甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部八章 使者

再会と成長

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 「……やれやれ」

 底冷えする廊下を歩き、控えの間の襖を開けた信廉が、後ろを振り返って呆れ声を上げた。

「まったく……寄子 (与力)ともあろう者が、寄親に運んでもらってどうする」
「も、申し訳御座りませぬ……」

 信廉の言葉に、信繁の肩を借りながらよろよろと歩いていた昌幸は、心底申し訳なさそうに答える。

「しょ、逍遥様の仰る通り……たかが足が痺れただけで、典厩様のお手を煩わせてしまうなんて、面目次第もありませぬ……」

 そう情けない声で言った彼は、信繁に向かって頭を下げた。

「典厩様……お手を煩わせてしまって、何とお詫びを申し上げれば……」
「ははは、構わぬ」

 昌幸の侘びに、彼の体を傍らで支えていた信繁は笑いながら首を横に振る。

「日頃、お主には頼りっ放しだからな。たまには、お主に借りを返さんとな」
「典厩様……!」
「それに……あのままお主が立ち上がるのを悠長に待っていたら、儂の体も芯まで凍えてしまいそうだったからな」
「……本当に申し訳御座いませぬ」

 軽口混じりの信繁の言葉に赤面しながら、昌幸はもう一度深々と頭を下げた。
 と、

「まあ、それはさておき、く部屋の中へ」

 寒さにぶるりと身を震わせながら、信廉が兄を促す。

「先ほど小者に命じて、火を熾させておきましたから」
「おお、それは気が利くな」

 信繁は、信廉の言葉に声を弾ませ、昌幸に肩を貸したまま急いで控えの間に入った。
 信廉の言う通り、小さな控えの間の中央に置かれた火鉢の中の炭には赤い火が灯っている。
 昌幸を火鉢を囲むように敷かれた円座わろうだに座らせ、自分も上座に置かれた円座の上に腰を下ろした信繁は、火鉢の火に両手を翳した。

「ふう……暖かい。生き返るようだ」
「左様にございますなぁ」

 彼と同じように手を炙りながら、信廉が呑気な声を上げる。
 凍え切って感覚の無くなった足を揉みながら、昌幸もふたりの言葉に何度も頷いた。
 ――と、先ほど閉めたばかりの襖が静かに開く。
 襖を開けた年老いた女は、廊下の床に手をつき、信繁たちに向かって深々と頭を下げる。

「……逍遥軒様、仰せの通り、お連れ致しました」
「おお、ご苦労」

 女の言葉に鷹揚に頷いた信廉は、信繁に顔を向けた。

「実は、是非に典厩様に御挨拶したいという女性にょしょうがおりましてな。お通ししても宜しいですかな?」
「挨拶したいという女性? 儂にか?」

 信廉の言葉に、信繁は怪訝な表情を浮かべる。

「はて? どなたかな?」
「お喜び下さい。まだうら若き女子ですぞ」

 首を傾げる信繁にニヤリと微笑みかけた信廉は、襖の方に向き直り、大仰に頷きかけた。
 それを見た老女は、もう一度深々と頭を下げてから膝退 (膝をついたまま後ろに退がる事)し、平伏する。
 すると、鮮やかな紅色の打掛を羽織った小袖姿の女が、しずしずと控えの間に入って来た。
 少し緊張した面持ちの女は、信繁たちの前で膝をついて座り、両手をついて深々と頭を下げ、鈴を転がすような声で挨拶の言葉を述べる。

「……お久しゅうございます、武田典厩様」
「おお……!」

 まだ幼さを残す彼女の顔を見た信繁は、思わず嘆声を漏らし、それから柔らかな笑みを浮かべた。

「これは龍姫。こちらこそ、久方ぶりに御座る。ご健勝であらせられたか?」
「はい」

 信繁に温かな声をかけられた少女――美濃苗木城城主・遠山直廉の一人娘である龍は、表情を綻ばせながら頷く。
 ――彼女は、一か月半ほど前に、苗木遠山家の人質として、ここ躑躅ヶ崎館へと送られてきたのだ。

「お陰様で、日々を楽しく過ごせております」
「それは何より」

 信繁は、龍の言葉に頷き返した。
 人質として送られてきた以上は、何不自由もなくとはいかないだろうが、今の龍の様子から鬱屈としたものはあまり感じられない。
 その事に安堵しながら、信繁は優しい表情で言葉を継ぐ。

「もしも、生活する上で何か足らぬものがあれば、遠慮なく申し出されよ。出来うる限り姫の希望に沿うよう、儂から西曲輪 (人質曲輪)の方に申し伝えておくゆえ」
「ありがとうございます」

 信繁の言葉に嬉しそうに微笑みながら、龍は小さく首を横に振った。

「ですが……特に不自由は感じておりませぬ。あまり外に出られないので少し退屈なのは確かですが、西曲輪には他家の方たちも居られますし……それに、綾様が良く遊びに来てくれますから」
「綾が?」

 彼女の言葉を聞いた信繁は、思わず目を丸くする。
 そんな彼の顔を見ながら、龍はニッコリと笑って頷いた。

「ええ。いっしょに貝合わせやお手玉をしたり……それに、色々なお話もたくさん聞かせて頂いて……とても仲良くして頂いております」
「そうか……綾が、そのような事を」

 龍の話に、信繫は思わず感嘆の息を吐く。

(以前に送った文で、親元から離れて寂しい思いをしている龍姫の良き遊び相手になってくれるよう綾に頼んだが……その役目を律儀に果たしてくれておったのだな……)

 ついこの間まではいかにも子どもっぽかった綾が、自分の知らぬ間に著しく成長を遂げていた事を知った信繁は、嬉しいような――それでいて少し寂しいような、複雑な気持ちを抱いた。
 感慨深い表情を浮かべている信繁をちらりと見た信廉は、微笑みながら龍に尋ねる。

「ほほう、綾姫の色々なお話とは……たとえば、どのような事かな?」
「そうですね……」

 信廉に水を向けられた龍は、綾との会話を思い出して笑みを漏らしながら答えた。

「甲斐の昔話ですとか……お家のお話も……そう、今は小諸城に居られるというお兄君 (六郎次郎信豊)の事を特にたくさん……」
「ほう、六郎次郎の事を」

 龍の答えを聞いた信廉は、信繁に笑いかける。

「六郎次郎の奴がそれを聞いたら、さぞや喜ぶでしょうなぁ」
「だろうな」

 信廉の言葉に、信繁も苦笑いしながら頷いた。

「あいつは、妹の事を大層可愛がっておったからな……」
「龍姫……綾姫は、他の者に関しても何か言っておったかな?」

 興味津々といった様子で龍に尋ねた信廉は、期待に満ちた顔で自分の事を指さす。

「たとえば――この私の事とか……」
「え……あ、そ、そうですね……」

 信廉の問いかけに、龍は明らかに困った表情を浮かべた。

「その……逍遥様の事も……時々お話してた……気がするような……はい……」
「あ……左様か……」

 曖昧に語尾を濁した龍の返事で色々と察した信廉は、落胆を隠せぬ様子で肩を落とすのだった……。
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