甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部八章 使者

父子と関係

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 約三ヶ月ぶりに見た信玄は、思ったよりも元気そうだった。
 労咳を患っているせいで、顔色は相変わらず青白かったものの、肉付きは大分良くなったようだ。
 何より、その顔に浮かべる表情は、一年数ヶ月前――労咳の発作で倒れたあたりの頃よりも、ずっと穏やかなものになっている。
 病の療養の為、自身がまつりごとに係わる機会を減らして、嫡男の義信や副将の信繁に任せるようになって、以前よりも重圧や緊張をひとりで抱え込まずに済むようになった事もあるのだろうが、何より、長男である義信との仲が改善された事が大きいのだろう。
 ――それは、信玄の傍らに座る義信も同様のようで、彼の顔からは、以前は見られた焦燥や憂いの色が拭い去ったように消えていた。
 自分が側に居なかった三ヶ月の間に、再びふたりの仲が悪化してはいないかと秘かに心配していた信繁だったが、上座に並んでいるふたりの顔に浮かぶ表情から、それが杞憂であった事を悟って、口元を綻ばせる。

「拙者こそ、お屋形様が随分とお元気の御様子で、深く安堵いたしました」
「うむ」

 信繁の言葉に、信玄は鷹揚に頷いた。

「まだ時折、咳が止まらなくなる事があるが、それ以外は頗る好調じゃ。体のだるさも大分和らいだ」
「ほう……それは良い兆しですな」
「お主もそう思うか」

 信玄は、満足そうな表情で頷きながら、おもむろに顎髭を撫でる。

「以前より飯も美味く感じるようになって、ついつい食べ過ぎてしまうほどでな。そのせいで、出陣中では痩せるどころか、鎧の腹回りがきつくなって弱ったわ」
「それは良う御座いました」

 おどけた様子で腹を擦る信玄が口にした冗談交じりの言葉に、信繁は微笑みを浮かべた。
 と、

「だからといって、油断は禁物ですぞ、お屋形様」

 義信が、父にやんわりと釘を刺す。

「先日の診察でも法印に注意されておりましたでしょう。体の調子が良いからといって、あまりご無理をされては、また元に戻ってしまいますからな」
「分かっておる」

 息子に窘められた信玄は、渋い顔をしながら頷いた。

「そもそも、最近は無理などしておらぬであろう。……もっとも、無理をしたくとも、お前がさせてくれぬのだがな」
「当然です」

 信玄の恨めしげな視線を受けながら、義信は厳しい顔で言う。

「今は落ち着いているといっても、お屋形様は御病気なのですから。武田家の臣として……いえ、息子として、父上の御身体を気遣うのは当然でしょう」

 そう言うと、彼はフッと表情を緩め、父の顔を見返した。

「ご安心下され。どうしてもお屋形様のお力が必要な時が来たら、遠慮なく縋りますゆえ。その時に備えて、今はごゆるりとしていて下さい」
「儂の力が必要な時……か」

 信玄は、義信の言葉に満更でもない顔をするが、すぐにその表情は苦笑に変わる。

「……果たして、そのような時は来るのかのう? もう、お前だけでも十分に事足りそうではないか。少なくとも、此度の戦では儂の出る幕など殆ど無かったぞ」
「え……?」

 義信は、信玄の言葉に驚いた様子で目を丸くした。

「あ、い、いえ、そんな事は……」

 厳しい父から手放しの絶賛に近い言葉をかけられるとは思いもかけなかった様子で、逆にオロオロと動揺しながら、頻りにかぶりを振る義信。
 ――と、

「――お屋形様に若殿」

 それまで兄と甥のやり取りを黙って聞いていた信廉が、ニヤニヤ笑いながら口を挟んだ。

「父子で楽しくご歓談なさっているところで申し訳ございませんが、このふたりがお屋形様のお言葉をずっと待っておりますので、そろそろ……」
「お、おお、そうであったな」

 信廉の言葉と目配りで、気を取り直すようにゴホンとひとつ咳払いをした信玄は、下座に控えている竹中半兵衛と仙石久勝に目を向け、声をかける。

「ふたりとも、待たせてすまぬな。決して其方そなたらの事を無視していた訳ではないのだが……」
「いえ……」
「どうぞ、お気になさらず」

 信玄の侘び言に、半兵衛と久勝は小さくかぶりを振った。
 ふたりとも表情にこそ出さないが、甲斐と信濃に加えて、今や美濃半国をも掌中に収めた大領主の信玄が、降将である自分たちに対して謝罪の言葉を述べた事に内心驚いていた。
 かつてのふたりの主であった斎藤龍興では考えられない事である。
 ふたりは驚くと同時に、武田家へ降った自分の判断が間違っていなかった事をしみじみと実感した。
 信玄は、ふたりがそんな事を内心で考えているとは露知らぬ様子で、穏やかな声で尋ねる。

「竹中半兵衛に……仙石新八郎であるな」
「はい」
「はっ!」

 名を問われたふたりは、返事をしながら深々と首を垂れる。
 彼らの返事を聞いた信玄は、満足げに頷きながら言葉を継いだ。

「お主らの事は、典厩からの書状で存じておる。それによると、其方そなたらは当家に加わりたいと申しておるとの事だが、それに相違ないかな?」

 信玄の問いかけに対し、久勝と半兵衛は無言で頷く。
 それを見た信玄は、フッと相好を崩した。

「そうか。――もちろん、我が武田家に、典厩が太鼓判を押して連れてきた其方そなたらの事を拒む理由など無い。喜んで歓迎しよう」

 そう言うと、彼はふたりに大きく頷きかける。

「ふたりとも、これから宜しく頼む。今後は我が武田家の為に、その力を存分に尽くしてくれ」
「「はっ!」」

 半兵衛と久勝は、信玄の言葉に表情を引き締めて、深々と頭を垂れたのだった。
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