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第二部七章 帰陣
密書と在処
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それから数日後――。
信繁らとの邂逅の後、飯田街道を西へと進んでいた木下藤吉郎は、ふと立ち止まり、鬱蒼と木々が茂る山中で周囲を見回した。
「……どうやら、我らは無事に尾張に入ったように御座るな」
暫しの間、視覚と聴覚で慎重に周囲の気配を探っていた彼は、そう呟くと表情を緩める。
「……なぜ分かるのだ?」
彼の隣を歩いていた蜂須賀又十郎が、自分たちが歩いてきた細い山道と、木と草しか見えない周囲の光景を見回しながら、半信半疑といった顔で尋ねた。
「行けども行けども代わり映えのせぬ風景で、国境を示すものなど見なかったぞ? なのに、何故尾張に入ったと……?」
「うふふ、簡単な事ですよ」
又十郎の問いかけに、藤吉郎は得意げな笑みを浮かべながら、今まで自分たちが歩いてきた街道の先を指さす。
「今までずっと我らの後を尾けてきていた者……おそらく、武田方の忍びでしょう、そいつらの気配が消えました。おそらく、我らが尾張に入ったから、監視を打ち切ったのでしょう」
「な、なにっ?」
藤吉郎の言葉を聞いた又十郎は、ギョッとした顔をして、慌てて辺りを見回した。
「あ、後を尾けられていただと? そ、そのような事、オレは全く気付かなかったぞッ?」
「まあ、又十郎殿には分からないでしょうねぇ」
又十郎の狼狽える様子を見てクックッと嘲笑いながら、藤吉郎は言う。
「尾けてきていたのは、あの名高い武田の乱破衆でしょうから、素人ごときに気配を気取られるようなヘマはせんでしょう」
「……そう言うお前も、忍びの事に関しては素人ではないのか?」
いやらしい藤吉郎の笑顔にムッとしながら、又十郎は言い返した。
それに対し、藤吉郎は自慢げに胸を張ってみせる。
「実は、諸国を流れていた時に、少しばかり忍びの業を齧った事がありましてな。まあ……本物の忍びにはとても敵いませぬが、又十郎殿のようなド素人に比べれば……ね」
「……」
“ド素人”と揶揄された又十郎は、あからさまに顔を顰めた。
だが、藤吉郎はそんな彼の機嫌など意を介さぬ様子で、「よっこらしょ」と言いながら、傍らの岩の上に腰を下ろす。
「まあ、何とか無事に尾張まで戻ってこれた事ですし、ここらで一休みする事にしましょう」
彼はそう言いながら懐から竹筒を取り出すと、栓を開けて一口飲んだ。
そして、にこやかな笑みを浮かべながら、竹筒を又十郎に向けて差し出す。
「又十郎殿も如何です?」
「……要らん」
藤吉郎に勧められた竹筒を一瞥した又十郎は、素っ気なく答えると、道の向かいにあった切り株の上に腰を下ろし、藤吉郎の顔に鋭い目を向けた。
そして、まるで咎めるように低い声で問いかける。
「……どこに隠しておる?」
「は?」
又十郎の問いに、藤吉郎はわざとらしく首を傾げた。
「隠している? 何をですか?」
「とぼけるなッ!」
訊き返す藤吉郎に、又十郎は怒気を露わにする。
「決まっておろうが! 殿からお預かりした書状だ!」
「おや、お忘れになられたのですか? あの書状なら、つい数日前に武田左馬助に取り上げられたではあり――」
「目くらましの方ではないわ!」
藤吉郎の答えに、又十郎は更に苛立ちを募らせた様子で声を荒げた。
「オレが言っておるのは、もう一通……密書の方だ!」
「……ああ、あれですか」
又十郎の剣幕にも怖じた様子を露ほども見せず、藤吉郎はしれっと答える。
「あの密書は、初めから持っておりませぬ」
「は……はあっ?」
藤吉郎の返答を聞いた又十郎は、思わず耳を疑った。
「お……オレの聞き間違いか? 初めから持っていなかった……だと?」
「まあ、『初めから』というのは語弊がありますな」
唖然とした顔で訊き返す又十郎を笑いながら、藤吉郎は言葉を継ぐ。
「もちろん、小牧山を出る頃はちゃんと持っておりましたよ。……その日の夜には、二通とも細かく千切って川に流しましたが」
「な……何ぃッ?」
又十郎は、藤吉郎の答えを聞いて仰天した。
「ち、千切って川に流しただとっ?」
「はい。流しましたが、それが何か?」
「そ……『それが何か?』ではないわッ!」
しれっとした顔で頷く藤吉郎を血走った目で睨みながら、又十郎は震える声で叫ぶ。
「と、殿から預かりし密書を……き、貴様、気でも狂うたかッ!」
「いいえ? 某は至って正気ですが?」
「痴れ事を申すなッ!」
激昂した又十郎の怒声に驚き、周囲の木々から鳥たちが一斉に飛び立った。
驚いた鳥たちの立てる鳴き声と羽音が喧しく響き渡る中、又十郎は唇を震わせながら藤吉郎を問い質す。
「……何故だ? 何故、殿からお預かりした密書を捨てた? オレたちは、苗木城の遠山直廉と岩村城のつや様にあの密書を手渡せという殿の命を果たすべく、旅をしていたのではなかったのか? なのに、その密書をさっさと捨ててしまうなど……まるで意味が分からん!」
「ははは。別に、又十郎殿に理解して頂かなくても構いませぬよ」
眉間に深い皺を寄せながら頭を抱える又十郎に、藤吉郎は冷めた笑い声を上げ、それから少し潜めた声で囁いた。
「……ただ、殿に此度の首尾を報告する際に、うまく口裏を合わせてくれさえすれば、ね」
「……口裏を合わせる……だと?」
藤吉郎の言葉を聞いた又十郎は、更にその表情を険しくさせた。
「藤吉郎……オレに貴様の斯様な不忠の行いを見逃すだけではなく、殿に偽りを申せと言うのか?」
「ふふ……今更何を仰いますやら」
低い声での又十郎の問いかけに、藤吉郎は皮肉げな笑いを浮かべて言葉を継ぐ。
「殿を偽る事など、既にしておりましょう。――琴様の死をお伝えした際に」
「ぐッ……!」
「一度も二度も、大して変わりますまい。そう深刻に考えますな」
そう言った藤吉郎は、つと表情を消し、ゾッとするほど冷たい光を湛えた目で又十郎を見据えながら、「それとも――」と続けた。
「正直に事の顛末を殿に申し上げて、某と仲良く首を河原に晒しますか?」
「……っ」
藤吉郎の言葉に思わず言葉を詰まらせた又十郎は、少しの間葛藤するかのように目を泳がせ――歯噛みしながら小さく頷く。
「……分かった。貴様に従おう……」
かすれた声でそう答えた又十郎だったが、藤吉郎の顔を鋭い目で見据えながら、「……だが」と続けた。
「オレに口裏を合わせろと言うならば、隠さず聞かせろ。お前が殿の密書を捨てた真意を……な」
信繁らとの邂逅の後、飯田街道を西へと進んでいた木下藤吉郎は、ふと立ち止まり、鬱蒼と木々が茂る山中で周囲を見回した。
「……どうやら、我らは無事に尾張に入ったように御座るな」
暫しの間、視覚と聴覚で慎重に周囲の気配を探っていた彼は、そう呟くと表情を緩める。
「……なぜ分かるのだ?」
彼の隣を歩いていた蜂須賀又十郎が、自分たちが歩いてきた細い山道と、木と草しか見えない周囲の光景を見回しながら、半信半疑といった顔で尋ねた。
「行けども行けども代わり映えのせぬ風景で、国境を示すものなど見なかったぞ? なのに、何故尾張に入ったと……?」
「うふふ、簡単な事ですよ」
又十郎の問いかけに、藤吉郎は得意げな笑みを浮かべながら、今まで自分たちが歩いてきた街道の先を指さす。
「今までずっと我らの後を尾けてきていた者……おそらく、武田方の忍びでしょう、そいつらの気配が消えました。おそらく、我らが尾張に入ったから、監視を打ち切ったのでしょう」
「な、なにっ?」
藤吉郎の言葉を聞いた又十郎は、ギョッとした顔をして、慌てて辺りを見回した。
「あ、後を尾けられていただと? そ、そのような事、オレは全く気付かなかったぞッ?」
「まあ、又十郎殿には分からないでしょうねぇ」
又十郎の狼狽える様子を見てクックッと嘲笑いながら、藤吉郎は言う。
「尾けてきていたのは、あの名高い武田の乱破衆でしょうから、素人ごときに気配を気取られるようなヘマはせんでしょう」
「……そう言うお前も、忍びの事に関しては素人ではないのか?」
いやらしい藤吉郎の笑顔にムッとしながら、又十郎は言い返した。
それに対し、藤吉郎は自慢げに胸を張ってみせる。
「実は、諸国を流れていた時に、少しばかり忍びの業を齧った事がありましてな。まあ……本物の忍びにはとても敵いませぬが、又十郎殿のようなド素人に比べれば……ね」
「……」
“ド素人”と揶揄された又十郎は、あからさまに顔を顰めた。
だが、藤吉郎はそんな彼の機嫌など意を介さぬ様子で、「よっこらしょ」と言いながら、傍らの岩の上に腰を下ろす。
「まあ、何とか無事に尾張まで戻ってこれた事ですし、ここらで一休みする事にしましょう」
彼はそう言いながら懐から竹筒を取り出すと、栓を開けて一口飲んだ。
そして、にこやかな笑みを浮かべながら、竹筒を又十郎に向けて差し出す。
「又十郎殿も如何です?」
「……要らん」
藤吉郎に勧められた竹筒を一瞥した又十郎は、素っ気なく答えると、道の向かいにあった切り株の上に腰を下ろし、藤吉郎の顔に鋭い目を向けた。
そして、まるで咎めるように低い声で問いかける。
「……どこに隠しておる?」
「は?」
又十郎の問いに、藤吉郎はわざとらしく首を傾げた。
「隠している? 何をですか?」
「とぼけるなッ!」
訊き返す藤吉郎に、又十郎は怒気を露わにする。
「決まっておろうが! 殿からお預かりした書状だ!」
「おや、お忘れになられたのですか? あの書状なら、つい数日前に武田左馬助に取り上げられたではあり――」
「目くらましの方ではないわ!」
藤吉郎の答えに、又十郎は更に苛立ちを募らせた様子で声を荒げた。
「オレが言っておるのは、もう一通……密書の方だ!」
「……ああ、あれですか」
又十郎の剣幕にも怖じた様子を露ほども見せず、藤吉郎はしれっと答える。
「あの密書は、初めから持っておりませぬ」
「は……はあっ?」
藤吉郎の返答を聞いた又十郎は、思わず耳を疑った。
「お……オレの聞き間違いか? 初めから持っていなかった……だと?」
「まあ、『初めから』というのは語弊がありますな」
唖然とした顔で訊き返す又十郎を笑いながら、藤吉郎は言葉を継ぐ。
「もちろん、小牧山を出る頃はちゃんと持っておりましたよ。……その日の夜には、二通とも細かく千切って川に流しましたが」
「な……何ぃッ?」
又十郎は、藤吉郎の答えを聞いて仰天した。
「ち、千切って川に流しただとっ?」
「はい。流しましたが、それが何か?」
「そ……『それが何か?』ではないわッ!」
しれっとした顔で頷く藤吉郎を血走った目で睨みながら、又十郎は震える声で叫ぶ。
「と、殿から預かりし密書を……き、貴様、気でも狂うたかッ!」
「いいえ? 某は至って正気ですが?」
「痴れ事を申すなッ!」
激昂した又十郎の怒声に驚き、周囲の木々から鳥たちが一斉に飛び立った。
驚いた鳥たちの立てる鳴き声と羽音が喧しく響き渡る中、又十郎は唇を震わせながら藤吉郎を問い質す。
「……何故だ? 何故、殿からお預かりした密書を捨てた? オレたちは、苗木城の遠山直廉と岩村城のつや様にあの密書を手渡せという殿の命を果たすべく、旅をしていたのではなかったのか? なのに、その密書をさっさと捨ててしまうなど……まるで意味が分からん!」
「ははは。別に、又十郎殿に理解して頂かなくても構いませぬよ」
眉間に深い皺を寄せながら頭を抱える又十郎に、藤吉郎は冷めた笑い声を上げ、それから少し潜めた声で囁いた。
「……ただ、殿に此度の首尾を報告する際に、うまく口裏を合わせてくれさえすれば、ね」
「……口裏を合わせる……だと?」
藤吉郎の言葉を聞いた又十郎は、更にその表情を険しくさせた。
「藤吉郎……オレに貴様の斯様な不忠の行いを見逃すだけではなく、殿に偽りを申せと言うのか?」
「ふふ……今更何を仰いますやら」
低い声での又十郎の問いかけに、藤吉郎は皮肉げな笑いを浮かべて言葉を継ぐ。
「殿を偽る事など、既にしておりましょう。――琴様の死をお伝えした際に」
「ぐッ……!」
「一度も二度も、大して変わりますまい。そう深刻に考えますな」
そう言った藤吉郎は、つと表情を消し、ゾッとするほど冷たい光を湛えた目で又十郎を見据えながら、「それとも――」と続けた。
「正直に事の顛末を殿に申し上げて、某と仲良く首を河原に晒しますか?」
「……っ」
藤吉郎の言葉に思わず言葉を詰まらせた又十郎は、少しの間葛藤するかのように目を泳がせ――歯噛みしながら小さく頷く。
「……分かった。貴様に従おう……」
かすれた声でそう答えた又十郎だったが、藤吉郎の顔を鋭い目で見据えながら、「……だが」と続けた。
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