甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部八章 使者

拝謁と再会

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 主の信玄に拝謁する為、躑躅ヶ崎館へ入った信繁と昌幸は、近習の案内で敷地の南に建つ本主殿の一室へ通された。

「おお、典厩様! お元気そうで何より!」

 部屋に入った信繁に弾んだ声をかけたのは、壮年の僧形の男だった。
 信玄と瓜二つの顔をした男の姿を見て、昌幸は一瞬ギョッとした表情を浮かべるが、信繁は驚いた様子も無く、鷹揚に頷いた。

「久しいな、逍遥。健勝だったか?」
「いやぁ……そう問われると、些か答えに困りますなぁ」

 信繁の言葉に、僧形の男――信玄と信繁の弟である武田逍遥軒信廉は、苦笑いを浮かべながら頭を掻く。

「何せ、お屋形様と典厩様、おまけに若殿までもがお留守の間、たったひとりで甲斐のまつりごとを看ておりましたからな……。目が回るほどに忙しいわ、厄介な公事くじ (訴訟)ばかり舞い込んでくるわで、この三ヶ月間は全く生きた心地がしませんでした……」

 そう答えながら、当時の事を思い出したのか、信廉はげっそりした顔をしてブルリと身震いした。

「ははは、それは大変だったな」

 そんな弟の様子に苦笑しながら、信繁は労るように言う。

「まあ……お主が儂らの留守をしっかりと預かってくれて、本当に助かった。お主が居らなんだら、儂もお屋形様も安心して戦に専念出来なかったであろう」
「仰るほどしっかり守れたかは自信がありませぬが、まあ……襤褸ぼろが出ぬようには頑張ったつもりです」

 信繁からの労りに謙遜混じりの言葉を返した信廉だが、その顔を嬉しそうに綻ばせた。
 そんな弟の向かいに腰を下ろした信繁は、今度は部屋の下座で深々と頭を垂れているふたりの男の方へ顔を向ける。

「構わぬ。ふたりとも面を上げてくれ」
「はっ!」
「はい」

 彼の声に、ふたりの男――仙石久勝と竹中半兵衛は、返事をしながらゆっくりと頭を上げた。
 信繁は、彼らの顔を見回しながら、穏やかな声をかける。

「ふたりとも、昨夜はよく眠れたかな?」
「はい」

 半兵衛が、微笑みを浮かべながら小さく頷いた。

「曽根内匠助殿の屋敷では、過分なほどの持て成しを頂き、お陰様で私も月も久々にぐっすりと眠る事が出来ました」
「そうか。それは何より」

 彼の答えを聞いて、満足げに口元を綻ばせた信繁は、今度は久勝に尋ねる。

「お主はどうだった、新八郎?」
「実は……」

 信繁の問いかけに、久勝は少し隈の目立つ顔で苦笑いした。

「拙者の方は、金丸殿と夜遅くまで大いに語らい合ってしまって……少し寝不足です」
「ほう……平八郎の奴と」

 久勝の言葉を聞いて、昌幸が興が乗った様子で目を見開く。

「それは大変だったのではありませぬか? 彼奴あやつは酒に酔うと、くだらん話をだらだらと垂れ流しますからな。さぞや退屈だったでしょう」
「いえいえ、そのような事は……」

 昌幸の問いかけに、久勝は慌てて首を横に振った。

「むしろ、貴重なお話をたくさん聞けて楽しゅう御座いました。川中島の戦の事や、御家中の皆様の事など……時が経つのを忘れて話し込んでしまったせいで、気付いた頃には空が白んでおりまして……正直、ほとんど寝ておりませぬ」
「その割には随分と元気そうだのう」

 苦笑する久勝の顔を見ながら、信廉が羨ましそうに言う。

「私も、若い頃は朝まで寝ずにいても全然平気だったものだが、最近は年を取ったせいか、めっきりと夜更かしできぬ体になってしもうた。まったく……年は取りたくないものだのう」
「何を言うておるのだ、逍遥」

 溜息を吐く信廉に、信繁が呆れ混じりの声を上げた。

「お主はまだ三十半ばだろうが。老け込むにはまだまだ早いぞ」
「典厩様の仰る通りですよ、逍遥様」

 信繁の言葉に、昌幸も大きく頷く。
 そんな彼の顔を一瞥した信廉は、訝しげに眉を顰めた。

「……そういうお前の方こそ、まだ朝だというのに随分と疲れておる様子ではないか。若い癖にだらしがないのう」
「あ……い、いや、これは……」

 信廉の問いかけに、昌幸は慌てて指で目元を隠しながら顔を逸らす。
 彼の反応にますます怪訝な表情を浮かべる信廉だったが、彼が何かを言おうとしたところで、部屋の襖が音も無く半分ほど開いた。
 そこから顔を出したのは、信玄付きの奥近習衆である曽根昌世である。

「皆様、お屋形様の御成に御座ります。お控え下さい」

 昌世の声を聞いた一同は、急いで威儀を正し、上座に向かって深々と頭を下げた。
 顔を伏せた信繁たちの耳に、襖が桟を滑る音が聞こえてくる。
 それに続いて、微かな衣擦れの音とふたり分の足音が聞こえ、上座にどっかと腰を下ろす気配がした。
 そして、平伏する彼らに、低い男の声がかけられる。

「――苦しうない。皆、頭を上げよ」
「……はっ」

 久しぶりに聞く懐かしい声に胸が跳ねるのを感じながら、信繁はゆっくりと顔を上げた。
 彼の目に、上座に並んで座るふたりの男の姿が映る。
 ひとりは、彼の甥にして、武田家の嫡男である武田左京大夫義信である。三ヶ月前までとは違って、口元に整えた髭を蓄えた彼は、少し緊張した面持ちでピンと背筋を伸ばしている。
 と、

「……ごほん」

 義信の横に鎮座している僧形の男が、口元に手を当てて空咳をひとつした。
 そして、顔を上げた信繁に優しい眼差しを向けながら、穏やかな声をかける。

「――久しぶりだな、典厩。元気そうで何よりだ」
「ご無沙汰しておりました……お屋形様」

 親しみに満ちた声に思わず胸に熱いものがこみ上げるのを感じながら、信繁は久々に会う彼の兄――武田家当主・武田大膳大夫兼信濃守晴信入道幾山信玄に向け、静かに微笑み返したのだった。
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