甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部八章 使者

帰宅と叱咤

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 曽根昌世たちに見送られて屋敷の門を潜った信繁と昌幸は、乗ってきた馬を厩番に預けてから、久方ぶりに屋敷の玄関前に立った。

「あ……しばし待て」

 信繁は、玄関の戸を開けようとする小者を制してから、そそくさと着衣の襟を直す。
 それだけに留まらず、口髭を指で丹念に撫でつけ始めた信繁を見て、昌幸が思わず苦笑した。

「別に、御自身の屋敷に帰るだけなのですから、そのように居住まいを正さずとも宜しいのではないですか?」
「何を申すか」

 昌幸の問いかけに、信繁は少しムッとしながら言い返す。

「桔梗とも綾とも、三ヶ月ぶりに顔を合わせるのだ。だらしない恰好で帰って、ふたりに呆れられる訳にはいかぬ」
「左様なものに御座いますか」

 信繁の肩にかかった雪を手で払い落としながら、昌幸が分かったような分からないような顔で頷いた。
 そんな彼の反応にかまけている余裕もない様子で、ピンと背筋を伸ばした信繁は、小者に「良いぞ」と目線を送る。
 彼の目配せを受けて小さく頷いた小者が、ゆっくりと引き戸を開いた。
 ふたりの目に、上がり框の縁に手をつき、深々と頭を下げたふたりの女子おなごの姿が映る。
 ふたりの姿を目にした瞬間、信繁の表情が緩みかけたが、小者たちの存在を思い出して、すんでのところで表情を引き締め直し、「ごほん」と咳払いをしてからおずおずとふたりに声をかけた。

「その……今、帰った」
「お帰りなさいませ……主様」

 照れと緊張でぎこちなくなった信繁の帰宅の声に、上がり框の上で平伏していた彼の妻の桔梗は顔を伏せたままで応える。
 三ヶ月ぶりで耳にする愛妻の変わらぬ優しい声に胸が躍るのを感じながら、信繁は彼女に言葉をかけた。

「そう畏まらずとも良い。面を上げよ。儂に顔を見せてくれ」
「……はい」

 信繁に促された桔梗は、そう短く答えると、ゆっくりと顔を上げる。
 変わらずあでやかな妻の顔に、信繁の口元が今度こそ緩んだ。
 そんな彼の顔を薄っすら涙が浮かんだ目で見上げながら、桔梗は僅かに震える声で言う。

「美濃でのお働き……本当にお疲れ様にございました」
「ああ……」
「主様が無事にご帰陣されて……本当に嬉しゅうございます」
「うむ……」

 桔梗の言葉を噛みしめるように、信繁は小さく頷いた。
 そして、彼女の顔を見つめながら、おずおずと訊き返す。

「……お主らの方こそ、健勝であったか?」
「はい」

 信繁の言葉に、桔梗は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「お陰様で、私も綾もいたって元気でございます」
「そうか……何よりだ」

 桔梗の返事に安堵した信繁は、彼女の傍らで顔を伏せたままの娘に目を移し、優しく声をかける。

「久しいな、綾。お主も面を上げよ。父に元気な顔を見せてくれ」
「……はい。かしこまりました、父上」

 彼の言葉に珠を転がすような声で応じて、綾はゆっくりと顔を上げた。

「おお……」

 最後に会った時よりずっと大人びた彼女の顔を見た信繁が、思わず感嘆の声を漏らす。

「これは……たった三ヶ月ぶりだというに、見違えたな……」
「そう……ですか?」

 信繁の言葉に少しはにかみながら、綾は小首を傾げた。
 そんな彼女に温かな微笑みを向けた信繁が、「そうだとも」と大きく首を縦に振ると、綾は当惑した様子で目を瞬かせる。

「自分では、そんなに変わったつもりはないんですけど……」
「いやいや、典厩様の仰る通りですよ、綾様」

 そう、戸惑う彼女に声をかけたのは、昌幸だった。
 彼は、キョトンとしている綾に微笑みかけながら言葉を継ぐ。

「『男子、三日会わざれば刮目して見よ』と言いますが、どうやらそれは、女子おなごでも変わらぬようですな。三ヶ月前はまだまだわらべのままといった感じでしたが、すっかり武家の御息女のように成られ……」
「あなたの方はあいかわらずのようですね、喜兵衛どの」

 昌幸の言葉を聞いた途端にムッとした綾は、彼の顔を険しい目で睨んだ。

「三ヶ月前と変わらず、おなごの気持ちがまるで分からぬようで……」
「ちょ、ちょっとお待ち下さい、綾様っ?」

 綾から非難に満ちた目で睨まれた事に狼狽しながら、昌幸は慌てて訊き返す。

「た、確かに“童”と申したのは、綾様に対して使うには些か不躾で申し訳無き事でしたが、決して綾様の事を悪しざまに言おうとした訳ではなく、それだけ三ヶ月前とは見違えたという意味合いで……」
「ほら、ぜんぜん分かってない」

 昌幸の問いかけに、綾は呆れ声を上げた。

「確かに、その事も少しカンにさわったことは確かですけど……私が言いたいのは、そんなことではございません」
「そ、そうなのですか? では、一体何が……?」
「はぁ……まったく」

 当惑する昌幸の様子に溜息を吐くと、綾は彼に問いかける。

「――あなたは、なんでまだここにいるのですか?」
「え? いや、それは……」
「ご自身の屋敷へお帰りにならないでよろしいのですか? 今のあなたには、帰りを待っている奥方さまがおられるでしょう?」
「あ、それは……まあ、はい……一応」
「一応とは何ですかっ!」
「は、ハイッ! 申し訳御座いませぬ! 居ります!」

 眉を吊り上げた綾が上げた鋭い声に、昌幸は慌てて背筋を伸ばして言い直した。
 そんな彼に、綾は険しい表情をやや緩め、諭すように言葉を継ぐ。

「でしたら……何をおいてもまっすぐに奥方さまの待つご自分のお屋敷にお帰りになるのが、夫としてのあなたの務めではないのですか?」
「た、確かにそうかもしれませぬが……一応、拙者は典厩様の与力ですゆえ……」

 綾の問いかけに、おずおずと抗弁する昌幸。
 その瞬間、彼女の顔が険しくなる。

「あ……案ずるな、綾よ!」

 昌幸が綾に責められそうになるのを見た信繁が、助け舟を出そうと慌てて口を挟んだ。

「そ、その……もちろん、昌幸はすぐに屋敷に帰るつもりだったのだ。ただ、雪の中を歩いて来て冷えてしまった体を燗酒で温めさせようと、儂が引き止めたという経緯いきさつで……」
「……ああ、そうだったのですね」

 信繁の言葉を聞いた綾は、納得顔になって頷くと、さっきまでとは打って変わった穏やかな微笑みを昌幸に向け、深々と頭を下げた。

「……これは、たいへん失礼しました、喜兵衛さま。そういうことでしたら、どうぞお上がりくださいませ」
「は、はい……お邪魔いたします……はい」

 綾の態度の変わりっぷりに、昌幸はすっかり毒気を抜かれた様子で応える。

「……昌幸」

 信繁は、そんな彼の耳元に顔を寄せ、抑えた声で囁いた。

「どうやら……飲むのは一杯だけにして、早々に帰った方がよさそうだな、お主は」
「ええ……そのようですね」

 昌幸も、そんな信繁の囁きに顔を引きつらせながら、コクンと頷くのだった……。
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