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第二部八章 使者
役目と適任
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「え……?」
信繁の言葉に、昌幸は思わず首を傾げた。
「その……『御内書の求めには応じぬ』と申されましたが、先ほどのお屋形様との話し合いでは、上杉との和睦を進めると決まったはずでは……?」
「ああ、そうだ」
昌幸の問いにあっさり頷く信繁。
そして、彼の答えに当惑の表情を浮かべる昌幸に苦笑いを向ける。
「ははは……そのような顔をするな。御内書の求めを蹴るのは、あくまで上杉家……或いは明智十兵衛が、孫次郎の同行を拒んだ場合のみだ」
「というか……」
信繁の言葉を補うように、信廉も口を開いた。
「実際のところは、越後方も明智も曽根の同道を拒む事は無いだろうから、そのような事態にはなるまいというのが、お屋形様と典厩様の一致した見立てよ」
「そういう事だ」
信廉の言葉に、信繁はコクンと頷く。
「先ほど、お屋形様に御目通りした際の明智十兵衛の様子から考えて、覚慶様……いや、明智は、当家と上杉が和睦する事を心から望んでおるようだ。だから、我らの機嫌を損ねて和睦の話が流れぬよう、こちらの要求や申し出には出来得る限り応じるであろう」
「恐らく……此度の件で目覚ましい成果を上げる事で、将軍家に自分をより高く売り込もうという魂胆があるのでしょうなぁ」
信繁の言葉に頷きながら、信廉はくっくっと笑った。
「何せ、『犬猿の仲』どころか『龍虎の仲』と喩えた方が相応しいほどに拗れまくっている武田と上杉ですから……。そんな両家の手を首尾よく結ばせる事が出来れば、あの男の評価は鰻上りでしょう」
「それに……先ほどのお屋形様とのお話し合いの中でもあったように、上杉方も決して当家との和睦を望んでおらぬ訳ではないようですしね」
信廉の推測に同意を示した昌幸は、考え込むように顎を撫でる。
「であれば……覚慶様の使者である明智殿が同道を許している曽根様を追い返すような真似はしないでしょう。もしそんな事をすれば、当家に対する重大な非礼となり、和睦の交渉どころの話ではなくなりますし……」
「当家だけではない」
信繁は、昌幸の言葉に頷きながらも、更に言葉を継いだ。
「覚慶様から見れば、上杉方のせいで御自身の意向が潰された事になる。それは、覚慶様……いや、足利将軍家の顔に泥を塗るようなものだ」
「上杉輝虎としては、それは是が非でも避けたいところでしょうな。下手をすれば、せっかく七免許を与えられるほどに太くした将軍家との繋がりを自分から断ち切る事になりかねませぬから……」
「確かに……」
ふたりの話を聞いた昌幸は、軽く頭を下げる。
「得心いたしました。斯様な読みがあった上での御決断でしたか」
「そういう事だ」
昌幸の言葉に小さく頷いた信繁は、火鉢の中に手をかざしながら、更に話を継いだ。
「もちろん、ただの道案内だけなら、何も孫次郎でなくとも構わぬだろうが、上杉の動向をそれとなく探るという役目がある以上、目端と機転の利く者でなくば務まらぬ」
「それで、奥近習衆筆頭である曽根を道案内役に……という訳よ」
信繁の言葉を引き継いだ信廉が、したり顔を浮かべる。
「何せ、あやつはお屋形様から『我が耳目』と信頼されている男だからのう。相手方の出方を見極める此度の役目には最適であろう」
「なるほど……」
昌幸は納得した様子で頷いた。
「曽根様なら、確かに適任かと」
「実はの……」
そんな彼に、信廉がニヤリと笑みかける。
「最初、お屋形様は、その役目をお主に任せようと言うておられたのだ」
「拙者に? お屋形様がですか?」
信廉の言葉を聞いた昌幸が、目を丸くした。
そんな彼の問いかけに、信繁が「ああ」と答える。
「『源五郎ならば、越後の内情を他の者には気付かぬところまで見通し、必ずや儂に有益な報せを齎してくれるに違いない』とな」
「……だが、若殿と典厩様が、『まだ美濃から帰陣したばかりなのに、越後に向かわせるのは酷でしょう』と反対して、結局は曽根に白羽の矢が立ったという訳だ」
信廉が、信繁の話を補足するように言った。
それに小さく頷いた信繁は、昌幸の顔を窺うように見ながら尋ねる。
「ひょっとして、余計な口出しだったかな?」
「いえ、滅相も御座りませぬ!」
信繁の問いかけに、昌幸は大きく頭を振った。
「むしろ、典厩様や若殿が拙者如きの身を案じ気遣って頂いたと知り、天にも昇るほどに嬉しゅう御座ります! ありがとうございます、典厩様!」
「いや、何……そこまで感謝するには及ばぬ」
いたく感激した昌幸からの感謝の言葉にやや照れた様子で、信繁は頬を掻く。
と、
「おい、源五郎」
ふたりの間に割り込むように、信廉が身を乗り出してきた。
「ちなみに、私も私なりの言葉でお屋形様の事をお止めしたのだ。だから、お前は私にも感謝をすべきだと思うぞ」
「逍遥様も?」
訝しげに訊き返す昌幸。
「……というか、逍遥様なりの御言葉とは……一体どんな?」
「ふふん。それはな……」
昌幸の問いかけに、信廉は誇らしげに胸を張りながら答える。
「――『源五郎めは妻を娶ったばかりゆえ、今はとにかく子作りに専念したい時期でありましょう。それなのに、碌に腰を振る間もなく、はるばる越後までお遣いをさせたりしたら、さぞあやつから恨まれてしまいますぞ』……と申し上げたのよ」
「な……っ!」
自慢するような信廉の言葉を聞いた昌幸は、思わず口をあんぐりと開けて絶句し、それから顔面を朱に染めた。
「お、お屋形様に向かって、何を言っておられるのですか、逍遥様ッ! というか……そ、それでは、まるで拙者が好色者のようではないですかッ!」
「別に、好色者とは言うておらぬぞ。若き女子が側に居たらそういう事を致したくなるのは、男なら誰しもが持つ自然の摂理というものよ」
真っ赤な顔で抗議する昌幸を前に、涼しい顔でそう言ってのけた信廉は、信繁の方に顔を向け、「――そうでしょう、次郎兄?」と同意を求める。
「んんッ? ……あ、い、いや、その……」
急に話を振られた格好の信繁は、心底困った様子で言い淀んだ末に大きな咳払いで誤魔化してから、「と、とにかく!」と、話題を逸らすように声を上げた。
「そ……そういう訳だから、越後との和睦の件に関しては、明智十兵衛と同道した曽根が戻ってくるまで棚上げという事になる」
そう言うと、彼は昌幸に向けて微笑みかける。
「恐らく……どんなに早くても年明けを跨ぐ事になろう。それまではのんびりと過ごし、美濃攻めの疲れを癒す事にしようぞ……互いにな」
「……はっ! 畏まりました!」
信繁がかけた温かい言葉に顔を綻ばせながら、昌幸は大きく頷き返したのだった。
信繁の言葉に、昌幸は思わず首を傾げた。
「その……『御内書の求めには応じぬ』と申されましたが、先ほどのお屋形様との話し合いでは、上杉との和睦を進めると決まったはずでは……?」
「ああ、そうだ」
昌幸の問いにあっさり頷く信繁。
そして、彼の答えに当惑の表情を浮かべる昌幸に苦笑いを向ける。
「ははは……そのような顔をするな。御内書の求めを蹴るのは、あくまで上杉家……或いは明智十兵衛が、孫次郎の同行を拒んだ場合のみだ」
「というか……」
信繁の言葉を補うように、信廉も口を開いた。
「実際のところは、越後方も明智も曽根の同道を拒む事は無いだろうから、そのような事態にはなるまいというのが、お屋形様と典厩様の一致した見立てよ」
「そういう事だ」
信廉の言葉に、信繁はコクンと頷く。
「先ほど、お屋形様に御目通りした際の明智十兵衛の様子から考えて、覚慶様……いや、明智は、当家と上杉が和睦する事を心から望んでおるようだ。だから、我らの機嫌を損ねて和睦の話が流れぬよう、こちらの要求や申し出には出来得る限り応じるであろう」
「恐らく……此度の件で目覚ましい成果を上げる事で、将軍家に自分をより高く売り込もうという魂胆があるのでしょうなぁ」
信繁の言葉に頷きながら、信廉はくっくっと笑った。
「何せ、『犬猿の仲』どころか『龍虎の仲』と喩えた方が相応しいほどに拗れまくっている武田と上杉ですから……。そんな両家の手を首尾よく結ばせる事が出来れば、あの男の評価は鰻上りでしょう」
「それに……先ほどのお屋形様とのお話し合いの中でもあったように、上杉方も決して当家との和睦を望んでおらぬ訳ではないようですしね」
信廉の推測に同意を示した昌幸は、考え込むように顎を撫でる。
「であれば……覚慶様の使者である明智殿が同道を許している曽根様を追い返すような真似はしないでしょう。もしそんな事をすれば、当家に対する重大な非礼となり、和睦の交渉どころの話ではなくなりますし……」
「当家だけではない」
信繁は、昌幸の言葉に頷きながらも、更に言葉を継いだ。
「覚慶様から見れば、上杉方のせいで御自身の意向が潰された事になる。それは、覚慶様……いや、足利将軍家の顔に泥を塗るようなものだ」
「上杉輝虎としては、それは是が非でも避けたいところでしょうな。下手をすれば、せっかく七免許を与えられるほどに太くした将軍家との繋がりを自分から断ち切る事になりかねませぬから……」
「確かに……」
ふたりの話を聞いた昌幸は、軽く頭を下げる。
「得心いたしました。斯様な読みがあった上での御決断でしたか」
「そういう事だ」
昌幸の言葉に小さく頷いた信繁は、火鉢の中に手をかざしながら、更に話を継いだ。
「もちろん、ただの道案内だけなら、何も孫次郎でなくとも構わぬだろうが、上杉の動向をそれとなく探るという役目がある以上、目端と機転の利く者でなくば務まらぬ」
「それで、奥近習衆筆頭である曽根を道案内役に……という訳よ」
信繁の言葉を引き継いだ信廉が、したり顔を浮かべる。
「何せ、あやつはお屋形様から『我が耳目』と信頼されている男だからのう。相手方の出方を見極める此度の役目には最適であろう」
「なるほど……」
昌幸は納得した様子で頷いた。
「曽根様なら、確かに適任かと」
「実はの……」
そんな彼に、信廉がニヤリと笑みかける。
「最初、お屋形様は、その役目をお主に任せようと言うておられたのだ」
「拙者に? お屋形様がですか?」
信廉の言葉を聞いた昌幸が、目を丸くした。
そんな彼の問いかけに、信繁が「ああ」と答える。
「『源五郎ならば、越後の内情を他の者には気付かぬところまで見通し、必ずや儂に有益な報せを齎してくれるに違いない』とな」
「……だが、若殿と典厩様が、『まだ美濃から帰陣したばかりなのに、越後に向かわせるのは酷でしょう』と反対して、結局は曽根に白羽の矢が立ったという訳だ」
信廉が、信繁の話を補足するように言った。
それに小さく頷いた信繁は、昌幸の顔を窺うように見ながら尋ねる。
「ひょっとして、余計な口出しだったかな?」
「いえ、滅相も御座りませぬ!」
信繁の問いかけに、昌幸は大きく頭を振った。
「むしろ、典厩様や若殿が拙者如きの身を案じ気遣って頂いたと知り、天にも昇るほどに嬉しゅう御座ります! ありがとうございます、典厩様!」
「いや、何……そこまで感謝するには及ばぬ」
いたく感激した昌幸からの感謝の言葉にやや照れた様子で、信繁は頬を掻く。
と、
「おい、源五郎」
ふたりの間に割り込むように、信廉が身を乗り出してきた。
「ちなみに、私も私なりの言葉でお屋形様の事をお止めしたのだ。だから、お前は私にも感謝をすべきだと思うぞ」
「逍遥様も?」
訝しげに訊き返す昌幸。
「……というか、逍遥様なりの御言葉とは……一体どんな?」
「ふふん。それはな……」
昌幸の問いかけに、信廉は誇らしげに胸を張りながら答える。
「――『源五郎めは妻を娶ったばかりゆえ、今はとにかく子作りに専念したい時期でありましょう。それなのに、碌に腰を振る間もなく、はるばる越後までお遣いをさせたりしたら、さぞあやつから恨まれてしまいますぞ』……と申し上げたのよ」
「な……っ!」
自慢するような信廉の言葉を聞いた昌幸は、思わず口をあんぐりと開けて絶句し、それから顔面を朱に染めた。
「お、お屋形様に向かって、何を言っておられるのですか、逍遥様ッ! というか……そ、それでは、まるで拙者が好色者のようではないですかッ!」
「別に、好色者とは言うておらぬぞ。若き女子が側に居たらそういう事を致したくなるのは、男なら誰しもが持つ自然の摂理というものよ」
真っ赤な顔で抗議する昌幸を前に、涼しい顔でそう言ってのけた信廉は、信繁の方に顔を向け、「――そうでしょう、次郎兄?」と同意を求める。
「んんッ? ……あ、い、いや、その……」
急に話を振られた格好の信繁は、心底困った様子で言い淀んだ末に大きな咳払いで誤魔化してから、「と、とにかく!」と、話題を逸らすように声を上げた。
「そ……そういう訳だから、越後との和睦の件に関しては、明智十兵衛と同道した曽根が戻ってくるまで棚上げという事になる」
そう言うと、彼は昌幸に向けて微笑みかける。
「恐らく……どんなに早くても年明けを跨ぐ事になろう。それまではのんびりと過ごし、美濃攻めの疲れを癒す事にしようぞ……互いにな」
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