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第二部八章 使者
寒気と歓喜
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「うぅ……冷えるな……」
信玄たちが話し合いをしている部屋の襖の前で、片膝をついて控えていた昌幸は、そう呟いてぶるりと身を震わせた。
昨夜から降っていた雪は既に止み、雲の隙間から顔を出した日の光が躑躅ヶ崎館の庭を照らしていたものの、そんな弱い陽射しだけでは、冬の甲斐の厳しい寒さは殆ど緩まない。
人払いした信玄たちが部屋の中で話し始めてから、既に四半刻 (約三十分)近くが過ぎている。その間ずっと襖の前で控えて続けていた昌幸の体は、芯まで冷え切っていた。
冷たい床に触れ続けている足指の感覚は、とうの昔に失せていて、もはや何も感じない。
(まだ終わらぬのか……?)
氷よりも冷たくなった足の指を手で揉みながら、昌幸はチラリと背後の襖に目を向けた。
と、
「どうした、源五郎? もう耐えられぬか?」
彼の横で同じように控えていた奥近習衆の曽根昌世が、からかうような口調で声をかけてくる。
「お前も儂と同じ奥近習衆だったはずだが、これしきの寒さで音を上げるとは、随分と鈍ったようだのう」
「……拙者がいつ音を上げたと言いましたか、曽根様」
昌世の言葉にムッとしながら言い返した昌幸は、足指を揉む手を離した。
「ふん……この程度の寒さなど屁でもありませぬ。あと一刻は、このままで平気ですぞ」
そう強がってみせた昌幸は、含み笑いを浮かべている昌世の顔を見据える。
「むしろ、曽根様の方こそ大丈夫ですか?」
「……どういう意味だ?」
「いえ……曽根様は拙者よりも年を重ねられている分、刺すような冬の寒気が体に堪えているのではないかと」
「確かにお前よりは年上だが、斯様な心配をされるほど年を食ってもおらぬわ!」
昌幸の挑発混じりの軽口に、昌世は顔を顰めながら声を荒げた。
そして、「……よかろう!」と鋭く言い放つと、ピンと背筋を伸ばし、昌幸の顔をギロリと睨みつける。
「なれば、勝負しようぞ、源五郎! この寒気に相手より早く音を上げた方の負けだ、良いな!」
「いや、勝負って……」
戦意横溢な顔で鼻息を荒くしている昌世に対して、昌幸は引き攣った苦笑いを浮かべた。
「御勤めの最中に、我慢比べのような事をするなど……」
「どうした? 今更怖気づいたのか、源五郎?」
昌幸の呆れ声を遮った昌世は、からかうようにせせら笑ってみせる。
「美濃での働きは抜群だったと聞くが、主の傍に伺候する者としてはまだまだのようだのう。与力がこのような体たらくでは、典厩様もさぞや苦労なされ……」
「……応じましょうぞっ!」
昌世の挑発混じりの言葉にまんまと乗せられた昌幸は、憤然とした表情で、負けじとばかりに背筋を伸ばした。
「拙者の事を『まだまだ』と申された事、撤回させてみせましょう! 後で風邪などを召されても恨みっこなしですよ!」
「おう! その言葉、そっくりそのまま返してやろうぞ!」
頭の上から湯気を噴き出しそうな剣幕の昌幸に、昌世は不敵な笑みを浮かべながら応じる。
――と、その時、唐突に閉じられていた襖ががらりと開いた。
「……何を騒いでおるのだ、ふたりとも?」
襖を開けて部屋から出てきた信繁は、気合十分な昌幸と昌世の顔を見回しながら、呆れ混じりの声を上げる。
「「あ、いや……」」
信繁の問いかけにたじろぎながら、ふたりは気まずげに顔を見合わせた。
そんなふたりの反応に、信繁は怪訝な表情を浮かべながら首を傾げたが、気を取り直した様子で「……まあ、良い」と言葉を継ぐ。
「長い事待たせて済まなかったな。お屋形様との話は終わったぞ」
「あ……左様に御座いましたか」
信繁の言葉を聞いてハッとした昌幸は、周囲を見回して他に誰もいない事を確かめてから、潜めた声で尋ねた。
「で……御内書の件は、どうなりましたか?」
「うむ……」
昌幸の問いかけに、信繁は僅かに表情を引き締めてから小さく頷く。
「結論から申せば、お屋形様は御内書の御指示に従う事になさった」
「では……!」
信繁の答えを聞いた昌幸は、目を大きく見開いた。
「武田家は、越後と和睦を結ぶ事に――!」
「まあ、まだ確定した訳ではないがの」
昌幸の言葉に釘を刺すように口を挟んだのは、信繁の後に部屋から出てきた信廉である。
彼は、板敷きの廊下に片膝をついて控えていた昌世に向けて手招きをした。
「おい、孫次郎。お屋形様がお呼びだ」
「お屋形様が……?」
信廉の声に一瞬だけ訝しげな顔をした昌世だったが、すぐに表情を引き締める。
「畏まりました。直ちに」
そう答えて立ち上がった昌世は、信繁と信廉に軽く会釈をしてから部屋の中に入っていった。
彼が通り過ぎるのを待って襖を閉めた信廉は、廊下の冷たい空気にぶるりと身を震わせる。
「うう……今日は随分と寒いのう……」
「そうだな……」
大紋の上から腕を擦りながら弟の言葉に頷いた信繁は、片膝をついた姿勢のままでいる昌幸に顔を向けた。
「斯様に寒い中でずっと控えておったのか……大丈夫だったか、昌幸?」
「は、はいっ!」
信繁から気遣いの言葉をかけられた昌幸は、歓喜で表情を輝かせながら大きく頷く。
「もちろん大丈夫です! これしきの寒さなど、全く問題ありません!」
「ふふ……大丈夫と言う割に、寒さで声が震えておるようだがのう?」
昌幸の返事を聞いた信廉が、ニヤニヤと笑いながら彼を揶揄った。
それに対し、昌幸はムッとした顔をしながら言い返す。
「逍遥様、畏れながら! この声の震えは寒さによるものではなく、典厩様から気遣いの言葉を賜った感動からにございます!」
「ははは、まあ、そういう事にしといてやろう」
多分に強がりを含んだ昌幸の言葉に笑いながら言った信廉は、信繁の方を向いた。
「……とにかく、こんな寒々しい所で立ち話も何ですから、控えの間にでも移動しましょう。何か体が温まるものを用意させますゆえ」
「そうだな」
と、信廉の誘いに頷いた信繁は、片膝をついたままの昌幸に声をかける。
「お主も来い、昌幸」
「あ……はいっ!」
信繁の言葉に元気よく応えた昌幸……だったが、彼は返事とは裏腹に、なぜか片膝をついた姿勢のまま動かなかった。
そんな彼に、信繁は訝しげに尋ねる。
「……どうした? 行かぬのか?」
「あ、もちろん参ります!」
信繁の問いかけに慌てて答えた昌幸だったが、「参りますが……」と繰り返しながら顔を顰めた。
それを見た信繁が、ますます心配した様子で彼に声をかける。
「……大丈夫か? どこか具合でも悪くしたか?」
「い、いえ……そうではなく……」
信繁に尋ねられた昌幸は、気まずげに目を逸らしながら、小さな声で答えた。
「そ、その……あ、あまりの寒さに足の感覚が無くなってしまって……立てませぬ……」
信玄たちが話し合いをしている部屋の襖の前で、片膝をついて控えていた昌幸は、そう呟いてぶるりと身を震わせた。
昨夜から降っていた雪は既に止み、雲の隙間から顔を出した日の光が躑躅ヶ崎館の庭を照らしていたものの、そんな弱い陽射しだけでは、冬の甲斐の厳しい寒さは殆ど緩まない。
人払いした信玄たちが部屋の中で話し始めてから、既に四半刻 (約三十分)近くが過ぎている。その間ずっと襖の前で控えて続けていた昌幸の体は、芯まで冷え切っていた。
冷たい床に触れ続けている足指の感覚は、とうの昔に失せていて、もはや何も感じない。
(まだ終わらぬのか……?)
氷よりも冷たくなった足の指を手で揉みながら、昌幸はチラリと背後の襖に目を向けた。
と、
「どうした、源五郎? もう耐えられぬか?」
彼の横で同じように控えていた奥近習衆の曽根昌世が、からかうような口調で声をかけてくる。
「お前も儂と同じ奥近習衆だったはずだが、これしきの寒さで音を上げるとは、随分と鈍ったようだのう」
「……拙者がいつ音を上げたと言いましたか、曽根様」
昌世の言葉にムッとしながら言い返した昌幸は、足指を揉む手を離した。
「ふん……この程度の寒さなど屁でもありませぬ。あと一刻は、このままで平気ですぞ」
そう強がってみせた昌幸は、含み笑いを浮かべている昌世の顔を見据える。
「むしろ、曽根様の方こそ大丈夫ですか?」
「……どういう意味だ?」
「いえ……曽根様は拙者よりも年を重ねられている分、刺すような冬の寒気が体に堪えているのではないかと」
「確かにお前よりは年上だが、斯様な心配をされるほど年を食ってもおらぬわ!」
昌幸の挑発混じりの軽口に、昌世は顔を顰めながら声を荒げた。
そして、「……よかろう!」と鋭く言い放つと、ピンと背筋を伸ばし、昌幸の顔をギロリと睨みつける。
「なれば、勝負しようぞ、源五郎! この寒気に相手より早く音を上げた方の負けだ、良いな!」
「いや、勝負って……」
戦意横溢な顔で鼻息を荒くしている昌世に対して、昌幸は引き攣った苦笑いを浮かべた。
「御勤めの最中に、我慢比べのような事をするなど……」
「どうした? 今更怖気づいたのか、源五郎?」
昌幸の呆れ声を遮った昌世は、からかうようにせせら笑ってみせる。
「美濃での働きは抜群だったと聞くが、主の傍に伺候する者としてはまだまだのようだのう。与力がこのような体たらくでは、典厩様もさぞや苦労なされ……」
「……応じましょうぞっ!」
昌世の挑発混じりの言葉にまんまと乗せられた昌幸は、憤然とした表情で、負けじとばかりに背筋を伸ばした。
「拙者の事を『まだまだ』と申された事、撤回させてみせましょう! 後で風邪などを召されても恨みっこなしですよ!」
「おう! その言葉、そっくりそのまま返してやろうぞ!」
頭の上から湯気を噴き出しそうな剣幕の昌幸に、昌世は不敵な笑みを浮かべながら応じる。
――と、その時、唐突に閉じられていた襖ががらりと開いた。
「……何を騒いでおるのだ、ふたりとも?」
襖を開けて部屋から出てきた信繁は、気合十分な昌幸と昌世の顔を見回しながら、呆れ混じりの声を上げる。
「「あ、いや……」」
信繁の問いかけにたじろぎながら、ふたりは気まずげに顔を見合わせた。
そんなふたりの反応に、信繁は怪訝な表情を浮かべながら首を傾げたが、気を取り直した様子で「……まあ、良い」と言葉を継ぐ。
「長い事待たせて済まなかったな。お屋形様との話は終わったぞ」
「あ……左様に御座いましたか」
信繁の言葉を聞いてハッとした昌幸は、周囲を見回して他に誰もいない事を確かめてから、潜めた声で尋ねた。
「で……御内書の件は、どうなりましたか?」
「うむ……」
昌幸の問いかけに、信繁は僅かに表情を引き締めてから小さく頷く。
「結論から申せば、お屋形様は御内書の御指示に従う事になさった」
「では……!」
信繁の答えを聞いた昌幸は、目を大きく見開いた。
「武田家は、越後と和睦を結ぶ事に――!」
「まあ、まだ確定した訳ではないがの」
昌幸の言葉に釘を刺すように口を挟んだのは、信繁の後に部屋から出てきた信廉である。
彼は、板敷きの廊下に片膝をついて控えていた昌世に向けて手招きをした。
「おい、孫次郎。お屋形様がお呼びだ」
「お屋形様が……?」
信廉の声に一瞬だけ訝しげな顔をした昌世だったが、すぐに表情を引き締める。
「畏まりました。直ちに」
そう答えて立ち上がった昌世は、信繁と信廉に軽く会釈をしてから部屋の中に入っていった。
彼が通り過ぎるのを待って襖を閉めた信廉は、廊下の冷たい空気にぶるりと身を震わせる。
「うう……今日は随分と寒いのう……」
「そうだな……」
大紋の上から腕を擦りながら弟の言葉に頷いた信繁は、片膝をついた姿勢のままでいる昌幸に顔を向けた。
「斯様に寒い中でずっと控えておったのか……大丈夫だったか、昌幸?」
「は、はいっ!」
信繁から気遣いの言葉をかけられた昌幸は、歓喜で表情を輝かせながら大きく頷く。
「もちろん大丈夫です! これしきの寒さなど、全く問題ありません!」
「ふふ……大丈夫と言う割に、寒さで声が震えておるようだがのう?」
昌幸の返事を聞いた信廉が、ニヤニヤと笑いながら彼を揶揄った。
それに対し、昌幸はムッとした顔をしながら言い返す。
「逍遥様、畏れながら! この声の震えは寒さによるものではなく、典厩様から気遣いの言葉を賜った感動からにございます!」
「ははは、まあ、そういう事にしといてやろう」
多分に強がりを含んだ昌幸の言葉に笑いながら言った信廉は、信繁の方を向いた。
「……とにかく、こんな寒々しい所で立ち話も何ですから、控えの間にでも移動しましょう。何か体が温まるものを用意させますゆえ」
「そうだな」
と、信廉の誘いに頷いた信繁は、片膝をついたままの昌幸に声をかける。
「お主も来い、昌幸」
「あ……はいっ!」
信繁の言葉に元気よく応えた昌幸……だったが、彼は返事とは裏腹に、なぜか片膝をついた姿勢のまま動かなかった。
そんな彼に、信繁は訝しげに尋ねる。
「……どうした? 行かぬのか?」
「あ、もちろん参ります!」
信繁の問いかけに慌てて答えた昌幸だったが、「参りますが……」と繰り返しながら顔を顰めた。
それを見た信繁が、ますます心配した様子で彼に声をかける。
「……大丈夫か? どこか具合でも悪くしたか?」
「い、いえ……そうではなく……」
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