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第二部八章 使者
心配と願い
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「綾が誠に失礼なことを申しました、喜兵衛殿」
暗い廊下の足元を手燭で照らしながら先を歩く桔梗が、昌幸に対して謝った。
それに対して昌幸は、慌てて首を横に振る。
「い、いえ、とんでもない! 綾様の仰る事は至極御尤もな事でしたから、叱られて当然です」
「と言っても、殿方に対して、ああも強い口調で……申し訳ございません」
桔梗はそう言って立ち止まると、昌幸に深々と頭を下げた。
彼女に続いて、信繁も首を垂れる。
「綾の父親として、儂からも詫びよう。我が娘がすまなかった」
「そ、そんな、典厩様にまで頭を下げられては、却って申し訳が立ちませぬ! ど、どうか、おふたりとも頭をお上げ下さい!」
敬愛するふたりに頭を下げられて覿面に焦りながら、昌幸は上ずった声で言った。
信繁は、彼に促されて頭を上げると、苦笑を浮かべる。
「それにしても……たったの三ヶ月で随分と大人びたというか、気が強くなったというか……。六郎次郎が今の綾と同じくらいの頃は、もっと子供らしくのんびりしていたような気がするのだが……」
「男子と女子では、成長の速さが違うと申しますからな」
当惑する信繁に、昌幸が言った。
「まあ、個人差というものがありますので一概には言えませぬが、普通は男子よりも女子の方が早く大人になるようです。綾様も、そういう時期に差し掛かられたという事で……」
「確かにそれもあるかと思いますが……」
と、桔梗が昌幸の言葉に頷きつつも、躊躇いがちに口を挟む。
「恐らく綾は……お屋敷で夫の帰りを待っている妙殿のお心を慮ったのだと思います」
「……!」
桔梗の言葉を聞いた昌幸が、ハッとした。
そんな彼の顔を優しい目で見つめながら、彼女は静かに言葉を続ける。
「妻は、夫が戦陣に赴いている間、無事を願う事しかできませぬ。それだけに、帰ってきたと知れば、一刻も早く元気な姿を見て安心したい……武家の妻は皆、戦の度にそう思っているものなのですよ」
「……」
「もちろん、私もそうです」
桔梗はそう言うと、傍らに立つ信繁の顔を見た。
「ですから……今の私はとても幸せです。主様が、こうして無事に帰ってきてくれましたから」
――と、そこまで言ったところで、彼女の表情は一変する。
「ですが……四年前は違いました」
「……!」
「……川中島から帰ってきた主様は、生死に係わる大怪我を負って、人事不省の状態……。目を覚まさない主様の顔を見て、何度絶望に打ちひしがれた事か……。今でも、あの時の事を夢に見ては、夜中に飛び起きてしまいます」
震える声が、当時の彼女が感じた絶望の深さをふたりにまざまざと思い知らせた。
目尻に浮かんだ涙の粒を袖でそっと拭った桔梗は、「綾は――」と続ける。
「あの娘は、あの日以来そんな私の姿をずっと見ていたので……一刻も早く屋敷に帰って、待っている妙殿に元気な姿を見せて安心させようとしない喜兵衛殿に対しての憤懣が募るあまり、ついあのように声を荒げてしまったのでは……と」
「……」
桔梗の話を紙のような顔色で黙って聞いていた昌幸は、足元へ視線を落とした。
――だが、すぐに何かを決断したかのように決然と目を上げ、ふたりに向けて深々と頭を垂れる。
「……典厩様、桔梗様、申し訳御座いませぬ。せっかくお誘い頂きましたが、やはり今宵はここでお暇させて頂きとう存じます」
「……ああ」
昌幸の言葉を聞いた信繁は、大きく頷いた。
「そうだな。そうした方が良いだろう」
「ええ。そうなさった方が、妙殿もお喜びになるでしょう」
信繁に続いて、桔梗も優しく微笑む。
そんなふたりに笑い返した昌幸は、もう一度深々と頭を下げた。
「それでは――ここで失礼させて頂きます」
「ああ、ご苦労であった。気を付けて帰れよ」
昌幸に優しい眼差しを向けながら、信繁は労りの声をかける。
と、手燭を床に置いた桔梗が、昌幸の乱れた襟を直した。
「くれぐれも、風邪などひかぬように注意して下さいね」
「は、はい。分かっております……」
「そうそう、帰る前に、台所の方に寄って下さいね。喜兵衛殿が帰り道で体を温められるようにと、綾がお酒を入れた瓢箪を用意して待っていますから」
「綾様が……?」
桔梗の言葉に驚きの表情を浮かべた昌幸だったが、すぐに大きく頷く。
「畏まりました。すぐに向かいます」
そう言った彼は、ふたりに向かって嬉しそうな笑みを向けた。
「拙者――そして、妙への皆様のご厚情、本当に痛み入ります。この昌幸、感謝の言葉をいくら重ねても――」
「そのような事はいいから、早く帰ってやれ」
感動の気持ちを言い表そうとする昌幸に向けて、信繁は軽く手を払う。ぞんざいな仕草だったが、その表情から見ても、それがタダの照れ隠しなのは明らかだった。
それを察した昌幸は、苦笑しながら口を噤み、最後に深々と一礼すると、急ぎ足で廊下を引き返していく。
「……やれやれ。別に感謝などせずとも良いのに。妙なところで生真面目な奴だ」
彼の後ろ姿を見送りながら、信繁は大袈裟に溜息を吐いた。その傍らで、桔梗がくすりと笑う。
そんな彼女に顔を向けた信繁は、頬を指で掻きながら、「あー……」と、少し照れくさそうにしながら口を開いた。
「その……桔梗よ……」
「……? はい、なんでしょう?」
信繁の呼びかけに、桔梗は訝しげに首を傾げながら応える。
そんな彼女の目をじっと見つめながら、信繁は突然その体を固く抱きしめた。
「あ、主様……? 急に何を――」
「桔梗……」
突然の抱擁に驚き、声を上ずらせる桔梗の耳元で、信繁は微かに震える声で囁く。
「……四年前の事、すまなかったな。お主に悲しい思いをさせて……」
「主様……」
「頭では、あの時のお主の気持ちが分かっているつもりだったが、まだまだ考えが浅かったようだ……。儂のせいで、今でも夢に魘されるほどにお主を苦しませているとは……その、本当にすまなかった……」
「……いえ」
信繁の言葉に小さく頭を振った桔梗は、彼の背中に手を回して、グッと抱きしめ返した。
「いいんです……今は、こうして元気に帰って来てくれたのですから」
「桔梗……」
「……お約束して下さいまし」
潤んだ瞳で信繁の顔を真っ直ぐに見上げた彼女は、震える声で言葉を継ぐ。
「これからもずっと……今日のように元気な姿で帰ってくると……」
「もちろんだ」
桔梗の顔を見つめ返した信繁は、力強く頷いた。
「何度でも約束しようぞ。儂は絶対に生きて帰ってくる。――お主の元に、な」
暗い廊下の足元を手燭で照らしながら先を歩く桔梗が、昌幸に対して謝った。
それに対して昌幸は、慌てて首を横に振る。
「い、いえ、とんでもない! 綾様の仰る事は至極御尤もな事でしたから、叱られて当然です」
「と言っても、殿方に対して、ああも強い口調で……申し訳ございません」
桔梗はそう言って立ち止まると、昌幸に深々と頭を下げた。
彼女に続いて、信繁も首を垂れる。
「綾の父親として、儂からも詫びよう。我が娘がすまなかった」
「そ、そんな、典厩様にまで頭を下げられては、却って申し訳が立ちませぬ! ど、どうか、おふたりとも頭をお上げ下さい!」
敬愛するふたりに頭を下げられて覿面に焦りながら、昌幸は上ずった声で言った。
信繁は、彼に促されて頭を上げると、苦笑を浮かべる。
「それにしても……たったの三ヶ月で随分と大人びたというか、気が強くなったというか……。六郎次郎が今の綾と同じくらいの頃は、もっと子供らしくのんびりしていたような気がするのだが……」
「男子と女子では、成長の速さが違うと申しますからな」
当惑する信繁に、昌幸が言った。
「まあ、個人差というものがありますので一概には言えませぬが、普通は男子よりも女子の方が早く大人になるようです。綾様も、そういう時期に差し掛かられたという事で……」
「確かにそれもあるかと思いますが……」
と、桔梗が昌幸の言葉に頷きつつも、躊躇いがちに口を挟む。
「恐らく綾は……お屋敷で夫の帰りを待っている妙殿のお心を慮ったのだと思います」
「……!」
桔梗の言葉を聞いた昌幸が、ハッとした。
そんな彼の顔を優しい目で見つめながら、彼女は静かに言葉を続ける。
「妻は、夫が戦陣に赴いている間、無事を願う事しかできませぬ。それだけに、帰ってきたと知れば、一刻も早く元気な姿を見て安心したい……武家の妻は皆、戦の度にそう思っているものなのですよ」
「……」
「もちろん、私もそうです」
桔梗はそう言うと、傍らに立つ信繁の顔を見た。
「ですから……今の私はとても幸せです。主様が、こうして無事に帰ってきてくれましたから」
――と、そこまで言ったところで、彼女の表情は一変する。
「ですが……四年前は違いました」
「……!」
「……川中島から帰ってきた主様は、生死に係わる大怪我を負って、人事不省の状態……。目を覚まさない主様の顔を見て、何度絶望に打ちひしがれた事か……。今でも、あの時の事を夢に見ては、夜中に飛び起きてしまいます」
震える声が、当時の彼女が感じた絶望の深さをふたりにまざまざと思い知らせた。
目尻に浮かんだ涙の粒を袖でそっと拭った桔梗は、「綾は――」と続ける。
「あの娘は、あの日以来そんな私の姿をずっと見ていたので……一刻も早く屋敷に帰って、待っている妙殿に元気な姿を見せて安心させようとしない喜兵衛殿に対しての憤懣が募るあまり、ついあのように声を荒げてしまったのでは……と」
「……」
桔梗の話を紙のような顔色で黙って聞いていた昌幸は、足元へ視線を落とした。
――だが、すぐに何かを決断したかのように決然と目を上げ、ふたりに向けて深々と頭を垂れる。
「……典厩様、桔梗様、申し訳御座いませぬ。せっかくお誘い頂きましたが、やはり今宵はここでお暇させて頂きとう存じます」
「……ああ」
昌幸の言葉を聞いた信繁は、大きく頷いた。
「そうだな。そうした方が良いだろう」
「ええ。そうなさった方が、妙殿もお喜びになるでしょう」
信繁に続いて、桔梗も優しく微笑む。
そんなふたりに笑い返した昌幸は、もう一度深々と頭を下げた。
「それでは――ここで失礼させて頂きます」
「ああ、ご苦労であった。気を付けて帰れよ」
昌幸に優しい眼差しを向けながら、信繁は労りの声をかける。
と、手燭を床に置いた桔梗が、昌幸の乱れた襟を直した。
「くれぐれも、風邪などひかぬように注意して下さいね」
「は、はい。分かっております……」
「そうそう、帰る前に、台所の方に寄って下さいね。喜兵衛殿が帰り道で体を温められるようにと、綾がお酒を入れた瓢箪を用意して待っていますから」
「綾様が……?」
桔梗の言葉に驚きの表情を浮かべた昌幸だったが、すぐに大きく頷く。
「畏まりました。すぐに向かいます」
そう言った彼は、ふたりに向かって嬉しそうな笑みを向けた。
「拙者――そして、妙への皆様のご厚情、本当に痛み入ります。この昌幸、感謝の言葉をいくら重ねても――」
「そのような事はいいから、早く帰ってやれ」
感動の気持ちを言い表そうとする昌幸に向けて、信繁は軽く手を払う。ぞんざいな仕草だったが、その表情から見ても、それがタダの照れ隠しなのは明らかだった。
それを察した昌幸は、苦笑しながら口を噤み、最後に深々と一礼すると、急ぎ足で廊下を引き返していく。
「……やれやれ。別に感謝などせずとも良いのに。妙なところで生真面目な奴だ」
彼の後ろ姿を見送りながら、信繁は大袈裟に溜息を吐いた。その傍らで、桔梗がくすりと笑う。
そんな彼女に顔を向けた信繁は、頬を指で掻きながら、「あー……」と、少し照れくさそうにしながら口を開いた。
「その……桔梗よ……」
「……? はい、なんでしょう?」
信繁の呼びかけに、桔梗は訝しげに首を傾げながら応える。
そんな彼女の目をじっと見つめながら、信繁は突然その体を固く抱きしめた。
「あ、主様……? 急に何を――」
「桔梗……」
突然の抱擁に驚き、声を上ずらせる桔梗の耳元で、信繁は微かに震える声で囁く。
「……四年前の事、すまなかったな。お主に悲しい思いをさせて……」
「主様……」
「頭では、あの時のお主の気持ちが分かっているつもりだったが、まだまだ考えが浅かったようだ……。儂のせいで、今でも夢に魘されるほどにお主を苦しませているとは……その、本当にすまなかった……」
「……いえ」
信繁の言葉に小さく頭を振った桔梗は、彼の背中に手を回して、グッと抱きしめ返した。
「いいんです……今は、こうして元気に帰って来てくれたのですから」
「桔梗……」
「……お約束して下さいまし」
潤んだ瞳で信繁の顔を真っ直ぐに見上げた彼女は、震える声で言葉を継ぐ。
「これからもずっと……今日のように元気な姿で帰ってくると……」
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