222 / 263
第二部八章 使者
父子と関係
しおりを挟む
約三ヶ月ぶりに見た信玄は、思ったよりも元気そうだった。
労咳を患っているせいで、顔色は相変わらず青白かったものの、肉付きは大分良くなったようだ。
何より、その顔に浮かべる表情は、一年数ヶ月前――労咳の発作で倒れたあたりの頃よりも、ずっと穏やかなものになっている。
病の療養の為、自身が政に係わる機会を減らして、嫡男の義信や副将の信繁に任せるようになって、以前よりも重圧や緊張をひとりで抱え込まずに済むようになった事もあるのだろうが、何より、長男である義信との仲が改善された事が大きいのだろう。
――それは、信玄の傍らに座る義信も同様のようで、彼の顔からは、以前は見られた焦燥や憂いの色が拭い去ったように消えていた。
自分が側に居なかった三ヶ月の間に、再びふたりの仲が悪化してはいないかと秘かに心配していた信繁だったが、上座に並んでいるふたりの顔に浮かぶ表情から、それが杞憂であった事を悟って、口元を綻ばせる。
「拙者こそ、お屋形様が随分とお元気の御様子で、深く安堵いたしました」
「うむ」
信繁の言葉に、信玄は鷹揚に頷いた。
「まだ時折、咳が止まらなくなる事があるが、それ以外は頗る好調じゃ。体のだるさも大分和らいだ」
「ほう……それは良い兆しですな」
「お主もそう思うか」
信玄は、満足そうな表情で頷きながら、おもむろに顎髭を撫でる。
「以前より飯も美味く感じるようになって、ついつい食べ過ぎてしまうほどでな。そのせいで、出陣中では痩せるどころか、鎧の腹回りがきつくなって弱ったわ」
「それは良う御座いました」
おどけた様子で腹を擦る信玄が口にした冗談交じりの言葉に、信繁は微笑みを浮かべた。
と、
「だからといって、油断は禁物ですぞ、お屋形様」
義信が、父にやんわりと釘を刺す。
「先日の診察でも法印に注意されておりましたでしょう。体の調子が良いからといって、あまりご無理をされては、また元に戻ってしまいますからな」
「分かっておる」
息子に窘められた信玄は、渋い顔をしながら頷いた。
「そもそも、最近は無理などしておらぬであろう。……もっとも、無理をしたくとも、お前がさせてくれぬのだがな」
「当然です」
信玄の恨めしげな視線を受けながら、義信は厳しい顔で言う。
「今は落ち着いているといっても、お屋形様は御病気なのですから。武田家の臣として……いえ、息子として、父上の御身体を気遣うのは当然でしょう」
そう言うと、彼はフッと表情を緩め、父の顔を見返した。
「ご安心下され。どうしてもお屋形様のお力が必要な時が来たら、遠慮なく縋りますゆえ。その時に備えて、今はごゆるりとしていて下さい」
「儂の力が必要な時……か」
信玄は、義信の言葉に満更でもない顔をするが、すぐにその表情は苦笑に変わる。
「……果たして、そのような時は来るのかのう? もう、お前だけでも十分に事足りそうではないか。少なくとも、此度の戦では儂の出る幕など殆ど無かったぞ」
「え……?」
義信は、信玄の言葉に驚いた様子で目を丸くした。
「あ、い、いえ、そんな事は……」
厳しい父から手放しの絶賛に近い言葉をかけられるとは思いもかけなかった様子で、逆にオロオロと動揺しながら、頻りに頭を振る義信。
――と、
「――お屋形様に若殿」
それまで兄と甥のやり取りを黙って聞いていた信廉が、ニヤニヤ笑いながら口を挟んだ。
「父子で楽しくご歓談なさっているところで申し訳ございませんが、このふたりがお屋形様のお言葉をずっと待っておりますので、そろそろ……」
「お、おお、そうであったな」
信廉の言葉と目配りで、気を取り直すようにゴホンとひとつ咳払いをした信玄は、下座に控えている竹中半兵衛と仙石久勝に目を向け、声をかける。
「ふたりとも、待たせてすまぬな。決して其方らの事を無視していた訳ではないのだが……」
「いえ……」
「どうぞ、お気になさらず」
信玄の侘び言に、半兵衛と久勝は小さく頭を振った。
ふたりとも表情にこそ出さないが、甲斐と信濃に加えて、今や美濃半国をも掌中に収めた大領主の信玄が、降将である自分たちに対して謝罪の言葉を述べた事に内心驚いていた。
かつてのふたりの主であった斎藤龍興では考えられない事である。
ふたりは驚くと同時に、武田家へ降った自分の判断が間違っていなかった事をしみじみと実感した。
信玄は、ふたりがそんな事を内心で考えているとは露知らぬ様子で、穏やかな声で尋ねる。
「竹中半兵衛に……仙石新八郎であるな」
「はい」
「はっ!」
名を問われたふたりは、返事をしながら深々と首を垂れる。
彼らの返事を聞いた信玄は、満足げに頷きながら言葉を継いだ。
「お主らの事は、典厩からの書状で存じておる。それによると、其方らは当家に加わりたいと申しておるとの事だが、それに相違ないかな?」
信玄の問いかけに対し、久勝と半兵衛は無言で頷く。
それを見た信玄は、フッと相好を崩した。
「そうか。――もちろん、我が武田家に、典厩が太鼓判を押して連れてきた其方らの事を拒む理由など無い。喜んで歓迎しよう」
そう言うと、彼はふたりに大きく頷きかける。
「ふたりとも、これから宜しく頼む。今後は我が武田家の為に、その力を存分に尽くしてくれ」
「「はっ!」」
半兵衛と久勝は、信玄の言葉に表情を引き締めて、深々と頭を垂れたのだった。
労咳を患っているせいで、顔色は相変わらず青白かったものの、肉付きは大分良くなったようだ。
何より、その顔に浮かべる表情は、一年数ヶ月前――労咳の発作で倒れたあたりの頃よりも、ずっと穏やかなものになっている。
病の療養の為、自身が政に係わる機会を減らして、嫡男の義信や副将の信繁に任せるようになって、以前よりも重圧や緊張をひとりで抱え込まずに済むようになった事もあるのだろうが、何より、長男である義信との仲が改善された事が大きいのだろう。
――それは、信玄の傍らに座る義信も同様のようで、彼の顔からは、以前は見られた焦燥や憂いの色が拭い去ったように消えていた。
自分が側に居なかった三ヶ月の間に、再びふたりの仲が悪化してはいないかと秘かに心配していた信繁だったが、上座に並んでいるふたりの顔に浮かぶ表情から、それが杞憂であった事を悟って、口元を綻ばせる。
「拙者こそ、お屋形様が随分とお元気の御様子で、深く安堵いたしました」
「うむ」
信繁の言葉に、信玄は鷹揚に頷いた。
「まだ時折、咳が止まらなくなる事があるが、それ以外は頗る好調じゃ。体のだるさも大分和らいだ」
「ほう……それは良い兆しですな」
「お主もそう思うか」
信玄は、満足そうな表情で頷きながら、おもむろに顎髭を撫でる。
「以前より飯も美味く感じるようになって、ついつい食べ過ぎてしまうほどでな。そのせいで、出陣中では痩せるどころか、鎧の腹回りがきつくなって弱ったわ」
「それは良う御座いました」
おどけた様子で腹を擦る信玄が口にした冗談交じりの言葉に、信繁は微笑みを浮かべた。
と、
「だからといって、油断は禁物ですぞ、お屋形様」
義信が、父にやんわりと釘を刺す。
「先日の診察でも法印に注意されておりましたでしょう。体の調子が良いからといって、あまりご無理をされては、また元に戻ってしまいますからな」
「分かっておる」
息子に窘められた信玄は、渋い顔をしながら頷いた。
「そもそも、最近は無理などしておらぬであろう。……もっとも、無理をしたくとも、お前がさせてくれぬのだがな」
「当然です」
信玄の恨めしげな視線を受けながら、義信は厳しい顔で言う。
「今は落ち着いているといっても、お屋形様は御病気なのですから。武田家の臣として……いえ、息子として、父上の御身体を気遣うのは当然でしょう」
そう言うと、彼はフッと表情を緩め、父の顔を見返した。
「ご安心下され。どうしてもお屋形様のお力が必要な時が来たら、遠慮なく縋りますゆえ。その時に備えて、今はごゆるりとしていて下さい」
「儂の力が必要な時……か」
信玄は、義信の言葉に満更でもない顔をするが、すぐにその表情は苦笑に変わる。
「……果たして、そのような時は来るのかのう? もう、お前だけでも十分に事足りそうではないか。少なくとも、此度の戦では儂の出る幕など殆ど無かったぞ」
「え……?」
義信は、信玄の言葉に驚いた様子で目を丸くした。
「あ、い、いえ、そんな事は……」
厳しい父から手放しの絶賛に近い言葉をかけられるとは思いもかけなかった様子で、逆にオロオロと動揺しながら、頻りに頭を振る義信。
――と、
「――お屋形様に若殿」
それまで兄と甥のやり取りを黙って聞いていた信廉が、ニヤニヤ笑いながら口を挟んだ。
「父子で楽しくご歓談なさっているところで申し訳ございませんが、このふたりがお屋形様のお言葉をずっと待っておりますので、そろそろ……」
「お、おお、そうであったな」
信廉の言葉と目配りで、気を取り直すようにゴホンとひとつ咳払いをした信玄は、下座に控えている竹中半兵衛と仙石久勝に目を向け、声をかける。
「ふたりとも、待たせてすまぬな。決して其方らの事を無視していた訳ではないのだが……」
「いえ……」
「どうぞ、お気になさらず」
信玄の侘び言に、半兵衛と久勝は小さく頭を振った。
ふたりとも表情にこそ出さないが、甲斐と信濃に加えて、今や美濃半国をも掌中に収めた大領主の信玄が、降将である自分たちに対して謝罪の言葉を述べた事に内心驚いていた。
かつてのふたりの主であった斎藤龍興では考えられない事である。
ふたりは驚くと同時に、武田家へ降った自分の判断が間違っていなかった事をしみじみと実感した。
信玄は、ふたりがそんな事を内心で考えているとは露知らぬ様子で、穏やかな声で尋ねる。
「竹中半兵衛に……仙石新八郎であるな」
「はい」
「はっ!」
名を問われたふたりは、返事をしながら深々と首を垂れる。
彼らの返事を聞いた信玄は、満足げに頷きながら言葉を継いだ。
「お主らの事は、典厩からの書状で存じておる。それによると、其方らは当家に加わりたいと申しておるとの事だが、それに相違ないかな?」
信玄の問いかけに対し、久勝と半兵衛は無言で頷く。
それを見た信玄は、フッと相好を崩した。
「そうか。――もちろん、我が武田家に、典厩が太鼓判を押して連れてきた其方らの事を拒む理由など無い。喜んで歓迎しよう」
そう言うと、彼はふたりに大きく頷きかける。
「ふたりとも、これから宜しく頼む。今後は我が武田家の為に、その力を存分に尽くしてくれ」
「「はっ!」」
半兵衛と久勝は、信玄の言葉に表情を引き締めて、深々と頭を垂れたのだった。
25
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年夏まで執筆
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる