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第二部八章 使者
弔辞と誘い
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――と、
「……それで」
拳を口元に当てて軽く咳払いした信繁は、居ずまいを正しながら、龍に向けて重い口を開いた。
「龍姫、その……既に聞き及んでおろうが……」
「「……!」」
信繁が何を言おうとしているのかを察した信廉と昌幸も表情を改め、背筋を伸ばす。
そんな彼らの反応を見て、無意識に腿の上で組んだ手に力を込めた龍は、僅かに目を伏せて頷いた。
「……はい。母の事ですね」
「……うむ」
僅かに上ずる龍の声を耳にして、胸が痛むのを感じながら、信繁は小さく頷く。
「此度の件……真に残念な事であった。心よりお悔やみ申し上げる」
「……ありがとうございます」
信繁からの哀悼の言葉に、一瞬泣き出しそうな表情を浮かべた龍だったが、すぐにキュッと唇を結んだ。
「――苗木であのような事を仕出かしたにもかかわらず、母へ御慈悲に満ちた御言葉をかけて頂き……娘として深く御礼申し上げます」
気丈に振る舞い、信繁に深く頭を垂れた龍だったが、その肩は小刻みに震える。
顔を伏せたまま、押し殺し切れない嗚咽を漏らす少女を、三人の男たちは神妙な表情を浮かべながら静かに見守っていた。
――それから少ししてから、
「……失礼いたしました」
目元を袖で拭いながら顔を上げた龍が、はにかみ笑いを浮かべながら信繁たちに詫びる。
そして、僅かに赤くなった目で信繁の顔を真っ直ぐ見ながら、「……ところで」と、微かに震える声で尋ねた。
「先日、わたしの元に届いた報せでは……母の一行は、賊に襲われたとの事でしたが……?」
「……うむ」
龍の問いかけに一瞬だけ間を置いてから、信繁は静かに頷く。
「……どうやら、尾張と美濃の国境を根城としていた山賊どもが、琴殿一行が運んでいた金品を狙って襲撃したらしい。恐らく……琴殿は、狭い山道で逃げる事もままならず、山賊どもと護衛の者らの戦いに巻き込まれ……」
美濃から甲斐へ戻る途中の岩村城の一室で秋山虎繁らと交わした、琴の最期についての会話を頭の片隅で思い返しながらも、信繁はその時に到った『琴は何者かによって口封じされた』という確信に近い推測を龍に伝える事を憚った。
それは、もはや単なる“ひとりの女の死”にとどまらない、高度に政治的な意図を含むもので、軽々しく口にすべきものではないし――何より、まだ齢十二の娘に、自分の母親がそのような政の犠牲となった可能性を伝える事に抵抗を覚えたのである。
語尾を曖昧にぼかした信繁は、誤魔化すように咳払いをしてから言葉を継いだ。
「――琴殿の亡骸は、麓の村に住む杣人らの報せで駆け付けた織田家中の兵によって尾張に運ばれ、織田家の菩提寺である萬松寺で懇ろに弔われたという事だ」
「――そうでしたか」
信繁の言葉を聞いた龍は、母の最期に思いを巡らせて沈痛な表情を浮かべながら、小さく頷く。
「……それを聞いて安堵いたしました。織田家の菩提寺に弔われたならば、母の魂は祖霊と共に、安らかに眠れるでしょうから……」
「……」
「……それでは」
どこか寂しげな微笑みを浮かべながら、龍は板の間に指をついた。
「わたしはこの辺でお暇いたしとうございます。皆様、ご歓談中にお邪魔いたしまして、申し訳ございませんでした」
「いや……邪魔などとは、とんでもない」
龍の言葉に、信繁は軽く首を横に振った。
「むしろ、儂に会う為だけに、西曲輪からわざわざここまで足を運んで頂き、かたじけのう御座った」
そう言って彼女へ微笑みかけた彼は、優しい声で言う。
「甲斐の冬は大層冷える。くれぐれも風邪などひかれぬようお気をつけられよ」
「はい」
信繁の声に頷いた龍は、口元を綻ばせながら小さく頷いた。
「お気遣い頂きまして、ありがとうございます。それでは――」
「ああ、それと」
頭を下げて辞去しようとする龍に、信繁は再び声をかける。
そして、不意に呼び止められた事に対し、少し緊張した表情を浮かべる彼女に穏やかな笑みを向けながら、言葉を継いだ。
「いつでも構わぬから、我が屋敷へ参られよ。心より歓迎いたそうぞ」
「典厩様のお屋敷に……?」
意外な申し出に目を丸くする龍に、信繁は首を傾げる。
「おや? 苗木城を出る時に、四郎へ言付けしておいたはずだが……聞いておらなんだか?」
「あ、いえ……」
龍は、“四郎”の名を耳にした瞬間、僅かに頬を赤らめながら頭を振った。
「その……四郎様からお話は伺っておりましたが……人質の身のわたしに、武田家の副将であらせられる典厩様が本気で申されたとは俄かには信じられず……」
「儂が、冗談で申したと思われたのか」
「申し訳ございませぬ……」
「……いや、良い」
慌てて頭を下げようとする龍を、信繁は鷹揚に制する。
「確かに、又聞きではきちんと伝わらなかったかもしれぬ。儂の考えが足りなかったな」
そう呟いて苦笑いを浮かべた信繁は、当惑の表情を浮かべている龍に優しく微笑みかけた。
「……まあ、とにかく、龍姫を我が屋敷に誘ったのは、世辞でも冗談でもない。気の向いた時に参られるが良い。儂は不在かもしれぬが、我が妻と綾が、そなたの事を心を尽くして持て成すであろう」
「おお、それは良い」
信繁の言葉に、信廉も大きく頷く。
「義姉上……桔梗殿の手料理は絶品であるからな。期待して損は御座らぬぞ。……まあ、あまりに美味すぎるので、ついつい食べ過ぎぬように気を付けねばならぬがな」
そう言うと、信廉は自分の膨らんだ腹を叩いてみせた。
「さもないと、この私のようにブクブクと肥え太ってしまいますからなっ」
「ふふっ……はい、畏まりました」
おどけた調子の信廉の言葉に思わず吹き出しながら、龍は嬉しそうに大きく頷いたのだった。
「……それで」
拳を口元に当てて軽く咳払いした信繁は、居ずまいを正しながら、龍に向けて重い口を開いた。
「龍姫、その……既に聞き及んでおろうが……」
「「……!」」
信繁が何を言おうとしているのかを察した信廉と昌幸も表情を改め、背筋を伸ばす。
そんな彼らの反応を見て、無意識に腿の上で組んだ手に力を込めた龍は、僅かに目を伏せて頷いた。
「……はい。母の事ですね」
「……うむ」
僅かに上ずる龍の声を耳にして、胸が痛むのを感じながら、信繁は小さく頷く。
「此度の件……真に残念な事であった。心よりお悔やみ申し上げる」
「……ありがとうございます」
信繁からの哀悼の言葉に、一瞬泣き出しそうな表情を浮かべた龍だったが、すぐにキュッと唇を結んだ。
「――苗木であのような事を仕出かしたにもかかわらず、母へ御慈悲に満ちた御言葉をかけて頂き……娘として深く御礼申し上げます」
気丈に振る舞い、信繁に深く頭を垂れた龍だったが、その肩は小刻みに震える。
顔を伏せたまま、押し殺し切れない嗚咽を漏らす少女を、三人の男たちは神妙な表情を浮かべながら静かに見守っていた。
――それから少ししてから、
「……失礼いたしました」
目元を袖で拭いながら顔を上げた龍が、はにかみ笑いを浮かべながら信繁たちに詫びる。
そして、僅かに赤くなった目で信繁の顔を真っ直ぐ見ながら、「……ところで」と、微かに震える声で尋ねた。
「先日、わたしの元に届いた報せでは……母の一行は、賊に襲われたとの事でしたが……?」
「……うむ」
龍の問いかけに一瞬だけ間を置いてから、信繁は静かに頷く。
「……どうやら、尾張と美濃の国境を根城としていた山賊どもが、琴殿一行が運んでいた金品を狙って襲撃したらしい。恐らく……琴殿は、狭い山道で逃げる事もままならず、山賊どもと護衛の者らの戦いに巻き込まれ……」
美濃から甲斐へ戻る途中の岩村城の一室で秋山虎繁らと交わした、琴の最期についての会話を頭の片隅で思い返しながらも、信繁はその時に到った『琴は何者かによって口封じされた』という確信に近い推測を龍に伝える事を憚った。
それは、もはや単なる“ひとりの女の死”にとどまらない、高度に政治的な意図を含むもので、軽々しく口にすべきものではないし――何より、まだ齢十二の娘に、自分の母親がそのような政の犠牲となった可能性を伝える事に抵抗を覚えたのである。
語尾を曖昧にぼかした信繁は、誤魔化すように咳払いをしてから言葉を継いだ。
「――琴殿の亡骸は、麓の村に住む杣人らの報せで駆け付けた織田家中の兵によって尾張に運ばれ、織田家の菩提寺である萬松寺で懇ろに弔われたという事だ」
「――そうでしたか」
信繁の言葉を聞いた龍は、母の最期に思いを巡らせて沈痛な表情を浮かべながら、小さく頷く。
「……それを聞いて安堵いたしました。織田家の菩提寺に弔われたならば、母の魂は祖霊と共に、安らかに眠れるでしょうから……」
「……」
「……それでは」
どこか寂しげな微笑みを浮かべながら、龍は板の間に指をついた。
「わたしはこの辺でお暇いたしとうございます。皆様、ご歓談中にお邪魔いたしまして、申し訳ございませんでした」
「いや……邪魔などとは、とんでもない」
龍の言葉に、信繁は軽く首を横に振った。
「むしろ、儂に会う為だけに、西曲輪からわざわざここまで足を運んで頂き、かたじけのう御座った」
そう言って彼女へ微笑みかけた彼は、優しい声で言う。
「甲斐の冬は大層冷える。くれぐれも風邪などひかれぬようお気をつけられよ」
「はい」
信繁の声に頷いた龍は、口元を綻ばせながら小さく頷いた。
「お気遣い頂きまして、ありがとうございます。それでは――」
「ああ、それと」
頭を下げて辞去しようとする龍に、信繁は再び声をかける。
そして、不意に呼び止められた事に対し、少し緊張した表情を浮かべる彼女に穏やかな笑みを向けながら、言葉を継いだ。
「いつでも構わぬから、我が屋敷へ参られよ。心より歓迎いたそうぞ」
「典厩様のお屋敷に……?」
意外な申し出に目を丸くする龍に、信繁は首を傾げる。
「おや? 苗木城を出る時に、四郎へ言付けしておいたはずだが……聞いておらなんだか?」
「あ、いえ……」
龍は、“四郎”の名を耳にした瞬間、僅かに頬を赤らめながら頭を振った。
「その……四郎様からお話は伺っておりましたが……人質の身のわたしに、武田家の副将であらせられる典厩様が本気で申されたとは俄かには信じられず……」
「儂が、冗談で申したと思われたのか」
「申し訳ございませぬ……」
「……いや、良い」
慌てて頭を下げようとする龍を、信繁は鷹揚に制する。
「確かに、又聞きではきちんと伝わらなかったかもしれぬ。儂の考えが足りなかったな」
そう呟いて苦笑いを浮かべた信繁は、当惑の表情を浮かべている龍に優しく微笑みかけた。
「……まあ、とにかく、龍姫を我が屋敷に誘ったのは、世辞でも冗談でもない。気の向いた時に参られるが良い。儂は不在かもしれぬが、我が妻と綾が、そなたの事を心を尽くして持て成すであろう」
「おお、それは良い」
信繁の言葉に、信廉も大きく頷く。
「義姉上……桔梗殿の手料理は絶品であるからな。期待して損は御座らぬぞ。……まあ、あまりに美味すぎるので、ついつい食べ過ぎぬように気を付けねばならぬがな」
そう言うと、信廉は自分の膨らんだ腹を叩いてみせた。
「さもないと、この私のようにブクブクと肥え太ってしまいますからなっ」
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