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第二部八章 使者
方策と懸念
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「……健気な娘御でしたな」
龍が部屋を辞した後、信廉がぽつりと漏らした。
「母親の死の話にはさすがに動揺したようですが、取り乱す事も無く……いかにも手弱女そうな容貌に似合わず、随分と気丈なようで」
「そのようです」
信廉の言葉に、昌幸も同意する。
「遠山大和守殿の奥方の侍女に扮して苗木城に潜入していた佐助の話によると、先日の件でも、全身に返り血を浴びた家臣を引き連れた母親を前にしても臆さず、毅然とした物言いで意見していたとか」
「ほう……それはなかなかの肝の据わりぶりよ」
昌幸の言葉を聞いた信廉が、感嘆混じりの声を上げた。
信繁も、数ヶ月前の苗木城での出来事を思い出しながら微笑む。
「……そういえば、彼女の大叔母であるつや殿も、かなりの女傑であった。……これは、血筋なのかもしれぬな」
「血筋……織田家のですか?」
「ああ」
信廉の問い返しに、信繁は小さく頷く。
それを見た信廉は、苦笑を浮かべた。
「いやはや……織田家の息女は美人揃いとは聞いておりましたが、性格にも血筋が出ますか」
「当主の信長も、かなり苛烈な為人だと聞く」
――『ここだけの話、我が殿はかなり気性の激しい御方でして……』
去年、信玄が労咳の発作によって倒れた時に、見舞いの使者として織田家から送られてきた木下藤吉郎秀吉の言葉が、信繁の脳裏をチラリと過ぎる。
――同時に、つい先日に山道の祠で見えた秀吉の嫌味に満ちた慇懃無礼な態度と言動をも思い出してしまい、湧き上がった不快感で思わず顔を顰めた。
そんな信繁の表情の変化に気付いた信廉が、ギョッとした顔をする。
「ど……どうかなされましたか? 急に怖い顔をして……」
「……いや、何でもない」
おずおずと尋ねかけた信廉の声でハッと我に返った信繁は、慌てて表情を取り繕いながら、軽く頭を振った。
「……ただ、少し嫌な事を思い出しただけだ。気にするな」
そう答えた信繁は、気を取り直すように小さく息を吐く。
そんな彼の様子を前に、信廉と昌幸は心配そうに顔を見合わせた。
……と、信廉が、無言で昌幸に向かって顎をしゃくる。
それに気付いて怪訝な表情を浮かべる昌幸に、信廉は信繁に悟られぬように、声は出さず、目と口の動きだけで昌幸に告げた。
(何だか分からぬが、次郎兄が御機嫌斜めだ。何とかせい、源五郎)
(はぁ……? 拙者がですか?)
唐突に信廉から無茶を言われた昌幸は、困惑を隠せぬ様子で、口の動きで信廉に応える。
そんな彼に対して、(早うせい)と言わんばかりに、なおも顎をしゃくる信廉。
(えぇ……?)
問答無用で急かされて、思わず眉を顰める昌幸だったが、主君の弟にして家臣団の重鎮でもある信廉の命には逆らえない。
諦め顔で小さく溜息を吐いた昌幸は、何やら難しい顔をして考え込んでいる信繁に向けて、努めて明るい口調で切り出した。
「――と、ところで、典厩様っ!」
「ん?」
昌幸の声に目を上げた信繁が、訝しげに首を傾げる。
「どうした、昌幸?」
「あ……その……」
信繁に問いかけたものの、実はまだ何を尋ねるか考えていなかった昌幸は、次の言葉に迷って、目を泳がせた。
……が、すぐに何かを思い出した様子で目を輝かせ、言葉を継ぐ。
「そういえば……先ほどのお屋形様とのお話の詳しい内容、まだ伺っておりませんでした! 差し支えなければ、是非ともお伺いしとう御座ります」
「……ああ、その事か。確かに、話が途中だったな」
昌幸の言葉に、信繁もハッとした。
そして、顎髭を指で撫でながら、いつもの落ち着いた声で話し始める。
「――確か、先ほどは『お屋形様が覚慶様の御内書に従う事を決めた』というところまで言うたのだったな」
「はい」
信繁の確認の問いかけに、昌幸は頷きながら身を乗り出した。
「それで……これから当家はどのように?」
「とりあえず、御内書への正式な回答は、上杉の反応を見てからという事に相成った」
そう答えた信繁は、火鉢の中で赤く燃える炭に目を落としながら、言葉を継ぐ。
「近日中に越後へ向けて発つという、あの覚慶様の使者――確か、明智十兵衛と申したか……に、曽根孫次郎を付ける事にした。『覚慶様の使者が、雪深い信越国境を安全に越えられるよう道案内をする』という名目でな」
「曽根様を? ……ああ、だから、先ほどお屋形様に呼ばれたのですね」
信繁の言葉を聞いた昌幸は、納得した様子で小さく頷くが、すぐに胡乱げな表情を浮かべた。
「……しかし、何故曽根様なのですか? 信越国境の道案内でしたら、曽根様より適任の者が他にもいるかと……」
「なんじゃ、源五郎? 覚慶様の道案内が孫次郎ごときでは心許ないか?」
「あ、いえ……決してそういう訳では……」
からかうように尋ねる信廉の問いかけに慌てて頭を振った昌幸だったが、腑に落ちぬ顔をしている。
そんな彼に苦笑を向けながら、信繁は言った。
「もちろん、“越後への道案内”というのは、表向きの名目……方便に過ぎぬ」
「方便……ですか?」
「ああ。道案内を装って明智十兵衛と共に越後国内に入り、此度の御内書の件に対する越後方の……上杉輝虎の反応と思惑を、孫次郎の目と耳を以て読み取るのが、真の目的だ」
「……それと、万が一にもあの明智十兵衛が上杉方に肩入れするような動きをせぬように、それとなく牽制する意味もある」
信廉が、信繁の言葉を補足するように付け加える。
ふたりの話を聞いた昌幸は、顎に指を当てて考え込んだ。
「……しかし、いかに覚慶様の使いと同道しているとしても、武田家と明確に敵対している上杉家が、お屋形様の懐刀である奥近習衆の曽根様をそうやすやすと国内へ入れるでしょうか?」
「ふむ……」
「それに……明智十兵衛が、上杉家の心情を慮って曽根様の同道を断る可能性もあるかと……」
「そうだな。もちろん、その可能性も有り得る」
昌幸の意見に、意外にも信繁はあっさりと頷き――それから、ニヤリと笑みを浮かべながら、「もし、お主の言う通りになるならば――」と続ける。
「――当家は此度の御内書の求めには応じぬ。それだけよ」
龍が部屋を辞した後、信廉がぽつりと漏らした。
「母親の死の話にはさすがに動揺したようですが、取り乱す事も無く……いかにも手弱女そうな容貌に似合わず、随分と気丈なようで」
「そのようです」
信廉の言葉に、昌幸も同意する。
「遠山大和守殿の奥方の侍女に扮して苗木城に潜入していた佐助の話によると、先日の件でも、全身に返り血を浴びた家臣を引き連れた母親を前にしても臆さず、毅然とした物言いで意見していたとか」
「ほう……それはなかなかの肝の据わりぶりよ」
昌幸の言葉を聞いた信廉が、感嘆混じりの声を上げた。
信繁も、数ヶ月前の苗木城での出来事を思い出しながら微笑む。
「……そういえば、彼女の大叔母であるつや殿も、かなりの女傑であった。……これは、血筋なのかもしれぬな」
「血筋……織田家のですか?」
「ああ」
信廉の問い返しに、信繁は小さく頷く。
それを見た信廉は、苦笑を浮かべた。
「いやはや……織田家の息女は美人揃いとは聞いておりましたが、性格にも血筋が出ますか」
「当主の信長も、かなり苛烈な為人だと聞く」
――『ここだけの話、我が殿はかなり気性の激しい御方でして……』
去年、信玄が労咳の発作によって倒れた時に、見舞いの使者として織田家から送られてきた木下藤吉郎秀吉の言葉が、信繁の脳裏をチラリと過ぎる。
――同時に、つい先日に山道の祠で見えた秀吉の嫌味に満ちた慇懃無礼な態度と言動をも思い出してしまい、湧き上がった不快感で思わず顔を顰めた。
そんな信繁の表情の変化に気付いた信廉が、ギョッとした顔をする。
「ど……どうかなされましたか? 急に怖い顔をして……」
「……いや、何でもない」
おずおずと尋ねかけた信廉の声でハッと我に返った信繁は、慌てて表情を取り繕いながら、軽く頭を振った。
「……ただ、少し嫌な事を思い出しただけだ。気にするな」
そう答えた信繁は、気を取り直すように小さく息を吐く。
そんな彼の様子を前に、信廉と昌幸は心配そうに顔を見合わせた。
……と、信廉が、無言で昌幸に向かって顎をしゃくる。
それに気付いて怪訝な表情を浮かべる昌幸に、信廉は信繁に悟られぬように、声は出さず、目と口の動きだけで昌幸に告げた。
(何だか分からぬが、次郎兄が御機嫌斜めだ。何とかせい、源五郎)
(はぁ……? 拙者がですか?)
唐突に信廉から無茶を言われた昌幸は、困惑を隠せぬ様子で、口の動きで信廉に応える。
そんな彼に対して、(早うせい)と言わんばかりに、なおも顎をしゃくる信廉。
(えぇ……?)
問答無用で急かされて、思わず眉を顰める昌幸だったが、主君の弟にして家臣団の重鎮でもある信廉の命には逆らえない。
諦め顔で小さく溜息を吐いた昌幸は、何やら難しい顔をして考え込んでいる信繁に向けて、努めて明るい口調で切り出した。
「――と、ところで、典厩様っ!」
「ん?」
昌幸の声に目を上げた信繁が、訝しげに首を傾げる。
「どうした、昌幸?」
「あ……その……」
信繁に問いかけたものの、実はまだ何を尋ねるか考えていなかった昌幸は、次の言葉に迷って、目を泳がせた。
……が、すぐに何かを思い出した様子で目を輝かせ、言葉を継ぐ。
「そういえば……先ほどのお屋形様とのお話の詳しい内容、まだ伺っておりませんでした! 差し支えなければ、是非ともお伺いしとう御座ります」
「……ああ、その事か。確かに、話が途中だったな」
昌幸の言葉に、信繁もハッとした。
そして、顎髭を指で撫でながら、いつもの落ち着いた声で話し始める。
「――確か、先ほどは『お屋形様が覚慶様の御内書に従う事を決めた』というところまで言うたのだったな」
「はい」
信繁の確認の問いかけに、昌幸は頷きながら身を乗り出した。
「それで……これから当家はどのように?」
「とりあえず、御内書への正式な回答は、上杉の反応を見てからという事に相成った」
そう答えた信繁は、火鉢の中で赤く燃える炭に目を落としながら、言葉を継ぐ。
「近日中に越後へ向けて発つという、あの覚慶様の使者――確か、明智十兵衛と申したか……に、曽根孫次郎を付ける事にした。『覚慶様の使者が、雪深い信越国境を安全に越えられるよう道案内をする』という名目でな」
「曽根様を? ……ああ、だから、先ほどお屋形様に呼ばれたのですね」
信繁の言葉を聞いた昌幸は、納得した様子で小さく頷くが、すぐに胡乱げな表情を浮かべた。
「……しかし、何故曽根様なのですか? 信越国境の道案内でしたら、曽根様より適任の者が他にもいるかと……」
「なんじゃ、源五郎? 覚慶様の道案内が孫次郎ごときでは心許ないか?」
「あ、いえ……決してそういう訳では……」
からかうように尋ねる信廉の問いかけに慌てて頭を振った昌幸だったが、腑に落ちぬ顔をしている。
そんな彼に苦笑を向けながら、信繁は言った。
「もちろん、“越後への道案内”というのは、表向きの名目……方便に過ぎぬ」
「方便……ですか?」
「ああ。道案内を装って明智十兵衛と共に越後国内に入り、此度の御内書の件に対する越後方の……上杉輝虎の反応と思惑を、孫次郎の目と耳を以て読み取るのが、真の目的だ」
「……それと、万が一にもあの明智十兵衛が上杉方に肩入れするような動きをせぬように、それとなく牽制する意味もある」
信廉が、信繁の言葉を補足するように付け加える。
ふたりの話を聞いた昌幸は、顎に指を当てて考え込んだ。
「……しかし、いかに覚慶様の使いと同道しているとしても、武田家と明確に敵対している上杉家が、お屋形様の懐刀である奥近習衆の曽根様をそうやすやすと国内へ入れるでしょうか?」
「ふむ……」
「それに……明智十兵衛が、上杉家の心情を慮って曽根様の同道を断る可能性もあるかと……」
「そうだな。もちろん、その可能性も有り得る」
昌幸の意見に、意外にも信繁はあっさりと頷き――それから、ニヤリと笑みを浮かべながら、「もし、お主の言う通りになるならば――」と続ける。
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