甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部九章 慶事

雑煮と濁り酒

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 「……っと」

 そこで、信繁はハッとした表情を浮かべて、神妙な顔をして彼の話を聞いていた一同を見回した。

「あぁ、すまぬな。せっかくの元旦だというのに、説教じみた話をしてしまった」

 そう言って苦笑いを浮かべた彼は、膳に並べて置かれていた朱塗りの箸を手に取る。

「さあ、お主らも存分に食べてくれ。桔梗と綾が腕によりをかけて作ってくれた料理だ。贔屓目なしに美味いぞ」
「はっ!」

 信繁の言葉に元気よく返事し、ほくほく顔で雑煮の椀を手に取ったのは、信豊だった。

「では、遠慮なく戴きます!」
「ええ、どうぞ」

 言葉通りに遠慮の欠片もなく雑煮の餅にかぶりつく信豊へ、桔梗は微笑みを浮かべながら嬉しそうに頷く。
 勝頼と盛信も、互いの顔を見合わせてから、少し遠慮がちに雑煮の椀に口をつけた。
 ――と、雑煮の汁を口に含んだふたりの目が、大きく見開かれる。

「これは……!」
「美味しい……!」
「あぁ、それ良うございました」

 ふたりが漏らした驚きと感動が綯い交ぜになった声を聞いて、桔梗はホッと胸を撫で下ろす。

「おふたりの舌に、この味付けが合うかどうか、少し心配だったのですが……」

 そう言うと、桔梗は娘の綾に向けて微笑みかけた。

「良かったですね、綾」
「はいっ!」

 盛信の傍らに座っていた綾は、母の言葉に満面の笑みを浮かべながら頷く。
 そんな娘に小さく頷き返した桔梗は、勝頼と盛信に向けて言った。

「……実は、この雑煮は綾が作ったのですよ。味付けから何まで全部」
「何と、そうだったのですか」

 桔梗の言葉を聞いて、目を丸くする勝頼。

「驚きました。とても美味しいので、てっきり叔母上のお手によるものかと……」
「私もです」

 勝頼に続いてそう言った盛信は、横に座る綾に向けてはにかみ笑いを向ける。

「とても美味しいです、綾どの。感動しました」
「ご、五郎さま……! か、感動って……ホントですか?」
「はい、本当に」

 頬を赤く染めながら、それでも半信半疑といった顔で訊き返す綾に、盛信は大きく頷いた。
 彼が浮かべた優しい笑みを目の当たりにした綾は、頬どころか顔全体を鬼灯ほおずきよりも真っ赤にし、「あ、え、ええと……そ、その……」と言葉にならない言葉を漏らす。
 と、

「おい、綾」

 激しく目を瞬かせている妹に、信豊が酒の入った片口を指し示しながら声をかけた。

「兄に酒をいでくれぬか?」
「……ご自分でついでくださいませ、兄上」

 せっかくの盛信との会話を邪魔された格好の綾は、あからさまにムッとしながら、冷たく答える。

「今、あやは五郎さまのお相手をしていて、それどころでは――」
「おいおい、いいのか?」

 だが、そんな妹のつれない態度にも堪えた様子も無く、信豊はニヤリと笑いながら言った。
 そんな兄の反応を見た綾は、怪訝な表情を浮かべながら首を傾げる。

「いいのか……って、なにがですか?」
「誰のおかげで、五郎殿にお前の作った雑煮を食ってもらえたと思っておるのだ?」
「……あ」
「この兄がおふたりの事を誘わなければ、五郎殿がここに来る事は無く、お前が雑煮の出来を五郎殿に褒められる事も無かったという事だ。もう少し、兄に感謝の気持ちを示してもらってもバチは当たらんと思うがなぁ」
「…………おつぎいたします、兄上!」

 信豊の言葉を聞いた綾は、先ほどまでのつれない態度から一変、機敏な動きで片口を手に取り、信豊の盃になみなみと注ぎ込んだ。

「さあ! ぞんぶんにお飲みくださいませ! おかわりもどうぞ!」
「ちょ、ちょっと待て! ま、まだ飲んでないから……」
「さあさあ! お早くお飲みくださいませ! 次のおかわりがつかえていますよ!」
「だ、だから待てって!」

 傾けた盃にも酒を注ごうとする勢いの綾に辟易しながら、信豊は慌てた声で妹を制止する。
 そんな兄妹のやり取りを、微笑みを浮かべながら見ていた勝頼だったが、

「――ほら、四郎。盃を出せ」
「えっ?」

 不意に声をかけられた事に驚きながら振り返ると、片口を手にした信繁が目の前にいた。
 信繁が自分の盃に酒を注ごうとしている事に気付いた勝頼は、慌てて首を横に振る。

「い、いえ、結構に御座ります! 典厩様から酌を頂くなど畏れ多く……」
「ははは、左様に堅苦しい事を申すな」

 恐縮する勝頼に笑いかけた信繁は、構わず膳に置かれた甥の盃に酒を注いだ。

「あと、典厩は止せ。ここは躑躅ヶ崎館ではない。儂の屋敷だ。この場での儂とお主らは、ただの叔父と甥でしかない」
「……!」
「……善し」

 目を大きく見開く勝頼をよそに盃に酒を注ぎ終えた信繁は、満足げに頷く。
 そんな叔父に勝頼は一礼すると、すっと手を伸ばした。

「私もお注ぎします、典きゅ……いえ、
「……ああ」

 勝頼の言葉にフッと相好を崩した信繁は、持っていた片口を彼に渡す。
 そして、体を捻って自分の膳の上に置いてあった盃に手を伸ばし、盃を一気に呷って残っていた酒を飲み干すと、勝頼に向けてずいっと差し出した。

「それでは、喜んで受けるとしよう、我が甥からの酌をな」
「はっ」

 信繁の口から出た“我が甥”という言葉に、勝頼は端正な顔を綻ばせながら片口を傾けた。
 片口から注がれた濁り酒が、朱塗りの盃を白く染めていく。

「……うむ、そのくらいで」
「はい」

 信繁の声に頷いて片口を置いた勝頼は、自分の盃を手に取った。

「では……」
「うむ」

 盃を掲げ、互いの目を見交わしたふたりは、

「――乾杯」
「乾杯」

 と声を掛け合って盃を一気に飲み干し、万感の籠った穏やかな微笑みを浮かべるのだった。
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