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第二部九章 慶事
責と責任
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その日の夜――。
信繁の屋敷の居間で、新年を祝うささやかな祝宴が催された。
「では……皆無事に新しい年を迎えられた事を祝し――乾杯」
「「「乾杯」」」
信繁の音頭に応え、信豊たちが笑顔を浮かべながら捧げ上げた盃を飲み干す。
焼き魚や漬物に加え、正月らしく餅の浮いた雑煮が並べられた膳に干した盃を置いた信繁は、勝頼に向けて声をかけた。
「四郎よ。腕の傷の具合はどうだ?」
「あ……はい」
信繁の問いかけに、勝頼は飲みかけの盃を膳に置き、大紋の袖を捲って左の手首を見せる。
「御覧の通りです。おかげさまで、今では痛む事も無くなり、すっかり良くなりました。美濃から戻った後、下諏訪の毒沢 (現在の長野県諏訪郡下諏訪町)の湯に浸かったのが良かったようです」
「ほう、毒沢か」
彼の答えを聞いた信繁は、顎髭を撫でながら感嘆の声を上げた。
「あそこは確か、怪我をした金堀衆の治療に使われていたはずだが、打ち身にも効くのか」
「ええ。効果覿面でした」
信繁の問いに、勝頼は笑顔を浮かべながら頷く。
「お屋形様が、あの地一帯の名を“毒沢”に変えてまで、他の者からあの湯の存在を隠しておられる理由が解りました」
そう言うと、彼はフッと表情を緩めた。
「……そんな隠し湯を使う事を、此度の戦で私が負傷した事を知ったお屋形様と若殿が、特別にお許し下さったのです」
「そうか」
そう言った勝頼の顔に何とも言えぬ嬉しそうな表情が浮かぶのを見て、信繁の頬も緩む。
「良かったな、四郎」
「はい」
信繁の言葉に、大きく頷く勝頼。
……と、彼は居ずまいを正し、座ったままで後ろににじり下がると、信繁に向けて深々と頭を下げた。
「……それより、前の戦では大変なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳御座いませんでした」
「ん? いきなりどうした?」
突然の勝頼の謝罪に、信繁は戸惑いながら訊き返す。
「苗木の戦で手傷を負って帰陣した事を申しておるのなら、気にする事は無いぞ。戦で傷を負うのは仕方のない事だ。別に謝る事では……」
「いえ……その件ではなく」
信繁の言葉に頭を振った勝頼は、沈んだ顔で言葉を継いだ。
「……我が直臣であった小原丹後守 (継忠)が、典厩様の許しも得ずに抜け駆けをし、御味方全体を危地に陥れかけた事です」
「……ああ、そっちの方か」
勝頼の答えを聞いて、一瞬表情を曇らせた信繁だったが、すぐにわざとらしく首を傾げてみせる。
「はて……? 儂は、小原丹後が抜け駆けをしたとは一言も申しておらぬぞ。お屋形様にもな」
「……烏峰の戦で手傷を負って高遠へ戻された諏訪衆の口から、戦のあらましを聞きました。……小原丹後守の抜け駆けの件も」
しらばっくれる信繁にそう答えると、勝頼はさらに深く頭を垂れた。
「いかに仕出かしたのが小原だといえど、あやつに手勢を任せたのは、他ならぬ私です。であれば、小原が犯した失態の責は、私も負うべきで――」
「重ねて言うぞ、四郎」
信繁は、少し険しさを帯びた声で勝頼の言葉を遮る。
そして、ハッとして顔を上げた勝頼の顔を真っ直ぐに見据え、噛んで含めるように言った。
「気にするな」
「……!」
「確かに、小原丹後の抜け駆けは軽率であり、責められるべき事なのかもしれぬ。だからと言って、いくら小原の寄親といえど、その場に居なかったお主の責める気など、儂には無い」
「典厩様……」
「……だからといって、小原の寄親であるお主に責が無い訳ではないし、綺麗さっぱり忘れて構わぬとも言うてはおらぬからな」
そう言って勝頼に鋭い目を向けながら、信繁は厳しい声で続ける。
「……先ほどお主が申した通り、小原の行動の責は、お主にもある。理不尽かもしれぬが、人の上に立つ以上、下の者のあらゆる行動に対して責任を持たねばならぬ」
「でしたら……やはり、小原の上に立つ私にも何らかの罰が下るべきでは――?」
「責の取り方は、処罰を受けるのみではない」
「……!」
信繁の言葉に、勝頼は息を呑んだ。
そんな彼の顔を隻眼でじっと見据えながら、信繁は更に言葉を継ぐ。
「少なくとも、儂はそう思うておる。だから、“お主を責める気は無い”と申したのだ」
そこで一旦口を噤んだ信繁は、傍らで桔梗が盃に注いだ酒を一口飲んでから、再び言葉を紡いだ。
「……お主がすべき“責の取り方”とは――忘れぬ事だ」
「忘れぬ……事……?」
「そうだ。此度の事を決して忘れるな。そして、二度と同じ過ちを配下……そして自分自身が繰り返す事の無いよう、肝に銘じるのだ」
「……!」
信繁の言葉に、それまで怪訝な表情を浮かべていた勝頼の表情が引き締まる。
彼の表情の変化を見た信繁は、フッと表情を緩めた。
「それこそが、“上に立つ者”としての責の取り方だ。――そして、此度の戦での諏訪衆……そして、小原丹後の犠牲に報いる唯一の事と心得よ。良いな、四郎」
「……はっ!」
勝頼は、信繁の言葉に表情を輝かせながら、大きな声で応える。
――その目は、心なしか潤んでいた。
「この諏訪四郎勝頼、此度の典厩様のお言葉を心に、今後も武田家の一部将として忠勤に励んで参ります!」
「おう」
彼の言葉に微笑んだ信繁は、甥の上気した顔を頼もしげに見つめながら、穏やかな声をかける。
「武田家の副将として……そして、叔父として、お主が立派な将として成長してくれるのを楽しみにしておるぞ」
「はっ! どうぞご期待下さいませ!」
覇気に満ちた勝頼の力強い返事に、信繁は満足げに頷くのだった。
信繁の屋敷の居間で、新年を祝うささやかな祝宴が催された。
「では……皆無事に新しい年を迎えられた事を祝し――乾杯」
「「「乾杯」」」
信繁の音頭に応え、信豊たちが笑顔を浮かべながら捧げ上げた盃を飲み干す。
焼き魚や漬物に加え、正月らしく餅の浮いた雑煮が並べられた膳に干した盃を置いた信繁は、勝頼に向けて声をかけた。
「四郎よ。腕の傷の具合はどうだ?」
「あ……はい」
信繁の問いかけに、勝頼は飲みかけの盃を膳に置き、大紋の袖を捲って左の手首を見せる。
「御覧の通りです。おかげさまで、今では痛む事も無くなり、すっかり良くなりました。美濃から戻った後、下諏訪の毒沢 (現在の長野県諏訪郡下諏訪町)の湯に浸かったのが良かったようです」
「ほう、毒沢か」
彼の答えを聞いた信繁は、顎髭を撫でながら感嘆の声を上げた。
「あそこは確か、怪我をした金堀衆の治療に使われていたはずだが、打ち身にも効くのか」
「ええ。効果覿面でした」
信繁の問いに、勝頼は笑顔を浮かべながら頷く。
「お屋形様が、あの地一帯の名を“毒沢”に変えてまで、他の者からあの湯の存在を隠しておられる理由が解りました」
そう言うと、彼はフッと表情を緩めた。
「……そんな隠し湯を使う事を、此度の戦で私が負傷した事を知ったお屋形様と若殿が、特別にお許し下さったのです」
「そうか」
そう言った勝頼の顔に何とも言えぬ嬉しそうな表情が浮かぶのを見て、信繁の頬も緩む。
「良かったな、四郎」
「はい」
信繁の言葉に、大きく頷く勝頼。
……と、彼は居ずまいを正し、座ったままで後ろににじり下がると、信繁に向けて深々と頭を下げた。
「……それより、前の戦では大変なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳御座いませんでした」
「ん? いきなりどうした?」
突然の勝頼の謝罪に、信繁は戸惑いながら訊き返す。
「苗木の戦で手傷を負って帰陣した事を申しておるのなら、気にする事は無いぞ。戦で傷を負うのは仕方のない事だ。別に謝る事では……」
「いえ……その件ではなく」
信繁の言葉に頭を振った勝頼は、沈んだ顔で言葉を継いだ。
「……我が直臣であった小原丹後守 (継忠)が、典厩様の許しも得ずに抜け駆けをし、御味方全体を危地に陥れかけた事です」
「……ああ、そっちの方か」
勝頼の答えを聞いて、一瞬表情を曇らせた信繁だったが、すぐにわざとらしく首を傾げてみせる。
「はて……? 儂は、小原丹後が抜け駆けをしたとは一言も申しておらぬぞ。お屋形様にもな」
「……烏峰の戦で手傷を負って高遠へ戻された諏訪衆の口から、戦のあらましを聞きました。……小原丹後守の抜け駆けの件も」
しらばっくれる信繁にそう答えると、勝頼はさらに深く頭を垂れた。
「いかに仕出かしたのが小原だといえど、あやつに手勢を任せたのは、他ならぬ私です。であれば、小原が犯した失態の責は、私も負うべきで――」
「重ねて言うぞ、四郎」
信繁は、少し険しさを帯びた声で勝頼の言葉を遮る。
そして、ハッとして顔を上げた勝頼の顔を真っ直ぐに見据え、噛んで含めるように言った。
「気にするな」
「……!」
「確かに、小原丹後の抜け駆けは軽率であり、責められるべき事なのかもしれぬ。だからと言って、いくら小原の寄親といえど、その場に居なかったお主の責める気など、儂には無い」
「典厩様……」
「……だからといって、小原の寄親であるお主に責が無い訳ではないし、綺麗さっぱり忘れて構わぬとも言うてはおらぬからな」
そう言って勝頼に鋭い目を向けながら、信繁は厳しい声で続ける。
「……先ほどお主が申した通り、小原の行動の責は、お主にもある。理不尽かもしれぬが、人の上に立つ以上、下の者のあらゆる行動に対して責任を持たねばならぬ」
「でしたら……やはり、小原の上に立つ私にも何らかの罰が下るべきでは――?」
「責の取り方は、処罰を受けるのみではない」
「……!」
信繁の言葉に、勝頼は息を呑んだ。
そんな彼の顔を隻眼でじっと見据えながら、信繁は更に言葉を継ぐ。
「少なくとも、儂はそう思うておる。だから、“お主を責める気は無い”と申したのだ」
そこで一旦口を噤んだ信繁は、傍らで桔梗が盃に注いだ酒を一口飲んでから、再び言葉を紡いだ。
「……お主がすべき“責の取り方”とは――忘れぬ事だ」
「忘れぬ……事……?」
「そうだ。此度の事を決して忘れるな。そして、二度と同じ過ちを配下……そして自分自身が繰り返す事の無いよう、肝に銘じるのだ」
「……!」
信繁の言葉に、それまで怪訝な表情を浮かべていた勝頼の表情が引き締まる。
彼の表情の変化を見た信繁は、フッと表情を緩めた。
「それこそが、“上に立つ者”としての責の取り方だ。――そして、此度の戦での諏訪衆……そして、小原丹後の犠牲に報いる唯一の事と心得よ。良いな、四郎」
「……はっ!」
勝頼は、信繁の言葉に表情を輝かせながら、大きな声で応える。
――その目は、心なしか潤んでいた。
「この諏訪四郎勝頼、此度の典厩様のお言葉を心に、今後も武田家の一部将として忠勤に励んで参ります!」
「おう」
彼の言葉に微笑んだ信繁は、甥の上気した顔を頼もしげに見つめながら、穏やかな声をかける。
「武田家の副将として……そして、叔父として、お主が立派な将として成長してくれるのを楽しみにしておるぞ」
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