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第二部七章 帰陣
遭遇と目的
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「あっ……!」
平伏していた百姓風の身なりをした男の顔を見た浅利信種は、思わず上ずった声を漏らした。
「お主は……一年前、躑躅ヶ崎館に参った織田家の使者――!」
「おお! お久しゅう御座りまするなぁ、浅利右馬助様!」
驚きの表情を浮かべる信種を見上げながら、男――木下藤吉郎秀吉は人懐こい笑みを浮かべる。
「あの時、そこの武田典厩様に門前払いされた某と林様の身を、わざわざ国境まで丁重にお送り頂いたのは貴殿でしたなぁ! いやはや、その節は大変お世話になり申した!」
「……」
信種は、藤吉郎の嫌味混じりの謝辞に苦い顔をした。
そして、傍らの信繁に顔を寄せ、その耳元に囁く。
「……典厩様、あの男にはくれぐれもご注意下され。あのように、いつも調子の良い事ばかり申してヘラヘラ笑っておりますが、肚の中では何を考えているか分からぬ……掴みどころのない不気味な男です」
「ああ……」
信種の囁きに、信繁は小さく頷いた。
「……知っておる」
彼の脳裏に、ちょうど一年前の躑躅ヶ崎館での短い会談の記憶が過ぎる。
当主の信玄が結核の発作を起こして倒れた際に、織田家が見舞いの使者として送り込んだ家臣のひとりが、目の前で猿面を綻ばせている男――木下藤吉郎秀吉だった。
言葉を交わしたのは、その一度だけ――それも、ごくごく短い間だけだったものの、その僅かな邂逅だけで、この男の持つ何ともいえない異様さは感じ取れた。
そして――その時抱いた印象は、再び相まみえた今となっても、全く変わらない。
「この男が、木下藤吉郎……」
馬上で刀を構えた昌幸が、一見無害そうに笑みを浮かべている藤吉郎の顔を見下ろしながら呟いた。
彼は藤吉郎とは面識がなく、会談を終えた信繁から軽く為人を聞いた程度だったが、その話の端々から感じた得体の知れなさは、強く印象に残っている。
だが……正直、今目の前にいる木下藤吉郎秀吉からは、その時の話から感じたような異様さは感じられず、昌幸は少し戸惑っていた。
だが、
(とはいえ……この者は、織田家中で一介の草履取りから足軽組頭まで成り上がってきた男だ。典厩様が感じ取ったように、信長ほどの男に見出された何かを持っているはずだ……)
すぐにそう思い直すと、地べたに座ったまま下卑た笑いを浮かべている男の事を鋭い目で見据える。
と、信繁が険しい目を向けたまま、口を開いた。
「……これは、妙なところでお会いいたしたな、木下殿。こんな美濃の片隅に、いったい何の御用か?」
「ふふふ……そう怖い顔をなさいますな、武田様」
信繁の隻眼に睨み据えられた藤吉郎は、わざとらしく身震いするフリをしながら、口元を不敵に歪める。
そして、おもむろに北の方向を指さしながら答えた。
「別に大した用では御座いませぬ。ただ……ちょいと恵那神社 (現在の岐阜県中津川市中津川)まで詣でに行こうと思いましてな」
「……恵那神社に?」
藤吉郎の答えを聞いた信繁は、思わず首を傾げる。
「何故、尾張からわざわざ恵那神社へ?」
「実はですな……」
思わず訊き返した信繁に、藤吉郎は自分の顔を指さした。
「こんな猿面ですが、某には妻がおりましてな」
「……?」
「ねねと言いまして、気立ても器量も良い、某なんぞにはもったいないくらいの女なのですが……一緒になって四年も経つというのに、一向に子が出来ぬのです」
そう言って、きまりが悪そうに頭を掻いた藤吉郎は、怪訝な表情を浮かべている信繁に苦笑しながら、更に言葉を継ぐ。
「まあ……某は、子が出来ずとも焦っておらぬのですが、ねねの方はそうではないようでして。『ひょっとしたら、自分は石女なのではないか?』と日々思い悩んでおるのですわ」
「それでか……」
藤吉郎の話を聞いていた昌幸が、ハッとした。
「恵那神社は、伊邪那美大神が天照大神を生んだ際の胞衣 (臍の緒)を納めた地である恵那山を御神体とした神社……。その由来にあやかって、子宝を授かるように祈願を……」
「そう、それに御座るよ!」
昌幸の呟きを耳聡く聞きつけた藤吉郎が、得たりとばかりに膝を叩く。
「ご明察の通り、子宝の御利益があるという恵那神社へ参拝し、土産に神札でも持って帰れば、ねねの気も晴れるだろうと思いましてな。この又十郎殿に供を頼んで、恵那山目指して旅をしていた次第に御座ります!」
そう言って、彼は傍らで平伏していた大柄の男の肩をバンと叩いた。
「……と、ご紹介が遅れましたな。この者は、蜂須賀又十郎殿と申します。織田家中の蜂須賀小六殿の弟御で御座ってな。以前、某が小六殿の下で仕えておった縁で連れ立つ事が多う御座る。某共々、以後お見知りおきを」
「……」
藤吉郎の紹介に、大柄の男――蜂須賀又十郎は憮然としながら顔を上げる。
そんな彼の顔を一瞥した信繁は、再び藤吉郎の方に疑いの視線を向けた。
「妻の懐妊を願う為の参拝……か」
「はい。そういう事に御座りまする」
信繁の呟きに、藤吉郎は屈託のない笑みを浮かべながら、得たりとばかりに大きく頷く。
だが、そんな彼の笑顔にますます表情を険しくさせた。
「……正直、お主の申す事をそのまま素直に信じる気にはなれぬな」
そう呟いた信繁は、鋭い光を湛えた隻眼で藤吉郎の顔を見据えながら詰問する。
「――木下藤吉郎……もう一度訊く。お主が東美濃に居る目的は何だ? ……いや、何だったのだ?」
平伏していた百姓風の身なりをした男の顔を見た浅利信種は、思わず上ずった声を漏らした。
「お主は……一年前、躑躅ヶ崎館に参った織田家の使者――!」
「おお! お久しゅう御座りまするなぁ、浅利右馬助様!」
驚きの表情を浮かべる信種を見上げながら、男――木下藤吉郎秀吉は人懐こい笑みを浮かべる。
「あの時、そこの武田典厩様に門前払いされた某と林様の身を、わざわざ国境まで丁重にお送り頂いたのは貴殿でしたなぁ! いやはや、その節は大変お世話になり申した!」
「……」
信種は、藤吉郎の嫌味混じりの謝辞に苦い顔をした。
そして、傍らの信繁に顔を寄せ、その耳元に囁く。
「……典厩様、あの男にはくれぐれもご注意下され。あのように、いつも調子の良い事ばかり申してヘラヘラ笑っておりますが、肚の中では何を考えているか分からぬ……掴みどころのない不気味な男です」
「ああ……」
信種の囁きに、信繁は小さく頷いた。
「……知っておる」
彼の脳裏に、ちょうど一年前の躑躅ヶ崎館での短い会談の記憶が過ぎる。
当主の信玄が結核の発作を起こして倒れた際に、織田家が見舞いの使者として送り込んだ家臣のひとりが、目の前で猿面を綻ばせている男――木下藤吉郎秀吉だった。
言葉を交わしたのは、その一度だけ――それも、ごくごく短い間だけだったものの、その僅かな邂逅だけで、この男の持つ何ともいえない異様さは感じ取れた。
そして――その時抱いた印象は、再び相まみえた今となっても、全く変わらない。
「この男が、木下藤吉郎……」
馬上で刀を構えた昌幸が、一見無害そうに笑みを浮かべている藤吉郎の顔を見下ろしながら呟いた。
彼は藤吉郎とは面識がなく、会談を終えた信繁から軽く為人を聞いた程度だったが、その話の端々から感じた得体の知れなさは、強く印象に残っている。
だが……正直、今目の前にいる木下藤吉郎秀吉からは、その時の話から感じたような異様さは感じられず、昌幸は少し戸惑っていた。
だが、
(とはいえ……この者は、織田家中で一介の草履取りから足軽組頭まで成り上がってきた男だ。典厩様が感じ取ったように、信長ほどの男に見出された何かを持っているはずだ……)
すぐにそう思い直すと、地べたに座ったまま下卑た笑いを浮かべている男の事を鋭い目で見据える。
と、信繁が険しい目を向けたまま、口を開いた。
「……これは、妙なところでお会いいたしたな、木下殿。こんな美濃の片隅に、いったい何の御用か?」
「ふふふ……そう怖い顔をなさいますな、武田様」
信繁の隻眼に睨み据えられた藤吉郎は、わざとらしく身震いするフリをしながら、口元を不敵に歪める。
そして、おもむろに北の方向を指さしながら答えた。
「別に大した用では御座いませぬ。ただ……ちょいと恵那神社 (現在の岐阜県中津川市中津川)まで詣でに行こうと思いましてな」
「……恵那神社に?」
藤吉郎の答えを聞いた信繁は、思わず首を傾げる。
「何故、尾張からわざわざ恵那神社へ?」
「実はですな……」
思わず訊き返した信繁に、藤吉郎は自分の顔を指さした。
「こんな猿面ですが、某には妻がおりましてな」
「……?」
「ねねと言いまして、気立ても器量も良い、某なんぞにはもったいないくらいの女なのですが……一緒になって四年も経つというのに、一向に子が出来ぬのです」
そう言って、きまりが悪そうに頭を掻いた藤吉郎は、怪訝な表情を浮かべている信繁に苦笑しながら、更に言葉を継ぐ。
「まあ……某は、子が出来ずとも焦っておらぬのですが、ねねの方はそうではないようでして。『ひょっとしたら、自分は石女なのではないか?』と日々思い悩んでおるのですわ」
「それでか……」
藤吉郎の話を聞いていた昌幸が、ハッとした。
「恵那神社は、伊邪那美大神が天照大神を生んだ際の胞衣 (臍の緒)を納めた地である恵那山を御神体とした神社……。その由来にあやかって、子宝を授かるように祈願を……」
「そう、それに御座るよ!」
昌幸の呟きを耳聡く聞きつけた藤吉郎が、得たりとばかりに膝を叩く。
「ご明察の通り、子宝の御利益があるという恵那神社へ参拝し、土産に神札でも持って帰れば、ねねの気も晴れるだろうと思いましてな。この又十郎殿に供を頼んで、恵那山目指して旅をしていた次第に御座ります!」
そう言って、彼は傍らで平伏していた大柄の男の肩をバンと叩いた。
「……と、ご紹介が遅れましたな。この者は、蜂須賀又十郎殿と申します。織田家中の蜂須賀小六殿の弟御で御座ってな。以前、某が小六殿の下で仕えておった縁で連れ立つ事が多う御座る。某共々、以後お見知りおきを」
「……」
藤吉郎の紹介に、大柄の男――蜂須賀又十郎は憮然としながら顔を上げる。
そんな彼の顔を一瞥した信繁は、再び藤吉郎の方に疑いの視線を向けた。
「妻の懐妊を願う為の参拝……か」
「はい。そういう事に御座りまする」
信繁の呟きに、藤吉郎は屈託のない笑みを浮かべながら、得たりとばかりに大きく頷く。
だが、そんな彼の笑顔にますます表情を険しくさせた。
「……正直、お主の申す事をそのまま素直に信じる気にはなれぬな」
そう呟いた信繁は、鋭い光を湛えた隻眼で藤吉郎の顔を見据えながら詰問する。
「――木下藤吉郎……もう一度訊く。お主が東美濃に居る目的は何だ? ……いや、何だったのだ?」
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