甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部九章 慶事

年明けと来訪

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 ――それから数日して、恵林寺に滞在していた明智十兵衛光秀が、越後へと発った。
 数日前に信玄と信繁らが話し合った通り、奥近習衆の筆頭である曽根内匠助昌世が『足利覚慶様の御使者を越後まで道案内する為』という名目で、数名の供を連れて同道した。
 後に信繁が信玄から聞いたところによると、曽根昌世が同道する事を知った際、明智光秀は特に驚く事もなくあっさりと了承したらしい。
 『どうやら、明智十兵衛は、我らが道案内を申し出る事を予見しておったらしい』と、信玄は言っていた。『……どうやら、思っていた以上に頭が切れる男のようだ』とも。

 明智光秀が越後へ発ってからは、何事もなく穏やかな日が過ぎていった。
 武田の領国内で最も緊迫しているのは、言うまでもなく斎藤と織田と境を接している東美濃だったが、城代として烏峰城に拠る馬場美濃守信春が定期的に送ってくる使者によると、木曽川を隔てて対峙する斎藤勢と時折小競り合いが起こる程度らしい。
 織田勢に至っては、国境くにざかい近くのいくつかの砦に数百程度の守備兵を置いただけで、東美濃へ手を出す素振りすら見せていないようである。
 武藤昌幸の元には、織田家に対する為に久々利城へ詰めている真田幸綱から『暇で堪らん』と言わんばかりの書状が届いたらしく、それを読んだ昌幸は、退屈に倦んだ父親が何か碌でもない事を仕出かすのではないかと不安を覚えていた。
 もちろん、幸綱の性格を良く知っている信繁には、それがいかにも彼らしい冗談である事はすぐに分かったのだが、あまりに息子の昌幸が心配している様子なので、彼を安心させる為に『努々油断するな』という、そんな事など分かり切っているであろう幸綱に敢えて釘を刺す書状を送ってやったりしたのだった。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 そうこうしているうちに、年が明け――永禄九年となった。

「父上っ! 入ってよろしいですか?」

 元旦の年賀の挨拶を終えて躑躅ヶ崎館から戻り、屋敷の居間で寛いでいた信繁の耳に、綾の弾んだ声が襖越しに飛び込んできた。
 信繁は無邪気な娘の声に口元を綻ばせたが、彼の隣で酒を注いでいた桔梗が、呆れ顔で襖の向こうに向けて声をかける。

「これ、綾。武家の子女ともあろう者がそのように大声を上げるのは、はしたないですよ」
「あっ……失礼いたしました……」
「ははは、構わぬ」

 窘められてシュンとした綾の声に苦笑しながら、信繁は穏やかに言った。

「入って良いぞ、綾」
「はい……失礼いたします……」

 信繁の許しにオズオズと答えながら、襖を開けた綾が、微かな衣擦れの音を立てながら居間の中に入る。
 下座に両膝を揃えて腰を下ろした綾は、床に手をつき、信繁と桔梗に向かって深々と頭を下げた。
 そんな彼女に軽く頷きかけた信繁は、訝しげに尋ねる。

「……で、一体何事だ? そんなに慌てた様子で」
「はい、それが……」

 父に促された綾は、頭を上げるや、その顔を綻ばせた。

「今、兄上がお帰りになられました!」
「まあ、六郎次郎が」

 綾の言葉を聞いた桔梗が、嬉しそうな声を上げる。
 それを聞いて微笑を浮かべた信繁が、開いた襖に目を向けた。

「そうか。……という事は、襖の向こうに控えているのが、六郎次郎か」
「はっ……さすが父上、良くお分かりで」

 信繁の言葉に、襖の向こうから若い男の驚き混じりの声が上がる。
 照れくさそうな笑みを浮かべながら襖の陰から出てきたのは、果たして信繁の嫡子である武田六郎次郎信豊であった。
 大紋姿の彼は、居間に入ると綾の横に腰を下ろし、両親に向かって深々と首を垂れる。

「父上、母上、新年のお慶びを申し上げます。六郎次郎、ただ今帰りました」
「うむ……」

 久々に会う信豊の精悍な顔つきに驚きと喜びが入り混じった感情が沸き上がるのを感じつつ、信繁は小さく頷いた。

「久しいな、六郎次郎。随分と武士もののふらしき顔になった。以前に会った時とは見違えたぞ」
「……そうですか?」

 信繁の言葉に少し驚いた様子の信豊は、面映ゆげに自分の頬を撫でる。

「自分では、然程さほど変わったようには思えませぬが……」
「お主は、毎日自分の顔を見ているからであろう。三ヶ月ぶりに見た儂から見れば、一目瞭然だ」

 首を傾げている信豊に微笑みかけながらそう言った信繁は、満足げに顎髭を指で擦った。

「……お屋形様から預かった小諸城で、良き経験を積んでおるようだな」
「はっ、それは間違い御座りませぬ」

 信豊は、苦笑いを浮かべながら頷く。

「ですが……正直、未だ城主という立場に慣れませぬ。ひとりでは右も左も分からず、周りの皆の助けを借りて、何とか体裁を整えておるような体たらくで……」
「ふ、最初から上手く出来る者など居らぬさ」

 フッと笑いながら、信繁は言った。

「儂やお屋形様も、初めの頃は板垣駿河 (信方)や横田備中 (高松)らに手取り足取り教えられて、今に到っておる。今は、先達の経験をどんどん取り込んで己のものとするべき時だ。精進せいよ」
「はっ、相分かりまして御座ります!」

 信繁の温かな言葉に、信豊は表情を輝かせて元気の良い声を上げる。
 そんな息子に、信繁も顔を綻ばせた。
 と、

「ところで、六郎次郎殿。今日着いたのですか? てっきり、遅くとも大晦日までには参られると思っておりましたが……」
「あ、母上、それはですね……」

 訝しげな桔梗の問いかけに、信豊は頭を掻きながら答える。

「実は、若神子 (現在の山梨県北杜市須玉町)で酷い吹雪に遭いまして……そのせいで二日ほど足止めを食らい、着到が遅れてしまいました」
「まあ、そうだったのですか。それは大変でしたね」

 信豊の答えを聞いた桔梗は、目を丸くしながら労りの言葉をかけた。
 その一方で、

「もうっ! だったら、なぜもっと早く城を出なかったのですかっ?」

 信豊の傍らで、綾がプンプンと怒る。

「兄上は、いつもギリギリまで動こうとしないんですから……そんな事では、戦の時にも遅れてしまいますよ!」
「だ、だが……そうは言っても、向こうで色々と雑事があったし、それに……」
「言い訳しないっ!」
「……すまん」

 妹に一喝され、不承不承謝る信豊。
 と、その時、

「――いや、申し訳ない、綾殿。遅れたのは、半分は私のせいでもあるのです」
「――ッ!」

 今の外から上がった涼やかな声を耳にした綾は、驚きの表情を浮かべた。

「し……四郎さまッ? それに……ご、五郎さままでっ?」
「ははは、ご無沙汰しております、綾殿」
「新年お慶び申し上げます」

 上ずった綾の声に苦笑しながら居間に入ってきたのは、信繁の甥である諏訪四郎勝頼と、彼の異母弟である仁科五郎盛信である。
 信豊たちの隣に座ったふたりは、信繁たちに恭しく一礼してから、綾に向けて弁解するように言った。

「実は、高遠で面倒な公事 (裁判)を片付けておりまして、六郎次郎殿を待たせてしまっていたのです。それが無ければ、あの吹雪に足を止められて遅参する事も無かった訳で……誠に申し訳ございません」
「い、いえっ!」

 勝頼の謝罪の言葉を聞いた綾は、顔を真っ赤にしながら、激しく首を左右に振る。

「そ、そういう事でしたら仕方ありませんわ! 四郎さまがお謝りになることはありません!」

 そう上ずった声で言った綾は、信豊の顔をキッと睨んだ。

「もうっ! 兄上ッ、四郎さまと五郎さまがごいっしょなら、先にそう言って下さいませッ!」
「い、いや……先にも何も、部屋に入ってきた途端にお前から説教されたから、言う暇が無かったのだが……」
「言い訳しないッ!」
「……はいはい、俺が悪かったよ」

 綾の剣幕に辟易しながら、申し訳程度に頭を下げた信豊は、彼女から気付かれぬようにこっそり溜息を吐き、「やれやれ……」とぼやくのだった。
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