甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部八章 使者

八年前と現在

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 「……」

 義信と信廉は、先ほどから信玄が見せている激しい感情に気圧された様子で黙り込み、場に重い空気が垂れ込める。
 ――その一方で、薄く目を瞑った信繁は、指で顎髭を撫でながら、今の信玄の話について考えを巡らせていた。

「……典厩よ」

 そんな彼に、信玄が落ち着いた声で問いかける。

「お主は、今話した八年前の和睦の件を踏まえても、なお此度の覚慶様の御内書に応じた方が良いと思うか?」
「……はい」

 信玄の問いに、信繁は一拍置いてから首を縦に振り、薄く閉じていた眼を開いた。
 そして、隻眼を信玄に向けながら、落ち着いた声で答える。

「確かに……八年前の和睦は、我ら武田家にとって好ましからざる結果となりましたが……此度はあの時と状況が違います」
「ふむ……」

 信繁の答えを聞いた信玄は、軽く腕組みをしながら小さく唸った。
 そして、信繁の視線を鋭くさせた目で見返しながら、静かな声で彼を促す。

「……申してみよ。八年前と此度の状況の差とは、具体的に何だ?」
「まず……手にしている版図の違い」

 そう答えた信繁は、脳内に信濃周辺の地図を思い浮かべつつ、言葉を継いだ。

「八年前の当家の勢力は、甲斐と北信濃の一部と奥信濃を除いた信濃だけ。その信濃も、当時は北の長尾景虎に加え、西にも父道三を倒して盤石の体制を敷く斎藤義龍によって虎視眈々と狙われており、いつ攻め込まれてもおかしくないという予断を許さぬ状況でした」
「うむ……」
「しかし、今の当家は、信濃全土をほぼ掌握し、西上野も抑えた上に、先日の美濃攻めによって東美濃の大部分を手中に収める事が出来ました」
「たとえ将軍家といえど、四ヶ国に跨がるほどの大きな版図を持つに至った当家に対し、八年前のようなぞんざいな扱いは出来ないだろう……という事ですね」
「ああ」

 義信の言葉に小さく頷いた信繁は、「それだけではない」と続ける。

「八年前と違って、斎藤義龍が身罷った今、斎藤家の力はだいぶ弱まっている」

 ひと月前の烏峰城下での戦いを思い出しながら、信繁は言った。

「……でなくば、安藤軍との戦いは、もっと困難なものになったはずだ。もっと兵の士気と練度が高ければ、いくら伏兵の昌幸に背後を衝かれたとはいえ、あそこまであっさりと総崩れになる事は無かったであろう」
「肝心の主が酒色に溺れて碌にまつりごとを顧みないようでは、将兵の士気が上がるはずもありませんからなぁ」

 剃り上げた頭を撫でながら信繁の言葉に頷いた信廉が、ふと閉じられた襖の方を一瞥する。

「それどころか……美濃に攻め込んだ織田軍を二度に渡って打ち破った上、天下の堅城をわずか二十名足らずの人数で奪い取ったという稀代の智将殿をとことん冷遇した挙句、敵方に奔らせてしまうとは……いやはや」
「……そういう訳で」

 信廉の呆れ声に苦笑しながら、信繁は言葉を継いだ。

「今の斎藤では、東の我らと南の織田の攻勢にはとても耐えられまい。って数年といったところであろう。首尾よく、我らが美濃全土を手中に収められれば、隣は近江。そこまで行けば、覚慶様が御座おわす甲賀はすぐそこだ」
「……そうなれば、我らが覚慶様をお迎えし、京までお届けする事も出来る」

 信繁の言葉に、信玄がぼそりと呟く。その声には、僅かな高揚の響きが感じ取れた。
 それに対し、信繁は大きく頷き返す。

「仰る通りに御座います。他ならぬ覚慶様御自身も、事がそのように運ぶ事を望まれているはず」
「……それと同じ事を、斎藤家に対して望まれている可能性もあるのでは無いですか?」

 信繁の言葉に異論を唱えたのは、義信だった。

「そもそも、我らが美濃を取るのを待つより、既に美濃を有している斎藤に上洛を促した方が早いのでは……?」
「若殿の仰る事は御尤もですが、その可能性は低いかと」

 義信の問いに、信繁はきっぱりと首を横に振る。
 自分の意見をはっきりと否定された義信だが、気を悪くすることも無く、むしろ興味津々といった表情を浮かべて信繁に尋ねた。

「どうして、そのように言い切れるのですか?」
「それは――此度、覚慶様が当家に使者として派遣なされたのが、あの男だからです」
「……明智十兵衛光秀ですか?」

 信繁の言わんとした者の名を口にした信廉は、訝しげに首を傾げる。

「はて? まつりごと音痴な私には図りかねますな。何故、あの明智が使者に選ばれた事が、覚慶様が斎藤を頼らない証になるのですか?」
「……解らぬか、逍遥? 明智氏は、美濃土岐氏の支流だ」

 信廉の問いかけに答えたのは、信玄だった。
 信玄の言葉に軽く頷いた信繁は、「それに」と付け加える。

「明智一族は、数年前に龍興の父である義龍に攻め滅ぼされ、あの男――明智光秀は、その最後の生き残りだ。……つまり、あの男からすれば、斎藤家は一族の仇に等しい」
「成程……そのような男をわざわざ使者に選んで当家に寄越したという事が、覚慶様が斎藤家ではなく当家を選ばれたという何よりの証拠という訳ですか」

 信繁の言いたい事を察した義信が、納得した様子で目を見開いた。
 そんな嫡子に軽く頷きながら、信玄も口を開く。

「……確かに、覚慶様が斎藤家を味方として頼りにするつもりならば、儂と景虎を和睦させようとしたり、今川と松平の戦いを止めさせたのと同様に、当家と斎藤の戦いも止めようとなさるだろうからな。――だが、今まで届いた御内書の中に、斎藤との和議を命じるものは無かった」
「そう言われれば、確かに……」

 そう声を漏らすと、義信は小さく息を吐いた。
 信繁は、口元に薄っすら笑みを浮かべると、「恐らく……」と切り出す。

「覚慶様は、斎藤家には御内書を送っておらぬのでしょう。今覚慶様が御座す近江の地は、六角家が治める地。六角家と斎藤家は、表向きは同盟を結んでおりますが、六角家の実権を握る承禎 (義賢)は、姉が嫁いだ土岐頼芸から美濃国を奪い取った斎藤家の事を大層憎んでいると聞きます。その関係で……」
「成程……それで、当家が斎藤と相争っておる事に関しては何も言わないのですね」
「大方……そういうところだろう」

 義信の言葉に、信玄も同意を示した。
 そして、口元に手で覆って軽く咳をしてから、信繁の顔を見据える。

「それが……お主が御内書に従うべきと考える、『八年前との状況の差』というものか?」
「はっ」

 信玄の問いかけに恭しく頭を下げた信繁は、すぐに顔を上げ、「――しかし」と続けた。

「八年前とは異なる状況は、それだけでは御座いませぬ」
「ほう、まだあるか。申してみよ」

 信繁の言葉を聞いた信玄は、眉根をピクリと上げ、顎髭を撫でながら、ずいと身を乗り出す。
 そして、自分の顔を真っ直ぐに見返す信繁に向けて、ニヤリと微笑みかけながら言った。

「――お主の考えを包み隠さずこの信玄に明かし、儂の心を従わせてみせるが良いぞ、典厩よ」
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