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第二部八章 使者
疲労と理由
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――翌日。
いつもより遅めの時間に起床した信繁は、桔梗が用意した朝食の湯漬けを掻き込むように平らげてから、主の信玄に目通りする為に躑躅ヶ崎館へ向かう準備をする。
「……今日は、昨日とは打って変わって良う晴れたな」
部屋の中から雪が降り積もった庭の様子を眺めながら、信繁は着付けを手伝う妻の桔梗に話しかけた。
「左様でございますね」
彼に大紋の袖を羽織らせながら、穏やかな顔で微笑んだ彼女も、夫と同じように庭の方へ目を向け、積もった雪が冬の日を反射してキラキラときらめく様を眩しそうに見つめる。
「晴れてくれて良かったです。雪が降っていたら、躑躅ヶ崎のお館にお着きになる前に、せっかくの御召し物が濡れてしまいますから」
「そうだな」
桔梗の言葉に、信繁も小さく頷いた。
――と、廊下の方からこちらの方へと向かってくるらしい足音が聞こえてくる。
足音は、信繁たちのいる部屋の開け放たれた襖の前で止まった。
「――父上、お着替え中に失礼します」
「おお、綾か」
襖の向こうから上がった愛らしい声に、信繁は思わず頬を緩める。
「構わぬ。もう着替え終わっておる。入って良いぞ」
「はい……」
信繁に促された綾は、微かな衣擦れの音を立てながら、しずしずと部屋の中に入った。
そんな彼女に微笑みかけながら、彼は着ている大紋に染め抜かれた武田菱の家紋が良く見えるよう、両腕を大きく広げてみせる。
「どうかな、綾? おかしいところは無いか?」
「いえ……よくお似合いです、父上」
信繁の問いかけに、はにかみ笑いを浮かべながら首を横に振る綾。
娘と夫の嬉しそうな様子を見て、微笑みながら小さく頷いた桔梗は、桔梗に向かって声をかける。
「ところで……何かありましたか、綾?」
「あ……そうでした」
桔梗の問いかけに、自分がこの部屋に来た目的を思い出した綾は、その場に膝をつき、改まった態度になって信繁に告げた。
「喜兵衛どのがお出でになりました。玄関前でお待ちになっています……と、お伝えに来たのでした」
「おお、左様であったか」
綾の言葉を聞いた信繁は、大きく頷く。
「ならば、すぐに出るとするか。――桔梗」
「はい、主様」
信繁の呼びかけに、桔梗は心得た様子で彼の佩刀を捧げるように持った。
彼女から佩刀を受け取った彼は、最後に口髭を指で撫でつけてから部屋を出て、昌幸が待つ玄関へと向かう。
「――おはようございます、典厩様、桔梗様」
玄関の土間に立っていた昌幸は、信繁たちの姿を見るや深々と頭を下げた。
鷹揚に頷いた信繁は、草履取りの小者が土間に置いた草履に足を通しながら、昌幸に言葉をかける。
「朝からすまぬな、昌幸……大丈夫か、お主?」
だが、彼の声は途中で昌幸の事を心配する問いかけに変わった。
「目の下……すごい隈だぞ?」
「え?」
信繁の問いかけに、昌幸は戸惑いながら自分の目の下に指を当てる。
そんな彼に、桔梗も心配そうな顔で尋ねた。
「あら、本当に……。何となく、いつもよりお元気も無いご様子……どこか具合でも悪いのですか?」
「そう言われれば確かに……。ひょっとして、昨日までの長旅の疲れが抜けていないんですか、喜兵衛どの?」
桔梗に続いて、綾も昌幸の事を気遣う。
「ああ、これは、その……」
ふたりに心配された昌幸は、困った顔をしながら言い淀んだ。
そんな彼の様子を見て、信繁が表情を曇らせる。
「……無理をせずとも良いぞ。体調が優れぬというのなら、無理して躑躅ヶ崎に行く事は無い。お屋形様には儂から言うておくから、今日は屋敷に戻って休め――」
「い、いえ! 大丈夫です!」
信繁がかけた気遣いの言葉に、昌幸は恐縮しながら慌てて頭を振った。
「こ、これは、別に体調が悪いとかそういう事ではなく……」
彼は、返答に困った様子で目を泳がせつつ、慎重に言葉を選ぶ。
「そ、その……些か寝不足でして……それで……」
「寝不足……ですか?」
昌幸の答えを聞いた綾が、怪訝そうに首を傾げた。
「昨夜はお疲れだったのではないですか? それなのに眠れなかったって……。私などは、たくさん遊んだ日の夜は、朝までぐっすりと眠れるものですけど……」
「あ、綾様……! そ、それは……」
綾の言葉に、なぜか顔を赤くしながら焦る昌幸。
「……あ」
そんな彼の反応を見ていた桔梗の頭に、ある推測が閃き――たちまち、彼女の顔も昌幸に負けず劣らず赤らんだ。
慌てて綾の着物の袖を引っ張った桔梗は、その耳元に顔を近づけ、
「……こ、これ! いけません、綾! 他人様の事を必要以上に詮索するのは……!」
と、小声で窘める。
慌てている母の様子に、綾はますます怪訝な表情を浮かべた。
「なぜですか、母上? 心配じゃないんですか? 久しぶりにお屋敷に帰って、奥方さまと過ごせたはずの喜兵衛どのが、どうしてこんなに疲れていらっしゃ――」
「あ、綾!」
訊き返す綾の言葉を遮るように、上ずった声で彼女の名を呼んだのは、信繁である。
彼も妻と同じようにあたふたと焦りながら、娘に説く。
「お……大人というのは、子供と違って、疲れているからといってぐっすりと眠れるものではない。い、今までの事を思い返したり、これからの事を考えたりと……色々な事が頭を過ぎって、疲れているのに目が冴えてしまう事もままあるものだ!」
「……そうなんですか?」
信繁の説明に釈然としない顔をしながら、綾は昌幸に尋ねた。
彼女の問いかけに、昌幸は大慌てで首を縦に振る。
「て……典厩様の仰る通りに御座ります! こ、今後の武田家と拙者自身がどうなるのかと、寝床の中で考えていたら寝付けなくなりまして……」
「……」
弁解する昌幸の様子に釈然としないものを感じながら、綾は信繁と桔梗の顔を順番に見回した。
彼女の視線に気付いたふたりは、あからさまな作り笑いを浮かべて、うんうんと大きく頷く。
「……?」
そんな三人の反応を見ながら、綾は訝しげな顔をしながら首を捻るのだった……。
◆ ◆ ◆ ◆
「……昌幸よ」
桔梗と綾に見送られて屋敷の正門を出た信繁は、馬を緩々と進めながら、隣の昌幸に声をかけた。
「はい」と応えた昌幸に、信繁は顔を近づけ、「その……」と少しためらいながら、声を潜めて言う。
「なんだ……まだ若いし、嫁を娶ったばかりなのだから致し方ないとは思うが……もう少し、翌日の事を考えて、その……ほどほどに、な……」
「あ……はい」
昌幸は、信繁の言葉に赤面しながら、申し訳なさそうに頭を下げるのだった……。
いつもより遅めの時間に起床した信繁は、桔梗が用意した朝食の湯漬けを掻き込むように平らげてから、主の信玄に目通りする為に躑躅ヶ崎館へ向かう準備をする。
「……今日は、昨日とは打って変わって良う晴れたな」
部屋の中から雪が降り積もった庭の様子を眺めながら、信繁は着付けを手伝う妻の桔梗に話しかけた。
「左様でございますね」
彼に大紋の袖を羽織らせながら、穏やかな顔で微笑んだ彼女も、夫と同じように庭の方へ目を向け、積もった雪が冬の日を反射してキラキラときらめく様を眩しそうに見つめる。
「晴れてくれて良かったです。雪が降っていたら、躑躅ヶ崎のお館にお着きになる前に、せっかくの御召し物が濡れてしまいますから」
「そうだな」
桔梗の言葉に、信繁も小さく頷いた。
――と、廊下の方からこちらの方へと向かってくるらしい足音が聞こえてくる。
足音は、信繁たちのいる部屋の開け放たれた襖の前で止まった。
「――父上、お着替え中に失礼します」
「おお、綾か」
襖の向こうから上がった愛らしい声に、信繁は思わず頬を緩める。
「構わぬ。もう着替え終わっておる。入って良いぞ」
「はい……」
信繁に促された綾は、微かな衣擦れの音を立てながら、しずしずと部屋の中に入った。
そんな彼女に微笑みかけながら、彼は着ている大紋に染め抜かれた武田菱の家紋が良く見えるよう、両腕を大きく広げてみせる。
「どうかな、綾? おかしいところは無いか?」
「いえ……よくお似合いです、父上」
信繁の問いかけに、はにかみ笑いを浮かべながら首を横に振る綾。
娘と夫の嬉しそうな様子を見て、微笑みながら小さく頷いた桔梗は、桔梗に向かって声をかける。
「ところで……何かありましたか、綾?」
「あ……そうでした」
桔梗の問いかけに、自分がこの部屋に来た目的を思い出した綾は、その場に膝をつき、改まった態度になって信繁に告げた。
「喜兵衛どのがお出でになりました。玄関前でお待ちになっています……と、お伝えに来たのでした」
「おお、左様であったか」
綾の言葉を聞いた信繁は、大きく頷く。
「ならば、すぐに出るとするか。――桔梗」
「はい、主様」
信繁の呼びかけに、桔梗は心得た様子で彼の佩刀を捧げるように持った。
彼女から佩刀を受け取った彼は、最後に口髭を指で撫でつけてから部屋を出て、昌幸が待つ玄関へと向かう。
「――おはようございます、典厩様、桔梗様」
玄関の土間に立っていた昌幸は、信繁たちの姿を見るや深々と頭を下げた。
鷹揚に頷いた信繁は、草履取りの小者が土間に置いた草履に足を通しながら、昌幸に言葉をかける。
「朝からすまぬな、昌幸……大丈夫か、お主?」
だが、彼の声は途中で昌幸の事を心配する問いかけに変わった。
「目の下……すごい隈だぞ?」
「え?」
信繁の問いかけに、昌幸は戸惑いながら自分の目の下に指を当てる。
そんな彼に、桔梗も心配そうな顔で尋ねた。
「あら、本当に……。何となく、いつもよりお元気も無いご様子……どこか具合でも悪いのですか?」
「そう言われれば確かに……。ひょっとして、昨日までの長旅の疲れが抜けていないんですか、喜兵衛どの?」
桔梗に続いて、綾も昌幸の事を気遣う。
「ああ、これは、その……」
ふたりに心配された昌幸は、困った顔をしながら言い淀んだ。
そんな彼の様子を見て、信繁が表情を曇らせる。
「……無理をせずとも良いぞ。体調が優れぬというのなら、無理して躑躅ヶ崎に行く事は無い。お屋形様には儂から言うておくから、今日は屋敷に戻って休め――」
「い、いえ! 大丈夫です!」
信繁がかけた気遣いの言葉に、昌幸は恐縮しながら慌てて頭を振った。
「こ、これは、別に体調が悪いとかそういう事ではなく……」
彼は、返答に困った様子で目を泳がせつつ、慎重に言葉を選ぶ。
「そ、その……些か寝不足でして……それで……」
「寝不足……ですか?」
昌幸の答えを聞いた綾が、怪訝そうに首を傾げた。
「昨夜はお疲れだったのではないですか? それなのに眠れなかったって……。私などは、たくさん遊んだ日の夜は、朝までぐっすりと眠れるものですけど……」
「あ、綾様……! そ、それは……」
綾の言葉に、なぜか顔を赤くしながら焦る昌幸。
「……あ」
そんな彼の反応を見ていた桔梗の頭に、ある推測が閃き――たちまち、彼女の顔も昌幸に負けず劣らず赤らんだ。
慌てて綾の着物の袖を引っ張った桔梗は、その耳元に顔を近づけ、
「……こ、これ! いけません、綾! 他人様の事を必要以上に詮索するのは……!」
と、小声で窘める。
慌てている母の様子に、綾はますます怪訝な表情を浮かべた。
「なぜですか、母上? 心配じゃないんですか? 久しぶりにお屋敷に帰って、奥方さまと過ごせたはずの喜兵衛どのが、どうしてこんなに疲れていらっしゃ――」
「あ、綾!」
訊き返す綾の言葉を遮るように、上ずった声で彼女の名を呼んだのは、信繁である。
彼も妻と同じようにあたふたと焦りながら、娘に説く。
「お……大人というのは、子供と違って、疲れているからといってぐっすりと眠れるものではない。い、今までの事を思い返したり、これからの事を考えたりと……色々な事が頭を過ぎって、疲れているのに目が冴えてしまう事もままあるものだ!」
「……そうなんですか?」
信繁の説明に釈然としない顔をしながら、綾は昌幸に尋ねた。
彼女の問いかけに、昌幸は大慌てで首を縦に振る。
「て……典厩様の仰る通りに御座ります! こ、今後の武田家と拙者自身がどうなるのかと、寝床の中で考えていたら寝付けなくなりまして……」
「……」
弁解する昌幸の様子に釈然としないものを感じながら、綾は信繁と桔梗の顔を順番に見回した。
彼女の視線に気付いたふたりは、あからさまな作り笑いを浮かべて、うんうんと大きく頷く。
「……?」
そんな三人の反応を見ながら、綾は訝しげな顔をしながら首を捻るのだった……。
◆ ◆ ◆ ◆
「……昌幸よ」
桔梗と綾に見送られて屋敷の正門を出た信繁は、馬を緩々と進めながら、隣の昌幸に声をかけた。
「はい」と応えた昌幸に、信繁は顔を近づけ、「その……」と少しためらいながら、声を潜めて言う。
「なんだ……まだ若いし、嫁を娶ったばかりなのだから致し方ないとは思うが……もう少し、翌日の事を考えて、その……ほどほどに、な……」
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