた様子で頭を振る。
「こちらこそ、せっかくのお越しにきちんとした御持て成しも出来ず、申し訳ございませぬ」
「いや、そんな事は御座らぬ」
恐縮する景任に、信繁は穏やかな笑みを浮かべた。
「遠山殿のご配慮のおかげで、久方ぶりにのんびりと過ごせ申した。心より感謝いたす」
「左様に御座る」
信繁の言葉に大きく頷いたのは、彼と一緒に岩村城を出て苗木城へと戻る秋山虎繫である。
彼は満面に笑みを浮かべながら、景任たちに言った。
「特に、つや殿の作られた手料理がどれも格別で御座った! いやぁ、大和守殿は誠に果報者で御座るな」
「いや、まあ……はは……」
虎繁に妻の手料理を絶賛された事に対し、景任はどこか強張った笑みを浮かべる。
一方のつやは、虎繁の絶賛に少し困った様子で愛想笑いを浮かべ、深々と頭を下げた。
「お気に召して頂けて嬉しゅうございます。――苗木にお帰りになりましたら、勘太郎殿にも宜しくお伝え下さいませ」
「承り申した! しかとお伝え申す」
つやの言葉に、虎繁は大きく頷く。
そんな彼に軽く会釈を返したつやは、今度は信繁の方に顔を向けた。
「武田様……畏れながら、一点だけお願いがございます。お聞き届け頂けますか?」
「ん……?」
改まった口調で切り出したつやの目に真剣な光が宿っているのを見て、信繁も表情を引き締める。
「願いとは……どのような事ですかな?」
「それは……」
信繁の問いかけに、つやは一瞬言い淀み、それから彼の顔を真っ直ぐ見返しながら答えた。
「――龍殿の事です」
「……!」
つやの答えを聞いた信繁は、僅かに隻眼を見開く。
――“龍殿”とは言うまでもなく、苗木城主遠山直廉が人質として甲斐へ送った彼の――そして、先日三国山で横死した琴の娘である龍の事だ。
彼の後ろに控える昌幸たちも、思わず互いの顔を見合わせた。
つやは、そんな周囲の反応も目に入らぬ様子で、信繁に対し必死の表情で訴える。
「どうか……あの娘の事を、くれぐれも宜しくお願いいたします」
「勿論、分かっており申す」
信繁は、つやの懇願に力強く頷いた。
「確かに、龍姫の境遇は苗木遠山家の人質だが、同時に武田の臣の息女でもある。御心配に及ばずとも、当家が龍姫を徒や疎かに遇する事は御座らぬ。それは、某――武田左馬助信繁の名にかけて確と保証いたす」
「……いえ、それだけではなく」
だが、つやは信繁の言葉に小さく頭を振る。
そして、僅かに涙を滲ませた目で彼の顔を見ながら、震える声で言葉を継いだ。
「――今頃は、あの娘の耳にも琴殿の訃報が届いておりましょう。確かに、龍殿にとって琴殿は良い母親とはとても言えませんでしたが、それでも実の母に違いはございませぬ」
「……」
「慣れぬ地でひとり過ごしている龍殿は、実の母の死を知ってさぞや悲しみ……心細い思いをしているに違いありませぬ。あの娘は……まだたったの十二なのです」
そこまで言ったところで感極まった様子で嗚咽を漏らしたつやだったが、小袖の袖で目尻の涙を拭き、再び信繁の顔に真剣な眼差しを向け、「ですから……」と続ける。
「何卒、龍殿の事を良しなにお頼み申し上げます」
「――相分かり申した」
目を涙で潤ませているつやに向け、信繁はもう一度頷いた。
「つや殿の願いは、某が確かに承った。どうかご安心召されよ」
「武田様……」
「――某にも、娘がひとりおりましてな。お転婆ですが、龍姫の良き話し相手になると思います」
そう言った信繁は、ひとりの男の端正な顔を思い浮かべながら、「それに――」と続ける。
「かつて、今の龍姫とよく似た境遇だった者もおる。あの者なら、きっと龍姫の抱いている悲しみを理解し、彼女の心の支えとなる事が出来よう」
「……!」
信繁の後ろに控えていた昌幸は、彼が誰の事を言っているのかを瞬時に悟った。だが、場の空気を読んで、敢えてその名を口にする事は慎んだ。
「……左様でございますか」
一方のつやは、信繁の言葉に安堵の表情を浮かべる。
「ありがとうございます。武田様のお言葉を聞いて、心より安心いたしました」
そう、信繁に感謝の言葉を述べたつやは、信繁たち一行に微笑みかけると、深々と頭を下げた。
「武田様、そして皆様……どうぞ道中お気をつけて行ってらっしゃいませ。ご無事を心よりお祈り申し上げます」
「うむ、忝い」
つやの声に、信繁も微笑みを浮かべ、遠山夫妻の顔を見つめながら穏やかな声をかける。
「――誠に色々と世話になり申した、遠山殿、つや殿。おふたりともお達者でな」
美濃と信濃の国境には大小様々な山や峠が聳えており、その山肌を縫うように細い街道が通っている。そろそろ雪も降り始める頃合いであり、国境を越えるには充分な備えと体力を必要としたからだ。
たっぷりと休息と栄養を摂り、気力と体力を満たした信繁たち一行は、岩村城に着いてから四日後の未明に信濃に向けて発つ事にしたのだった。
「こんな朝早くにわざわざ見送りして頂き、忝のう御座る」
旅支度を調えた信繁は、日も昇らぬ明け方に城の大手門まで見送りに出てきた遠山景任夫婦に向けて深々と頭を下げた。
「いえいえ……」
信繁の謝辞に、景任は慌てた様子で頭を振る。
「こちらこそ、せっかくのお越しにきちんとした御持て成しも出来ず、申し訳ございませぬ」
「いや、そんな事は御座らぬ」
恐縮する景任に、信繁は穏やかな笑みを浮かべた。
「遠山殿のご配慮のおかげで、久方ぶりにのんびりと過ごせ申した。心より感謝いたす」
「左様に御座る」
信繁の言葉に大きく頷いたのは、彼と一緒に岩村城を出て苗木城へと戻る秋山虎繫である。
彼は満面に笑みを浮かべながら、景任たちに言った。
「特に、つや殿の作られた手料理がどれも格別で御座った! いやぁ、大和守殿は誠に果報者で御座るな」
「いや、まあ……はは……」
虎繁に妻の手料理を絶賛された事に対し、景任はどこか強張った笑みを浮かべる。
一方のつやは、虎繁の絶賛に少し困った様子で愛想笑いを浮かべ、深々と頭を下げた。
「お気に召して頂けて嬉しゅうございます。――苗木にお帰りになりましたら、勘太郎殿にも宜しくお伝え下さいませ」
「承り申した! しかとお伝え申す」
つやの言葉に、虎繁は大きく頷く。
そんな彼に軽く会釈を返したつやは、今度は信繁の方に顔を向けた。
「武田様……畏れながら、一点だけお願いがございます。お聞き届け頂けますか?」
「ん……?」
改まった口調で切り出したつやの目に真剣な光が宿っているのを見て、信繁も表情を引き締める。
「願いとは……どのような事ですかな?」
「それは……」
信繁の問いかけに、つやは一瞬言い淀み、それから彼の顔を真っ直ぐ見返しながら答えた。
「――龍殿の事です」
「……!」
つやの答えを聞いた信繁は、僅かに隻眼を見開く。
――“龍殿”とは言うまでもなく、苗木城主遠山直廉が人質として甲斐へ送った彼の――そして、先日三国山で横死した琴の娘である龍の事だ。
彼の後ろに控える昌幸たちも、思わず互いの顔を見合わせた。
つやは、そんな周囲の反応も目に入らぬ様子で、信繁に対し必死の表情で訴える。
「どうか……あの娘の事を、くれぐれも宜しくお願いいたします」
「勿論、分かっており申す」
信繁は、つやの懇願に力強く頷いた。
「確かに、龍姫の境遇は苗木遠山家の人質だが、同時に武田の臣の息女でもある。御心配に及ばずとも、当家が龍姫を徒や疎かに遇する事は御座らぬ。それは、某――武田左馬助信繁の名にかけて確と保証いたす」
「……いえ、それだけではなく」
だが、つやは信繁の言葉に小さく頭を振る。
そして、僅かに涙を滲ませた目で彼の顔を見ながら、震える声で言葉を継いだ。
「――今頃は、あの娘の耳にも琴殿の訃報が届いておりましょう。確かに、龍殿にとって琴殿は良い母親とはとても言えませんでしたが、それでも実の母に違いはございませぬ」
「……」
「慣れぬ地でひとり過ごしている龍殿は、実の母の死を知ってさぞや悲しみ……心細い思いをしているに違いありませぬ。あの娘は……まだたったの十二なのです」
そこまで言ったところで感極まった様子で嗚咽を漏らしたつやだったが、小袖の袖で目尻の涙を拭き、再び信繁の顔に真剣な眼差しを向け、「ですから……」と続ける。
「何卒、龍殿の事を良しなにお頼み申し上げます」
「――相分かり申した」
目を涙で潤ませているつやに向け、信繁はもう一度頷いた。
「つや殿の願いは、某が確かに承った。どうかご安心召されよ」
「武田様……」
「――某にも、娘がひとりおりましてな。お転婆ですが、龍姫の良き話し相手になると思います」
そう言った信繁は、ひとりの男の端正な顔を思い浮かべながら、「それに――」と続ける。
「かつて、今の龍姫とよく似た境遇だった者もおる。あの者なら、きっと龍姫の抱いている悲しみを理解し、彼女の心の支えとなる事が出来よう」
「……!」
信繁の後ろに控えていた昌幸は、彼が誰の事を言っているのかを瞬時に悟った。だが、場の空気を読んで、敢えてその名を口にする事は慎んだ。
「……左様でございますか」
一方のつやは、信繁の言葉に安堵の表情を浮かべる。
「ありがとうございます。武田様のお言葉を聞いて、心より安心いたしました」
そう、信繁に感謝の言葉を述べたつやは、信繁たち一行に微笑みかけると、深々と頭を下げた。
「武田様、そして皆様……どうぞ道中お気をつけて行ってらっしゃいませ。ご無事を心よりお祈り申し上げます」
「うむ、忝い」
つやの声に、信繁も微笑みを浮かべ、遠山夫妻の顔を見つめながら穏やかな声をかける。
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